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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第四章

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62話 信頼を受け継ぐ者たち 前編

62話 信頼を受け継ぐ者たち 前編



試練を越えた瞬間から、蒼鏡の水殿を満たす空気は変わっていた。濡れた床石の上には薄い水膜だけが残り、天井から落ちる青白い光を、鏡のように静かに映していた。


遺跡の奥を流れる水路から、穏やかなせせらぎが聞こえてくる。


まるで試練の終わりを告げるような、澄んだ音だった。


エレノアは、目の前に立つシリルを見上げた。彼はすでにいつもの無表情へ戻っている。けれど、先ほどまで鋭く張り詰めていた肩から、ほんのわずかに力が抜けていることに、今のエレノアは気づいていた。


彼女が無事だと分かったとき、シリルは確かに安堵していた。ほんの一瞬の変化で、以前なら見落としていたかもしれない。


けれど今は、その小さな変化にも気づける。


共に歩き、何度もその背を見てきた時間があったからこそ、試練の中でも本物を見失わずにいられたのだ。





「進むぞ。」


ガレスの落ち着いた声が、静寂を破った。


「試練が終わったとは限らない。隊列は崩すな。」


短い指示に、騎士たちがそれぞれ頷く。


クラウディアは濡れた床を確認してから、エレノアの足元へ目を向けた。


「歩けそうですか、エレノア様。」


「はい。大丈夫です。」


答えて一歩を踏み出すと、靴底が浅い水を踏んだ。


小さな波紋が広がる。


その瞬間、斜め前にいたシリルが振り返った。


視線が、エレノアの足元から顔へ移る。


「無理はするな。」


「はい、シリル様。」


それだけで、彼は前へ向き直った。けれど歩みはわずかに遅くなり、エレノアが無理なくついていける速さに変わっていた。


誰かに気づかせるためではない。礼を求めるためでもない。必要だから、そうする。


シリルの優しさはいつも、ひどく静かで、けれど確かな温もりを宿していた。





試練の間を抜けた先には、緩やかに下る回廊が続いていた。


足元の両側には細い水路が走り、透明な水が音もなく流れている。水路の底には小さな青い石が敷き詰められており、流れに揺らめく光が回廊の天井へ映し出されていた。


柱には、これまでの遺跡で見たものとは異なる文様が刻まれている。二本の線が交わり、離れ、再びひとつになる。その模様が幾重にも連なり、奥へと続いていた。


エレノアは歩みを緩め、文様へ目を凝らす。


「文字ではないようですね。」


隣を歩いていたリアナが、興味深そうに柱を見上げる。


「ええ。けれど、意味のない装飾とも思えません。」


エレノアは目で線を追った。


別々の場所から伸びた二本の線が、何度も交差する。途中で互いを支えるように絡み合い、最後にはひとつの大きな輪へと繋がっている。


「別々の流れが、互いに支え合いながら一つへ繋がっているように見えます。」


「第四の試練が『信頼』だったことを考えると、可能性はありそうですね。」


エレノアは、柱から騎士たちへ視線を移した。


先頭のガレスは、分かれ道のたびに立ち止まり、床や壁の状態を確かめている。クラウディアは後方へ気を配りながら、エレノアの周囲を見ていた。オーウェンとリアナは左右へ視線を配り、シリルはエレノアから離れすぎない位置で、常に最も危険がありそうな側へ立つ。


そして自分には、誰にも読めない言葉を読み、その意味を皆へ伝える役目がある。


誰か一人の力で、ここまで来たのではない。


文字を読める者がいても、遺跡へ辿り着けなければ意味はない。剣を持つ者がいても、何を探すべきか分からなければ先へ進めない。


それぞれにできることが違うからこそ、互いに足りないものを補い、ここまで来ることができた。


柱に刻まれた文様は、まるで自分たちの旅路を映しているようだった。




回廊の先から、淡い風が流れてくる。


やがて前方の壁に、縦に細い光が見え始めた。


ガレスが片手を上げる。


「この先に空間がある。」


彼は壁際へ寄り、慎重に向こうを窺った。


「敵影はない。進むぞ。」


先頭から順に細い入口を抜ける。


エレノアが足を踏み入れた瞬間、思わず息を止めた。


そこは、これまで通ってきたどの部屋とも異なる、円形の石室だった。


高い天井は闇に溶けるほど遠く、その中央から、細い水の筋が絶え間なく落ちている。けれど水は床へ届かない。途中で無数の雫へ分かれ、ゆっくりと宙を漂いながら、石室の外縁に巡らされた水路へ吸い込まれていく。


一粒一粒が青い光を宿し、暗い天井から降る星のようだった。


壁には半透明の石が埋め込まれている。薄い青、深い紺、夜明け前の空を思わせる紫。それらは水の流れに呼応して、一定の間隔で明滅していた。


石室の中央には、黒い祭壇があった。


黒曜石を思わせる石で造られた、飾り気のない祭壇。


その上に、一枚の黒い石板が横たえられている。


これまでに見つけたものと同じ、両腕で抱えられるほどの大きさだった。


「あれが、第四の石板か」


オーウェンの声は、いつもより低かった。


誰もすぐには祭壇へ近づかなかった。


試練を越えた先にあるものだからこそ、何か仕掛けが残されている可能性は高い。


ガレスは石室全体を見渡し、柱や床、水路の位置を確認した。


「エレノア嬢。読めるか。」


「確認します。」


エレノアは祭壇へ近づいた。シリルがその半歩前を歩く。彼は床の継ぎ目や、祭壇までの間に異変がないかを確かめながら、一歩ずつ進んだ。


エレノアは祭壇へ顔を近づけ、刻まれた文字を目で追った。一文字ずつ、慎重に意味を繋ぐ。今まで読んだ碑文よりも簡潔で、そのぶん一つ一つの言葉に重みがある。


「読み上げます。」


全員の視線が集まった。


エレノアは、一文字ずつ慎重に言葉を紡ぐ。




「――『互いの真を見極め』」


「――『己が命を、互いの手に預けし者たちへ』」


石板の中心に刻まれた文字が、淡い青の光を宿した。


「――『ここに、汝らの信頼を認める』」


水の雫が、エレノアの周囲をゆっくりと巡る。


「――『この石を受け取り』」


「――『守り、在るべき流れへ繋げ』」




最後の文字を読み終えた瞬間。石室を満たしていた幾色もの青い石が、呼応するように一斉に淡く明滅した。


重なり合う青い光が、まるで水面を渡る波紋のように壁から壁へ広がり、やがて静かな輝きへ戻っていく。


石室には再び水音だけが残された。


エレノアは祭壇の上の石板を見つめる。


――汝らの信頼を認める。


この試練を越え、信頼を示した者たちへ、この石を授ける。


碑文は、そう告げているように思えた。


これまでと同じように、自分が受け取るのだろう。エレノアはそう考え、祭壇へ一歩近づいた。


石板は、これまでに見つけたものと同じ大きさに見える。一人で持ち上げるには重いかもしれない。けれど、触れたあとで今回もシリルやオーウェンへ預ければよい。


そう思って、両手を伸ばしかけ――


その指先が、石板へ届く前に止まった。


不意に、冷たい風の感触が蘇る。


棘牙狼の爪が空を裂いた音。石畳を蹴る足音。鼻を刺した血の匂い。


だが、思い出したのはあの戦いだけではなかった。


地下神殿でも、知恵の祠でも、誓約の回廊でも、そして、この水殿へ至るまでの道でも。


危険があれば、騎士たちは必ずエレノアより前へ出た。彼女が古代文字と向き合うあいだ、周囲を守り続けた。


彼らには読めない文字を前にしても、エレノアの解読を疑わず、答えが出るまで待ってくれた。


ガレスの判断を、クラウディアが背後を守ることを、オーウェンが道を切り開くことを、リアナが小さな異変を見逃さないことを信じてきた。


そして――シリルが、必要な時には必ず自分の前へ立つことを。


誰か一人が、皆をここまで導いたのではない。それぞれが己の役目を果たし、互いの力を信じたからこそ、この場所へ辿り着けたのだ。


この石板が、信頼を示した者へ授けられるものなら。


受け取るべきなのは、古代文字を読み解いた自分一人ではない。


命を預け合い、ここまで共に歩いてきた者たちのはずだった。





エレノアは、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。


そして振り返る。


そこには、旅を共にしてきた五人が立っていた。


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