63話 信頼を受け継ぐ者たち 後編
63話 信頼を受け継ぐ者たち 後編
「……エレノア嬢。」
すぐそばから、低い声が聞こえた。
シリルが彼女を見ていた。
その表情は変わらない。ただ、何か異変があったのかと確かめるように、青い瞳がエレノアの手元へ向けられている。
「大丈夫です。」
エレノアは答え、もう一度石板へ目を落とした。
これは遠慮ではない。自分には資格がないと、卑下しているのでもない。エレノアもまた、皆を信じてここまで来た一人だ。
だからこそ、この石板を自分一人の手で受け取ることだけは違うように思えた。
騎士たちが、わずかに不思議そうな顔でこちらを見ている。
「ガレス様。クラウディア様。オーウェン様。リアナ様」
一人ずつ、その顔を見る。
最後に、隣のシリルを見上げた。
「シリル様も。」
「何だ。」
「この石板を、皆様で受け取っていただけませんか。」
石室に、短い沈黙が落ちた。
最初に反応したのはオーウェンだった。
「俺たちが?」
驚きを隠さず、石板とエレノアを見比べる。
リアナも目を瞬いた。
「ですが、エレノア様。これまでの石板は、エレノア様が……。」
「はい。」
エレノアは静かに頷いた。
「これまでの石板には、古代の知識を理解し、未来へ繋ぐ者へ向けた言葉が残されていました。ですから、私が受け取ることに迷いはありませんでした。」
知識を自分のものにせず、未来へ繋ぐために預かる。
その役目は今も変わらない。
「けれど、この石板に刻まれているのは『信頼』です。」
エレノアは石板へ目を向けた。
「互いの命を預けた者たちの信頼を認め、この石を託すと書かれています。」
水音が、規則正しく響く。
「私一人では、ここへ辿り着けませんでした。」
エレノアは騎士たちを真っ直ぐ見つめた。
「この石板は、信頼によって道を開いた方々へ授けられるものです。」
「ですから、この石板を私一人で受け取るのではなく――皆様の手で受け取っていただきたいのです。」
長い沈黙が続いた。
空中を漂う一粒の水が、ガレスの肩の横を静かに通り過ぎる。
誰もすぐには答えなかった。
エレノアの言葉の重さを、それぞれが受け止めていた。
やがてガレスが、祭壇に置かれた石板へ目を向ける。
「エレノア嬢。」
呼びかける声は落ち着いていた。
「あなたも、試練を越えた一人だ。」
「はい。」
「ならば、俺たちだけが受け取る理由にはならない。」
エレノアはわずかに目を見開く。
否定するための言葉ではない。彼女の考えを受け止めたうえで、その答えに足りないものを確かめようとする、指揮官らしい声音だった。
エレノアは一度頷き、ガレスの目を真っ直ぐに見返した。
「私も、皆様を信じてここまで来ました。だからこそ、この石板が誰へ向けられたものなのか、分かるのです。」
そして、祭壇の黒い石板へ視線を戻す。
「私は、石板に残された知識を読み解きます。必要なら、この先も何度でも。」
それが自分の役割だった。
誰にも読めない文字を読み、失われた知識を未来へ繋ぐ。
その役目を手放すつもりはない。
「けれど、この『信頼』を受け取るのは、互いに命を預けて戦ってきた皆様がふさわしいと思います。」
エレノアの言葉を聞き終え、ガレスはしばらく黙っていた。
水音だけが、静かな石室へ規則正しく響いている。
やがて彼は、ゆっくりと首を横へ振った。
「違う、エレノア嬢。」
「え……?」
「命を預けたのは、俺たちだけではない。」
ガレスは彼女の正面へ立つ。
「俺たちは、あなたの解読と判断へ命を預けて、ここまで進んできた。剣を持って前へ出ることだけが、命を預かることではない。」
「ですが……。」
「俺たちはあなたを守った。」
ガレスの声に迷いはなかった。
「そして、あなたは俺たちを導いた。」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
守られていただけではない。自分もまた、彼らから命を預けられていた。その事実を、エレノアは今まで深く考えたことがなかった。
「この資格を得たのは、俺たち五人だけではない。」
ガレスは祭壇の石板へ視線を戻した。
「六人だ。」
短く、力強い言葉だった。
エレノアは何も答えられない。
その胸の奥へ、温かなものが込み上げてくる。
オーウェンが後頭部を掻きながら、少し困ったように笑った。
「副団長に全部言われたな。」
エレノアが彼を見る。
「俺たちは古代文字なんて一文字も読めない。」
オーウェンは祭壇へ目を向けた。
「エレノア嬢が『進める』と言えば進んで、『止まれ』と言えば止まった。その判断が間違えれば、俺たち全員が危険だった。」
普段の軽さはない。真剣な声音だった。
「それでも迷わず従えたのは、エレノア嬢を信じていたからだ。」
リアナも柔らかく微笑む。
「私たちがエレノア様を守ったのと同じように、エレノア様も何度も私たちを守ってくださいました。」
「私が……?」
「はい。」
リアナは迷いなく頷いた。
「見えない文字の意味を教えてくださったから、危険を避けられました。正しい道を選んでくださったから、誰一人欠けずにここまで来られました。」
胸元で手を重ね、穏やかに続ける。
「それも、守ることだと思います。」
エレノアの翡翠色の瞳が、わずかに揺れた。
クラウディアも祭壇へ目を向ける。
「待機の間に刻まれていた言葉を、覚えていますか。」
エレノアは小さく頷いた。
「『六つの歩みを、一つの意志へ』……。」
「ええ。」
クラウディアは静かに微笑んだ。
「この水殿が最初から求めていたのは、六人の意志です。」
一人だけが知識を持っていても進めない。一人だけが強くても越えられない。互いに見えないものを伝え合い、判断を委ね、相手を信じて進む。
それが、第四の試練の答えだった。
「ですから、この石板は私たち五人が受け取るものではありません。」
クラウディアの眼差しが、まっすぐエレノアへ向けられる。
「あなたを含めた六人で、受け取るものです。」
エレノアは唇を開きかけた。けれど、すぐには言葉が出なかった。
皆の言葉が嬉しかった。
同時に、自分が思っていた以上の信頼を向けられていたことに、胸が震えた。
最後に、エレノアはシリルを見る。彼だけはまだ何も言っていない。
青い瞳は石板ではなく、エレノアへ向けられていた。何を考えているのか、表情から読み取ることは難しい。それでも、今のエレノアには、彼が何も思っていないわけではないことだけは分かった。
「シリル様……。」
呼びかけると、シリルは短く告げた。
「君がいなければ、ここにはいない。」
エレノアの目が大きく開く。
飾りのない、ただ事実を述べただけの言葉。
だからこそ、何よりも真っ直ぐ胸へ届いた。
「俺たちは、君を信じて進んだ。」
シリルはそれ以上、何も付け加えなかった。けれどエレノアには、それで十分だった。
守られていただけではない。彼もまた、エレノアの言葉へ自分の命を預けていた。
「……ありがとうございます。」
声が、わずかに震える。
エレノアは胸の前で両手を重ね、ゆっくりと頭を下げた。
「では、私も一緒に受け取らせてください。」
顔を上げたとき、その表情にもう迷いはなかった。
ガレスが静かに頷く。
「ああ。」
その一言を合図に、六人は祭壇へ歩み寄った。
黒い石板は、祭壇の中央で静かに青い光を映している。
六人が祭壇を囲む中、シリルは自然とエレノアのすぐ隣へ立った。
「エレノア嬢。」
「はい。」
「何が起きても、俺の近くにいろ。」
石板を受け取る瞬間に、まだ何が起こるか分からない。試練を越えたあとでさえ、その警戒は変わらない。
エレノアの胸に、穏やかな温かさが広がる。
「はい。お側にいます。」
答えると、シリルは小さく頷いた。




