79話 交わした約束 前編
79話 交わした約束 前編
シリルはしばらくエレノアを見つめた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……無理はするな」
「はい」
「異変があれば、すぐ戻れ」
「分かりました」
「オーウェン」
呼ばれたオーウェンが、いつになく真剣な顔で応じた。
「任せろ」
シリルの視線が、今度はリアナへ向く。
「リアナ」
「分かってる」
彼女も短く頷いた。
「エレノア様から目を離さない」
二人の返事を聞いても、シリルの表情は完全には和らがなかった。それでも、自分の不安を理由に任務を止めることはしない。
「頼む」
低い声だった。
エレノアは一度だけ頷いた。
「シリル様も、どうかお気をつけて」
「ああ」
四つの隊が、それぞれの通路へ分かれていく。
エレノアは何度も振り返りたい衝動を堪えた。
信頼の試練で交わした言葉が蘇る。見えなくても信じて進む。前だけを見る。
そのつもりだった。
けれど、数歩進んだところで。
「エレノア嬢」
背後から本物の声が届いた。
振り返ると、シリルはまだ西側の通路へ入らず、こちらを見ていた。
「必ず戻れ」
短い言葉だった。
命令のようで、けれど、声の奥には隠しきれない何かがあった。
――この任務が終わったら、話したいことがある。
昨日告げられた言葉が胸へ蘇る。
エレノアは柔らかく微笑んだ。
「はい。シリル様も、必ず」
一瞬だけ視線が重なる。
それから二人は、それぞれの道へ向き直った。
◇
北へ続く通路は、巨大な透明管に沿うように延びていた。
左側には壁。右側には、縁すらない深い空間。その遥か下方を、いくつもの水路が交差している。
落ちれば助からないだろう。
オーウェンが先頭に立ち、足場と頭上の管を交互に確認する。その後ろをエレノアが進み、リアナはエレノアの背後につき、最後尾に二人の騎士が『知恵』の石板を運んでいた。
「足元へ注意してください。なるべく通路の中央を歩きましょう」
リアナが声を掛ける。
「はい」
壁の内側を走る細い光が、一行の進行に合わせて順に灯っていく。
すでに長い年月、誰も通らなかったはずだ。それでも装置は、まるで調律の時を知っていたかのように、彼らのための道を示している。
しばらく進むと、巨大な管が頭上から右側へ湾曲していた。透明な外壁の中を、濁りのない水が激しい勢いで流れている。
見上げたエレノアは、その管が簡易設計図のどこに当たるのかを頭の中で照らし合わせた。
北方へ水を送る主流路。中央の分岐弁から流れを受け、さらに複数の地方へ水を分ける管だ。
「この先に台座があります」
エレノアが告げる。
「概略図では、次の円形足場を越えた先です」
オーウェンが振り返らずに応じた。
「あと少しだな」
その時だった。
――ピシッ。
小さな音。
あまりにも僅かで、水音に紛れてしまいそうな響きだった。
それとほぼ同時に、ほんの一瞬、通路が青白い光に照らされた。
エレノアが足を止める。
「……今のは?」
オーウェンも立ち止まった。
リアナが周囲へ鋭く視線を巡らせる。
「石の割れる音……?」
もう一度。
――ピシッ
今度は、はっきりと聞こえた。
頭上ではない。
すぐ横の通路に沿って走る透明な主水管。
その管全体へ青白い警告光が現れる。
エレノアが顔を向けると、すぐ横を走る透明な主水管の表面に、髪の毛ほどの細い亀裂が生じていた。
――ピシッ
――ミシ……
その亀裂が、蜘蛛の巣のように広がり始める。
「下がって!」
リアナの声が響く。
「通路を戻ろう!」
オーウェンがエレノアの腕を取ろうとする。
だが次の瞬間、透明な管の内側で水が激しく渦巻き、亀裂の隙間から細かな飛沫が噴き出した。
◇
西側の通路を進んでいたシリルが異変に気づいたのは、壁を走る光が突然明滅した時だった。
北側の主水管に灯った青白い警告光が、巨大な装置の中央を越え西側の通路にまで走ってくる。続いて、足元へそれまでとは異なる微かな振動が伝わった。
シリルの視線が鋭く上がる。
「隊長?」
「北側で異常だ」
中央へ引き返していては間に合わない。
シリルは眼下へ伸びる下層の連絡路を見た。半球状の装置で確認した概略図には、主水路の下を横切り、西と北を繋ぐ細い経路が描かれていた。
上から向かうより、こちらの方が近い。
「石板を守って中央へ戻れ! 団長へ報告しろ!」
走りながら指示を飛ばし、シリルは階段を駆け下りた。
西側の通路から下層の連絡路へ、そして、北側の主流路の下へ。概略図どおりに繋がっていたとしても、距離はある。間に合う保証などない。
それでも。
胸の奥で、警鐘が鳴り続けていた。
――必ず戻れ。
つい先ほど交わしたばかりの約束。
絶対に、失うわけにはいかない。
◇
――バキン!
透明な管が弾けた。
細主水管に押し込められていた膨大な水が、裂け目から一気に噴き出し白い柱となって通路へ叩きつけられる。
「エレノア様!」
リアナが即座に手を伸ばす。
だが、その前に水流がエレノアの身体を直撃した。
リアナの指先が、あと僅かのところで届かない。
「っ――!」
息をする間もなかった。
足が床から離れる。
身体が横へ押し流され、通路の縁へ叩きつけられる。
指先が滑らかな石を掴もうとする。
けれど、何も引っかからない。
足元から床が消える。
その瞬間。
「エレノア嬢!」
前方にいたオーウェンが踏み込むと同時に腕を伸ばし、流されるエレノアの手を掴む。
だが、破裂した管から噴き出す激流が、オーウェンの身体にも横から叩きつけられた。
「ぐっ……!」
足が滑る。
肩が大きく持っていかれ、掴んでいたエレノアの手が濡れた指の間からずれた。
「っ、待て!」
握り直そうとする。
けれど、水の勢いはそれを許さなかった。
指先が離れる。
「エレノア嬢!」
オーウェンの叫びが、水音に掻き消される。
同時にオーウェン自身も水に押され、身体の半分を縁の外へ持っていかれる。
「オーウェン!」
リアナの声が響く。
オーウェンは咄嗟に反対の手を伸ばした。
指先が通路の縁へ掛かる。
「っ……!」
身体が宙へ傾く。
それでも腕へ力を込め、辛うじて自分の身体を石床へ引き戻した。
だが、エレノアの姿はもう通路の下へ消えていた。
下には、何十メートルもの空間。
そのさらに下を、無数の水路と金属の輪が動いている。
落ちれば。
助からない。




