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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第四章

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53話 近衛騎士団

53話 近衛騎士団




薄暗い地下へ続く石階段。


長い年月、一度も人の立ち入りを許さなかったその奥から、冷たい空気がゆっくりと流れ出す。


「これが……蒼鏡の水殿への入口。」


誰もがその光景に見入った――その瞬間だった。


獣の咆哮が、目覚めた蒼鏡の地へ響き渡った。





木々の間から鳥たちが一斉に飛び立つ。


静まり返っていた森が、不気味なざわめきに包まれた。


ガサッ。


森の茂みの奥で、黄金色の瞳が揺れる。


一対。


さらに一対。


その奥にも。


低い唸り声が幾重にも重なり、こちらを囲むように少しずつ距離を詰めてくる。


やがて木々の間から姿を現したのは、灰色の毛並みを持つ、狼に似た魔物だった。


だが、その身体は普通の狼より二回りも大きい。


背には黒い棘が並び、口元からは異様に長い牙が覗いている。


「棘牙狼……!」


リアナが鋭く息を吸った。


「群れで狩る魔物です。弱い相手を見定め、そこへ狙いを集中させます!」


ガレスの視線が一瞬だけエレノアへ走る。


「総員、構え! 中央へ一頭も通すな!」


同時に、近衛騎士たちが迷いなく動いた。


オーウェンは左前方へ。リアナは右側へ。クラウディアは中央を支えながら、エレノアの退路を確保する。


誰一人として指示を聞き返さない。普段から訓練を積み重ねてきた隊形が、一瞬で完成する。


そしてシリルは――。


エレノアを背に庇うように、半歩前へ出ていた。


「シリル。」


ガレスが短く呼ぶ。


「はっ。」


それだけで、互いの意図は通じていた。前線は自分たちが受け持つ。シリルは何があってもエレノアを守る。その役割を、互いに確認する必要すらない。







「数は!」


「十一体です!」


リアナが即座に返す。


そのうち、一頭だけが明らかに異なっていた。他の個体よりさらに大きい。肩の位置は高く、背に並ぶ棘は黒曜石のような光沢を帯びている。群れの奥で動かず、黄金色の瞳だけを静かにこちらへ向けていた。


次の瞬間。


一頭の棘牙狼が地面を蹴った。


凄まじい速さで右から迫る。


「右!」


リアナの声と同時に、オーウェンが前へ出る。


大剣が唸りを上げ、飛び込んできた巨体を正面から受け止めた。


激しい音が響く。


棘牙狼の身体が傾いた、その脇をリアナが駆け抜ける。


銀の刃が前脚を切り裂いた。


「今!」


「ああ!」


オーウェンの大剣が叩き込まれる。


魔物は地面へ倒れ、そのまま動かなくなった。


それとほぼ同時に中央から二頭が迫る。


ガレスは一歩も退かなかった。


一頭目の牙を紙一重で外し、返す刃で肩口を斬る。


横から飛びかかった二頭目へ身体を開き、二頭をぶつけ合わせる。


そこへクラウディアが踏み込んだ。


「ここは通しません。」


鋭く、無駄のない一閃。


一頭が崩れる。


体勢を崩したもう一頭を、ガレスが仕留めた。


誰かが攻めれば、誰かが支える。一人が敵を引きつければ、別の者がその隙を取る。


必要な言葉だけで、全員が次の動きを理解していた。







その激しい攻防の中で、シリルだけはほとんど位置を変えていなかった。


エレノアの半歩前に立ち、前線の動きを静かに見据えている。その姿勢には僅かな乱れもない。


ほんの半歩。けれど、その距離へ彼が立つだけで、エレノアの視界には広い背中が盾のように映った。


漆黒の髪が風に揺れる。


右手には抜き放たれた長剣。


無駄な力は入っていない。


だが、その立ち姿だけで、ここから先は一歩も通さないという意思だけは、言葉にされずともはっきりと伝わってくる。


(シリル様は……。)


エレノアは前に立つ背中を見つめる。


(皆さんを信じている。)


ガレスなら必ず止める。オーウェンなら押し返し、リアナならその隙へ追いつく。クラウディアなら、どれほど小さな綻びも見逃さない。


シリルは、彼らがそう動くことを疑っていない。だからこそ自分も、与えられた役目から一歩も逸れず、ただエレノアの前に立ち続けているのだ。







その瞬間。


前線の隙を縫うように、一頭の棘牙狼が大きく跳んだ。


オーウェンたちの頭上を越え、一直線にエレノアの方へ襲いかかってくる。


「しまっ――!」


リアナの声。


だが、その距離はすでに遠い。


速い。


巨体に似合わぬ速さで、棘牙狼が牙を剥く。


エレノアは息を呑む。


間に合わない。


魔物の牙が迫った、その瞬間。


エレノアの前にいたシリルの姿が、僅かにぶれた。


一歩踏み込んだ――そう見えた時には、すでに彼は元の位置へ戻っていた。棘牙狼は勢いを殺せないまま数歩進み、やがて首筋へ細い赤線を浮かべる。


一拍遅れて血が散り、巨体が地面へ崩れ落ちた。


エレノアは声も出せなかった。


剣を振るった瞬間さえ、ほとんど見えなかったのだ。


シリルは倒れた魔物へ視線すら向けず、一度だけ剣についた血を払い、何事もなかったかのように再びエレノアの半歩前へ立つ。


そこだけは、誰にも譲らないとでもいうように。






誰より多く斬るためでも、誰より前へ出るためでもない。


守るべきものへ、ただ一歩も近づけさせない。


それこそが、近衛騎士シリル・ヴァルモントが最後まで貫く、


――護る剣だった。









その一部始終を、群れの奥にいたひときわ大きな棘牙狼だけが見ていた。


黄金色の瞳が、ほんの僅かに細められる。


それまで動かなかった巨体が、初めてわずかに身じろぎした。







「後方に一頭!」


ガレスの鋭い声が飛んだ。


「岩陰だ。回り込んでくる!」


直後、茂みを突き破り、灰色の影が飛び出した。


クラウディアの死角へ回り込もうとしていた棘牙狼だ。


だが、位置を知らされた彼女は、すでに剣を構えていた。


「承知しました。」


半身になり、振り下ろされた爪を剣の腹で受け流す。


高い位置で結んだ青みがかった黒髪が、鋭く弧を描いた。


勢いを殺しきれなかった魔物が、クラウディアの前を通り過ぎる。


彼女は追わなかった。


「リアナ。」


「はい!」


名を呼ばれただけで、リアナは意図を悟った。


クラウディアが魔物の進路を限定し、その先へリアナが回り込む。


挟撃。


逃げ道を塞がれた棘牙狼が牙を剥いた。


クラウディアの剣が上段から振り下ろされ、背を覆う硬い棘の隙間へ正確に食い込む。


魔物が怯んだ、その瞬間。


横から走ったリアナの刃が、喉元を切り裂いた。


クラウディアとリアナは言葉を交わさない。


一瞬だけ視線を合わせ、互いの無事を確かめると、すぐさま次の敵へ向き直った。


地に伏した棘牙狼から、赤い血が白い石畳へ流れていく。


辺りを束の間の静寂が包んだ。


だが、それも長くは続かなかった。


低い唸り声が森を震わせる。


残る六頭が、揃って牙を剥いた。


「陣形を崩すな! また来るぞ!」


ガレスの声が、開けた窪地へ響き渡る。


棘牙狼たちは、すぐには飛びかかってこなかった。


互いに距離を保ち、こちらを囲むようにゆっくりと動いている。


先ほどまでとは明らかに違う。


仲間を倒された怒りに任せているのではない。


騎士たちの陣形と動きを観察し、その隙を探っている。


「……厄介だな。」


ガレスが低く呟く。


「こいつら、考えて動いている。」


棘牙狼は円を描くように歩きながら、少しずつ間合いを詰めてきた。


騎士の誰かが一歩でも前へ出れば、その背後へ別の個体が飛び込める位置取りだった。


ガレスは敵の狙いを見抜く。


「釣られるな」


誰も動かない。


前へ出ない。


追わない。


互いの持ち場を守り、敵が踏み込んでくる時だけを待つ。


静かな睨み合い。


やがて左側の一頭が、強く地面を蹴った。


「左!」


号令が届くより早く、オーウェンが前へ出ていた。


振り下ろされた巨大な爪を、大剣で真正面から受け止める。


鈍い衝撃音が響き、両足が石畳を擦った。


「力だけはあるな!」


オーウェンが押し返そうとした、その時。


もう一頭が横合いから跳んだ。


「オーウェン!」


リアナは魔物を追うのではなく、オーウェンを庇う位置へ駆けた。


赤茶色の髪を翻し、細身の剣を振り抜く。


刃が棘牙狼の鼻先を掠め、飛びかかる軌道を強引に逸らした。


「助かった!」


「どういたしまして!」


リアナは地面を蹴り、そのまま魔物の懐へ飛び込む。


小柄な身体を活かした、鋭い踏み込み。


棘牙狼が振り向くより早く、剣先が肩口を裂いた。


深手ではない。


だが、魔物の意識を自分へ向けるには十分だった。


「今!」


「任せろ!」


オーウェンが大きく踏み込む。


リアナが作り出した、ほんの一瞬の隙。


そこへ大剣を叩き込んだ。


重い一撃を受けた棘牙狼の巨体が地面を転がり、数度痙攣したあと動かなくなった。


「深追いするな!」


ガレスの指示が飛んだ。


「その場で押さえろ!」


「了解!」


オーウェンとリアナは、倒れた魔物を追わず、すぐに元の位置へ戻る。





エレノアは、息をすることさえ忘れるように彼らの戦いを見つめていた。


誰かが敵を受ければ、必ず別の者がその隙を埋める。


一人が前へ出れば、その背後にはすでに仲間がいる。互いに声を掛け合うことすら少ない。


それでも、それぞれが自分の役目だけでなく、仲間が次にどう動くのかまで知っているようだった。


だから迷わない。振り返らない。


背中を預けた相手が、必ずそこにいると信じているからだ。


――これが、近衛騎士団。


王都で幾度も耳にしてきたその名の重みを、エレノアは今、初めて目の前の光景として理解した。





「右後方!」


ガレスの声に、クラウディアが迷いなく応じる。


右側から回り込もうとした棘牙狼へ静かに踏み込み、剣を一閃させた。


速さを誇示するような剣ではない。


ただ、無駄がなかった。


刃は背の棘を避け、首筋の柔らかな箇所を正確に捉える。


棘牙狼は数歩よろめき、そのまま地へ崩れ落ちた。


残る魔物が、一斉に身を低くする。


そのうち一頭が、横合いからオーウェンの脇腹を狙った。


「左!」


ガレスの号令と同時に、リアナが滑り込む。


細剣が牙を弾いた。


魔物の軌道が僅かにずれた、その瞬間。


オーウェンの大剣が振り下ろされた。


「悪いな!」


刃が棘牙狼の急所を捉え、巨体が地面へ倒れ伏す。





残るは三頭。


通常の個体が二頭。


そして――群れを率いる、一際大きな棘牙狼。


仲間が次々と倒されても、その獣だけは動かなかった。


黒曜石のような棘を背へ並べ、黄金色の瞳で、ただ静かにこちらを見据えている。


エレノアは、その視線を追った。


そして気づく。


群れの長が見ているのは、遠征隊全体ではなかった。


その黄金色の瞳は、ただ一人――シリルを捉えている。


先ほど、仲間の一頭を一撃で仕留めた男。


前線へ出ることもなく、それでも群れが最も狙いたい獲物の前から決して退かない男を、群れの長もまた最大の障害だと認識したのかもしれない。


シリルもまた、群れの長から視線を逸らさない。青い瞳は静かで、呼吸にも乱れはなかった。剣先を低く構えたまま、微動だにしない。


黄金色の瞳と青い瞳。


まるで互いに、相手こそが自分の敵だと理解しているかのようだった。





その時。


群れの長が、ゆっくりと前足を踏み出した。


重い一歩が石畳を軋ませる。


低い唸り声を漏らしながら身を沈めた。


シリルもまた、エレノアの半歩前で静かに剣を構える。


その横顔に焦りはない。


ただ一つ。


何があろうと、ここから先へは通さない。声にせずとも伝わる、揺るぎない意思だけがあった。


黄金色の瞳が、鋭く細められる。


次の瞬間。


群れの長が、大きな雄叫びを上げた。


空気が、張り詰める。


ガレスが剣を構え直した。


「来るぞ!」




(続く)

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