72話 星が導く場所
第72話 星が導く場所
王城資料室は、昼なお薄暗かった。
天井まで届く書架には、年代ごとに整理された史料や地図が隙間なく収められている。高窓から差し込む光だけでは足りず、室内には幾つもの蝋燭が灯されていた。
中央の大きな閲覧机には、四枚の石板を並べた際に現れた図の写しと、星鏡庭園で記録した星図が広げられている。
石板の縁に刻まれていた細い文様は、四枚を正しく並べることで初めて一つの図となった。
中央に一つの点。その周囲を取り囲む四つの点と、さらに外へ伸びる一本の線。その先には、小さな印が置かれている。
その配置は、星鏡庭園で見た星図と驚くほどよく似ていた。
エレノアは机の前に立ち、隣ではアルヴィンが資料を広げている。少し離れた場所にはシリルが控え、扉と窓の双方へ静かに目を配っていた。
「まずは、現在の地図から確認しましょう」
アルヴィンが大判の地図を机へ広げた。
王都を中心に、周辺の街道や河川、そしてこれまで訪れた四つの遺構の位置が書き込まれている。
「この中央点を王都と仮定してみます」
エレノアは石板の図と地図を見比べた。
中央の点を王都へ合わせ、その周囲の四点が、これまで石板を得た四つの遺構を示しているのではないかと考え、位置を重ねてみる。
しかし、すぐに違和感が生じた。
「……違います」
アルヴィンも地図の向きを変えて確認したが、やがて首を横へ振る。
「位置関係は似ていますが、距離が一致しませんね」
「星同士の距離を、そのまま地上の距離へ置き換える必要はないのかもしれません」
「では、こちらはどうでしょう」
次に広げられたのは、古代ヴァレシア王国末期の復元地図だった。羊皮紙には幾つもの補修跡があり、失われた地名や河川が、現存する史料を基に書き起こされている。
だが、それも一致しなかった。
アルヴィンはさらに、建国初期の地図や古い河川を推定した地勢図、失われた街道の復元図を次々と取り出した。向きを変え、縮尺を確かめ、中央点を何度も合わせ直してみる。
それでも、どの地図にも石板の図は重ならなかった。
「……合いませんね」
机の端には、確認を終えた地図が幾重にも積み上がっている。アルヴィンはそれらから目を離し、石板の図の写しを見つめた。
「星鏡庭園の図とは、これほど正確に一致する。それなのに、どの時代の地図とも合わない……」
「はい……」
エレノアも、目の前に広げられた資料を見比べた。
石板から現れた図。星鏡庭園から写し取った星図。そして、何度重ねても一致しない地図。
どこかで、考え方を間違えている。
星鏡庭園の星図とは、間違いなく同じ形だった。ならば、疑うべきなのはこの図ではない。
エレノアの視線が、机いっぱいに広げられた地図へ落ちた。
川の流れ。
街道。
町の位置。
国境を示す線。
どれも、人が地上へ記したものだった。
「……国は、滅びます」
不意にこぼれた言葉に、アルヴィンが顔を上げた。エレノアは地図から目を離さないまま続ける。
「街も失われます。道も、時代とともに変わります」
指先が、古い地図に描かれた一本の河川を辿った。現在の地図では、流れが大きく変わっている川だった。
「川でさえ、長い年月のうちには流れる場所を変えることがあります。森も広がり、人々が使わなくなった地名は忘れられてしまう」
数千年先へ、場所を伝えるために。
ヴァレシアの人々は、地上の景色だけを頼りにした地図を残すだろうか。時が経ち、景色が変われば意味を失ってしまうようなものを。
「そもそも……なぜ私たちは、これを地図だと思ったのでしょう」
アルヴィンが眉を寄せた。
「四つの点が、石板のあった遺構を思わせたからでしょう」
「はい。けれど、石板には一度も、これが地上の地図だとは記されていません」
エレノアは星鏡庭園の写しへ手を伸ばした。
中央の大きな星と、その周囲を巡る四つの星。遥かな昔の人々も見上げていたはずの、夜空の形。
その時、幼い頃、父の書斎で聞いた言葉が蘇った。
――星空は、昔も今も変わらない。
――古代の人々も、きっと同じ空を見上げていたはずだ。
エレノアの指先が、星図の上で止まる。
「アルヴィン先生」
顔を上げたエレノアの翡翠色の瞳には、先ほどまでなかった光が宿っていた。
「国も、街も、道も、川の流れも、地上の景色は永遠には同じ姿を保てません」
「ええ……」
「ですが」
星図の中央へそっと指を置き、静かな確信を込めて告げる。
「星は違います」
アルヴィンの瞳が大きく開いた。
「星は、地上の景色に比べれば遥かに長く、同じ形を保ち続けます。国が滅びても、町の名が失われても、地上の道が消えても――夜空を見上げれば、同じ星を見つけることができる」
「……だから、星を使った」
「はい」
エレノアは大きく頷いた。
「遥かな未来へ道を残すために。古代の人々は、変わってしまう地上ではなく、空へ道標を置いたのではないでしょうか」
数百年。
数千年。
文明が滅び、国の名が失われ、地上の景色が変わっても。
人々が夜空を見上げる限り、
星は変わらぬ道標として未来を照らし続ける。
「見事です……」
アルヴィンの声には歴史家としての純粋な感嘆が滲んでいた。
「これなら、どれほど時代が移り変わっても、後世の者へ同じ方角を示せる」
だが、エレノアは星図から目を離さなかった。
「ですが、まだ足りません」
「ええ。この星図が、地上のどこを指すものなのかを突き止めなければなりません」
だが先ほどまでとは違い、完全な行き止まりではない。進むべき方向は見え始めていた。
二人は石板の図と星鏡庭園の記録を改めて照らし合わせる。
星鏡庭園では、星の位置だけではなく、庭園の中央を基準とした方位も記録してあった。石板の中央点をそこへ重ねれば、外へ伸びる一本の線が指している方角は明らかだった。
「……西です」
エレノアは、その線の先に置かれた小さな印を見つめた。
星鏡庭園が王城内に造られていたことを考えれば、これは王都を起点として西へ進めという意味なのかもしれない。
「今度は町や街道ではなく、地形を調べましょう」
「地形ですか」
「山や谷のように、街や道より長く残るものです。星が方角を示し、地形が最後の目印になっているのかもしれません」
アルヴィンの口元に、静かな笑みが浮かんだ。
「ええ。それが正しいでしょう」
王城資料室には歴代の国王が命じた国土調査をはじめ、河川の氾濫記録や森林、丘陵を記した測量図が数多く保存されていた。その量は膨大だった。
二人は王都西方に範囲を絞り、年代を問わず地形が詳しく記された資料を探した。
広げられた地勢図には、城壁の外へ延びる街道や小さな村々、なだらかな丘と森、その先へ続く尾根が描かれている。
石板の図には外へ伸びる線の周囲に円を描くような曲線があり、その先には二つに分かれたあと再び合流する線と、三つの尖った印が並んでいた。
「この二本は川でしょうか」
「谷の可能性もあります」
「三つの印は、山か丘陵……」
王都から西。二つの流れが分かれ、再び一つになる場所。その近くに並ぶ三つの丘。
だが、現代の地図には条件の合う場所が見当たらなかった。年代を遡っても同じだった。
午後の日差しが傾く頃には、机の周囲へ何十本もの地図筒が並んでいた。森林調査、街道の建設計画、過去の水害図――一枚ずつ確認していくが、求める地形は見つからない。
「……こちらも違います」
エレノアは唇を結んだ。
あと少し。
あと少しで届きそうなのに、最後の手掛かりが見つからない。
アルヴィンも積み上がった資料を見つめた。
「正式な地図には、載っていないのかもしれません」
「正式な地図……」
その言葉に、エレノアの手が止まった。
公的な地図へ記されるのは必要と判断されたものだけだ。町、道、農地、軍事上重要な地形。
反対に、用途が分からず価値もないと判断された遺構は、現地で確認されても完成図から省かれた可能性がある。
「正式に採用されなかった調査記録はありませんか?」
アルヴィンが顔を上げる。
「地図を作る前に、調査官が現地で残した記録です。重要ではないと判断され、完成した地図には載せられなかった場所があるかもしれません」
アルヴィンの表情が変わった。
「……あります」
彼はすぐに立ち上がる。
「王国初期の国土調査で作られた、未整理の野外記録です。正式な資料へ編纂されなかったものは、地下の旧記録庫に保存されているはずです」
シリルが即座に口を開いた。
「案内を」
「閲覧には許可が必要です」
「取る」
迷いのない返答だった。
シリルは入口を守る騎士へエリオットに連絡するよう命じる。ほどなく閲覧許可が下り、鍵を携えたエリオットも合流した。
エレノアたちは必要な星図の写しだけを手に、王城地下へ向かった。
◇
冷たい空気の流れる階段を前に、シリルが先へ出る。
「俺が先に行く」
その背中を追いながら、エレノアは静かに息を整えた。
旧記録庫へ続く階段は長い年月に磨かれ、中央だけがわずかに窪んでいた。先頭のシリルが足元と周囲を確認しながら進み、その半歩後ろをエレノア、さらにアルヴィンとエリオットが続く。
階段を下りきった先には、重い鉄扉があった。エリオットが鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
――ガチャン。
重い音が地下へ響いた。
「下がれ」
シリルが扉の前へ立ち、エレノアたちが距離を取ったことを確かめ、扉へ手を掛ける。
軋む音とともに、冷えた空気と古い紙の匂いが流れ出した。
先に内部へ入り、天井や壁際、積まれた箱の陰まで確認してから振り返る。
「入っていい」
旧記録庫は、低い天井の下へ古い木製棚が幾列も並び、羊皮紙の束や地図筒、革紐でまとめられた報告書が積み上げられていた。
「王都西方、森林、河川、古い遺構。この辺りの記載を探しましょう」
アルヴィンの言葉に、エレノアも頷く。
「私は地形の記録を確認します」
「一人で奥へ行くな」
シリルがすぐに告げた。
「はい」
「棚へ登るな」
「……はい」
僅かに遅れた返答に、青い瞳が細められる。
「届かない時は呼べ」
「分かりました」
それを確認すると、シリルも箱に記された地域名を見ながら資料を二人のもとへ運び始めた。
だが、探索は思っていた以上に難航した。
王都西方と記された箱を開いても、土地税や街道整備の申請書ばかり。森林調査には木材の採取量や魔物被害などが記され、河川の報告にも目当ての地形はない。
古い紙をめくり続け、エレノアが舞い上がる埃に口元を布で覆った時、傍らから無言で水筒が差し出された。
「飲め」
顔を上げればシリルが立っていた。
「ありがとうございます」
水を含むと、思っていた以上に喉が渇いていたことに気づく。
「少し休んだほうがいい」
「でも、もう少しで何か見つかる気がするんです」
「その状態で読み違えたら意味がない」
正論だった。
「少し座れ」
促され、エレノアは近くの木箱へ腰を下ろした。
シリルはそれ以上何も言わず再び資料を探し始める。
焦っているのだ。
水不足は続き、各地では井戸の水位が下がり続けている。一刻も早く答えを見つけなければならない。
けれど、焦りに呑まれて重要な記録を見落としては意味がない。
しばらく目を閉じて呼吸を整え、エレノアは立ち上がった。
「もう大丈夫です」
シリルは一度だけ顔色を確かめる。
「無理はするな」
「はい」
それからしばらくして、アルヴィンが一つの木箱の底から布に包まれた薄い冊子を取り出した。
表紙に題名はなく革紐も切れかけている。中には荒い線で描かれた地形の写生と、短い覚え書きが続いていた。
「野外調査の記録ですね」
王都西方の旧街道、森の入口、小さな川。調査官が現地で見たものを、簡単な図と言葉で残したものだった。
一枚ずつ確認していたアルヴィンの手が、不意に止まる。
「……エレノア嬢」
開かれた頁には、三つの低い丘が描かれていた。
その手前を流れる川は森の中で二つに分かれ、丘の裾を回ったあと、再び一つへ戻っている。
エレノアはすぐに星図を広げた。
二つに分かれ、再び合流する線。
その外側に並ぶ、三つの尖った印。
「一致しています」
だが、それだけではない。
アルヴィンが次の頁をめくった。
森の奥。
三つの丘に囲まれた平地。
そこには、円形に並ぶ石柱が描かれていた。一部はすでに崩れ、草木に覆われている。
中心には低い円形の祭壇があり、その周囲には用途の分からない溝が幾重にも巡っていた。
アルヴィンが、残された覚え書きを読み上げる。
「『森の奥に、極めて古い円形遺構を確認。周囲に道なく、利用価値不明のため詳細調査は見送る』」
さらに、その下。
「『石柱の配置は、夜空の星の環を思わせる。用途、年代ともに不明』」
エレノアの心臓が強く打った。
「星の……環」
アルヴィンも息を詰め、最後の一文を読む。
「『便宜上、星環の祭壇と記す』」
静寂が落ちた。
その場所が本来、何と呼ばれていたのかは分からない。
ただ、王国初期の一人の調査官が星の環を思わせる姿から名をつけ、その記録だけが誰にも顧みられないまま残されていた。
エレノアは星図を冊子の横へ置いた。
石板を並べて現れた図。星鏡庭園の星図。そして、古い野外調査記録。
王都から西へ伸びる線。二つに分かれ、再び一つになる流れ。三つの丘。その奥にある円形遺構。
すべてが、一本の道として繋がっている。
「……ここです」
声は僅かに震えていた。
「この場所が、“在るべき処”である可能性は極めて高いと思います」
「ええ。少なくとも、これまで見つかった手掛かりがこれほど一致する場所は他にありません」
アルヴィンも、星図と記録を何度も見比べる。
「王都西門から旧街道を進み、三つの丘を目印に南へ折れる。距離は馬で一時間ほど、とあります。」
「……馬で一時間ほど」
エレノアが思わず呟いた。
アルヴィンは記録へ目を落とす。
「ただし、ここに記されているのは王国初期の街道です。現在の道とは大きく外れているようですね」
現在の地図には、村も建物もない。遺跡の印すらなく、ただ森が広がっているだけだった。
「陛下と団長へただちに報告します」
エリオットが告げる。
「お願いします」
エレノアは古い冊子へ再び目を落とした。
星環の祭壇。
数千年前の人々が何と呼んでいた場所なのかは分からない。
それでも、王国建国初期の名も知られぬ調査官がそこを訪れ、見たものを紙へ残していた。
知識は、誰かが残し、誰かが守り、そして未来の誰かが見つける。
知恵の祠に刻まれていた言葉が、胸へ蘇った。
――得た叡智を抱え込むな。
――導く者となり、次なる世代へ渡せ。
遥かな昔の人々が星へ託した道標と、名も知られぬ調査官が紙へ残した記録。
まったく異なる時代に残された二つの手掛かりが、時を越え、今ようやく一本の道となって繋がったのだ。
一行は旧記録庫を後にする。
王城地下の暗い通路を戻りながら、エレノアは胸元へ冊子を抱いた。
ようやく見つけた。
四枚の鍵を還す“在るべき処”へと繋がる、最も確かな手掛かりを。
王都から西へ、馬で一時間ほど。三つの丘に囲まれた森の奥に残された、星の環を思わせる古い円形遺構。
その場所は長い年月の中で人々の記憶から忘れ去られ、それでもなお、今も静かに彼らを待っている。
――星環の祭壇




