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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第四章

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61話 信頼の水路④―本物の証―後編

61話 信頼の水路④―本物の証―後編




五人のシリルを、エレノアは改めて見つめた。


声も、姿も同じ。立ち方も、視線の動かし方さえ似ている。


けれど、先ほど水底から届いた偽りの声を退けた時、エレノアは一つのことを知った。


信じるべきものは、声でも姿でもない。


共に過ごす中で、その人が何を見て、何を選び、どう動いてきたのか。


ならば今も、見るべきなのはそこなのだ。




試練がシリルの言葉や行動をどこまで写し取っているのか分からない以上、思い込みだけで選ぶわけにはいかなかった。


だが、シリルは危険の正体も分からないうちに、エレノアを自分の側へ呼ぶ人ではない。まず自らが進み、周囲を確かめて安全を見届ける。そのうえで必要ならば短い言葉で進むよう告げる。


となると、先ほどからエレノアを呼び寄せる一人目、三人目は、恐らく本物ではない。


そしてエレノアはもう一度二人目を見る。その青い瞳は変わらず自分だけへ向けられていた。


水路の光が強くなっても、ガレスが位置を変えても、足場が小さく軋んでも。一度も、そちらへ視線を向けない。ただ、エレノアだけを見ている。


そこでようやく、胸の奥に生まれていた違和感の正体が形になった。


(……違う)


シリルは、いつもエレノアを見てくれている。


けれど。


エレノア“だけ”を見る人ではない。


危険な場所で彼が何より先にすることは、周囲を確かめることだ。敵がいないか、退路はあるか、仲間はどこにいるか。自分が動けば、誰が無防備になるのか。そうしてすべてを見た上で、最後に必ずエレノアを守れる位置へ立つ。


彼がエレノアだけを見ないのは、エレノアを大切にしていないからではない。むしろ、守ろうとしているからこそ、彼女の周囲まで見るのだ。


そこまで考えた時、もう一度五人目と目が合った。


彼はエレノアへ真っ直ぐ視線を向けた。ほんの一瞬。頭から足元へ、無事を確かめるように視線が下りる。それからすぐ、また水路へ戻った。


何度も見てきた眼差しだった。


「……分かりました」


エレノアの呟きに、シリルたちの表情が僅かに変わった。


「見つけたのか?」


ガレスが尋ねる。エレノアはそれにすぐには答えず、もう一度五人を見渡した。


そして静かに頷く。


「はい」


一歩、道の手前へ進む。すると、五本の細い道が同時に青く輝いた。


間違った道へ足を乗せれば沈む。それでも、先ほどまでの迷いはもうなかった。答えはもう、胸の中にある。


一人目が手を伸ばす。


「エレノア嬢。こちらへ」


三人目が声を重ねる。


「違う。俺だ」


四人目は眉を寄せる。


「騙されるな」


シリルたちの声が重なる。


その時、二人目と五人目のシリルがこちらへ一歩踏み出した。


二人目は、何も言わない。ただエレノアだけを見つめ、ゆっくりと片手を差し出した。


そして五人目も、何かを告げるように口を開く。だが、やはり声は出ない。それでも彼は前へ進もうとはしなかった。一歩踏み出したところで足元へ視線を落とし、道の状態を確かめ、周囲を見た後ガレスたちを見る。そして、エレノアを見ていた。


「エレノア嬢、根拠を聞いてもいいか」


背後からガレスの声が届く。


「はい」


エレノアは、一人のシリルへ柔らかな眼差しを向けた。


「本当のシリル様なら、私を呼び寄せません」


五人は、誰一人として反応しなかった。本物も偽物も、同じ青い瞳でエレノアを見ている。


「それでも、最初は、二人の方で迷いました」


リアナが僅かに目を見開く。


「二人?」


「はい。どちらの方も何も仰いませんでしたから」


エレノアは、二人目を見る。


「こちらの方は、私だけを見ていました」


一瞬、言葉を切る。


「それが、とてもシリル様らしく見えたんです」


二人目の青い瞳は、今もエレノアだけへ向けられている。


「ですが……違いました」


「なぜだ?」


ガレスが静かに尋ねる。


エレノアは五人目を見る。


「シリル様は、私を守ってくださいます。でも、私だけを見て周囲を見失う方ではありません」


辺りが静まる。


「危険な場所では、必ず周囲をご覧になります。お仲間の位置も、足場も、逃げ道も。ご自分が動けば何が起きるのかまで確かめてから動かれます」


エレノアの声には、もう迷いがなかった。


「私を守るためだからこそ、周りを見なくなることはないんです」


エレノアは続ける。


「それに、本当のシリル様なら、まだ安全かどうか分からない道へ、私を呼び寄せたりはなさいません」


「まずご自分で危険を確かめて、安全だと分かってから、私へ進むよう仰います」


四人目が低く告げた。


「だから俺が行くと言った」


その言葉に、エレノアは四人目を見る。だが、首を横へ振った。


「シリル様なら、ご自分がこちらへ来ることを先に決めるのではなく、まずこの仕掛け全体をご覧になると思います」


「この五本の道が何のためにあるのか。ほかの皆様の位置はどうなっているのか。ご自分が動くことで、別の仕掛けが起きないか。それを確かめる前に、一つの行動だけを正しいと決めてしまう方ではありません」


エレノアの視線が、再び五人目へ戻る。


「そして――」


小さな笑みが浮かんだ。


「シリル様はご自分が本物だと、言葉で信じさせようとはなさらないと思います」


オーウェンが僅かに目を見開く。リアナも、思い当たったように五人を見比べた。


シリルは、信頼を求めない。言葉で自分の正しさを押しつけることもしない。ただ己の役目を果たし、相手が選ぶことを待つ。


「信じてほしいと言われなくても」


エレノアは静かに続けた。


「私は、シリル様を信じています」


その瞬間。


『何故だ』


四人の口から、異なる言葉がほぼ同時に響いた。


『声は同じだ』


『姿も同じだ』


『何をもって、本物と定める』


エレノアは迷わず答えた。


「行動です」


静かで、はっきりとした声だった。


「その方が何を仰るかではなく、これまで何をされてきたのか」


そして五人目を見つめる。


「私は、それを信じます」


五本の道のうち、その一人へ続く道へ足を乗せた。青い光が、足元で強く輝く。


ガレスたちが息を詰めと、次の瞬間、道が大きく揺れた。底の見えない水が、左右から迫り上がる。


けれど、


道は沈まなかった。


白い石の表面へ金色の光が走り、エレノアの足元から五人目のシリルへ向かって伸びていく。


「沈まない……」


オーウェンが息を吐く。だが、ガレスはまだ表情を緩めなかった。


「まだ決めつけるな。最後まで渡ってからだ」


エレノアが一歩進むたび、残る四人の声が鋭さを増していく。


「止まれ」


「その男は偽物だ」


「道が沈むぞ」


「戻れ、エレノア嬢」


細い道が不安定に揺れ、水面が激しく波打つ。


その時、五人目のシリルが初めて大きく動いた。こちらへ来ようとして一歩を踏み出す。だが、その足元にも細い道しかなく、すぐに動きを止めた。


エレノアが声を上げる。


「シリル様、待ってください」


その瞬間、金色の光が道を走り抜けた。


シリルの喉元を覆うように纏わりついていた青い光が浮かび上がり、硝子が砕けるような音とともに消える。


「エレノア嬢」


初めて、本物の声が届いた。


「危険だ」


短く抑えられた声。それでも、その奥には隠しきれない焦りが滲んでいる。


エレノアは思わず微笑んだ。


やはり、この人だ。


自分が正しく選ばれたことを喜ぶより先に、エレノアの足元を心配している。


「大丈夫です」


「道が不安定だ」


「それでも、進みます」


シリルの眉が深く寄る。だが、来るなとは言わなかった。試練がエレノアへ示した道だと理解しているからだ。


彼は周囲と足元を確かめたあと、低く告げた。


「足元だけを見ろ」


いつもの言葉だ。


エレノアの胸へ温かさが広がる。


「はい」


一歩。また一歩。


偽物たちはなおも呼び続ける。


戻れ。

違う。

間違っている。


けれど、もうエレノアの心は揺れなかった。信じるべき人は、目の前にいる。


最後の一歩を踏み出す。


シリルのいる足場へ届く直前、道が大きく傾いた。


「……っ!」


エレノアの身体が横へ揺れる。次の瞬間、シリルの腕が伸びた。手首を掴み、一息に引き寄せる。


エレノアの身体は、濃紺の隊服に包まれるように彼の胸元へ収まった。


背後で、白い道が水底へ沈んでいく。


けれど、二人の立つ足場は揺らがなかった。


「怪我は」


すぐに問われる。


シリルの視線が、エレノアの顔から肩、腕、足元へ素早く走った。


「ありません」


「本当か」


「はい」


それでも彼の腕には、まだ強い力が籠もっている。確かめ終えるまで離すつもりがないことが、その手から伝わってくる。


紛れもなく、いつものシリルだった。


「シリル様こそ、ご無事でよかったです」


「ああ」


短い返事があったが、その手はすぐには離れなかった。エレノアは胸元から彼を見上げる。


「何も仰らなかったのですね」


「……言えなかった」


「え?」


シリルが僅かに眉を寄せる。


「何度か声を出そうとした。だが、出なかった」


エレノアは、先ほど彼の唇が動いていたことを思い出す。


「では……もし声が出ていたら、ご自分が本物だと仰いましたか?」


シリルは静かに目を伏せた。


「いや」


少し間を置く。


「少なくとも、俺を選べとは言わない」


「……なぜですか?」


「君の判断を迷わせる」


その答えに、エレノアの胸が熱くなる。


自分が本物だと訴えることより。自分を選ばせることより。エレノア自身が考え、選ぶことを優先してくれると言ったのだ。


「私が間違えるとは、思われませんでしたか?」


「思わない」


即答だった。


エレノアが目を見開く。


シリルは彼女を見つめたまま、静かに続けた。


「君なら分かる」


その言葉と同時に、水路全体へ澄み切った音が響いた。





『――証を見た。』





人のものとも、水の響きともつかない声。


四人の偽シリルが、一斉に大きく揺らぐ。


その姿は青い光の粒となり、水面へ降り注いだ。一人。また一人。すべてが消え、残ったのは本物のシリルだけだった。


二人を囲んでいた水面から光が立ち昇り、ガレスたちの足場へ向かって新たな道を作り出す。


「道が開いた」


クラウディアが告げる。


「全員、渡れ」


ガレスの指示で、六人は再び一つの足場へ集まった。エレノアがシリルの腕から離れると、リアナが安堵したように息を吐いた。


「本当に見分けたんですね」


「はい」


「声も姿も、まったく同じだったのによく分かりましたね」


「同じではありませんでした」


エレノアはシリルへ目を向ける。


彼はすでに周囲の警戒へ戻っている。試練を越えたからといって、気を緩めることはない。そんなところまで、エレノアの知る彼そのものだった。


「姿も声も同じでした」


「ですが、その人が何を見て、何を選んで、どう動くのかまでは同じではありません」


オーウェンが小さく笑った。


「俺たちでも見分けられたか怪しいな」


「あなたなら、無言の二人を見て余計に迷っていたでしょうね」


リアナの言葉に、オーウェンが肩をすくめる。


「否定できない」


クラウディアは穏やかにエレノアを見る。


「エレノア様は、シリルの姿ではなく、その人自身を見ていたのですね」


エレノアの頬へ、僅かに熱が集まった。


「そのような、大げさなものでは……」


「いや」


ガレスが静かに口を開くと、全員の視線が向いた。


「相手を何度も確かめなければ信じられないのなら、それは信頼とは言えん」


ガレスは、静まった水面を見る。


「見えなくても、偽りを見せられても、その者が何を選ぶかを信じられるか――それを試されたんだろう」


先ほどの水底でシリルが示した信頼と、今エレノアが示した信頼。二つの試練は、互いに同じものを問いかけていた。


目や耳に映るものではなく、これまで互いに積み重ねてきたものを信じられるか。


二人は、それぞれのやり方でその証を示したのだ




シリルがエレノアへ視線を向ける。


「行けるか」


「はい」


エレノアは迷いなく頷いた。


「行きましょう」


その返事を確認すると、シリルは再び彼女の半歩前へ立った。


いつもの位置。


けれどエレノアの胸に生まれた感情は、以前と少し違っていた。守られているから安心するだけではない。


彼が必ず自分の役目を果たすと信じている。


そしてシリルもまた、エレノアが自分の役目を果たすと信じている。


互いを縛るのではなく、それぞれが自分の足で進むために、見えない部分を相手へ預ける。


それが、この試練の示す『信頼』なのだろう。


円形の足場の正面で、水が左右へ分かれていく。その向こうから、白い石の道が一本だけ浮かび上がった。もう二手には分かれていない。道は真っ直ぐ、奥へ続いている。


「進むぞ」


「はい」


ガレスが先頭へ立ち、六人は再び歩き始めた。


もう、水底から偽りの声が届くことはなく、水面へ映る姿も一つだけだった。


それでもエレノアは知っている。たとえ再び姿が見えなくなっても、声を奪われても、自分はきっとシリルを見失わない。


彼が何を選び、どう生きてきたのか。その積み重ねは、目や耳よりも深い場所へ確かに刻まれている。






試練が求めたのは、同じ声を聞き分ける力でも、同じ姿から正解を選び取る目でもない。



その人自身を、信じ抜くこと。



それこそが――



本物の証だった。



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