54話 一閃
54話 一閃
群れの長が、地面を蹴った。
巨体が動いた瞬間、森の空気が変わった。一歩ごとに大地を軋ませるような圧力が、周囲へ広がっていく。
黄金色の双眸は、シリルだけを見据えていた。
その背後には、騎士たちが守る中心――エレノアがいる。
あの獲物へ辿り着くには、まず目の前の男を越えなければならない。
群れの長は、そう理解しているかのようだった。
シリルは長剣を低く構えたまま、一度も視線を逸らさない。ただ、巨大な棘牙狼だけを見据えている。
エレノアは、その背中を見上げた。
「シリル様……。」
返事はない。
呼吸一つ、乱れていなかった。
戦闘が始まってから、シリルが剣を振ったのは、ただ一度。それでも、彼の周囲だけは誰よりも鋭く張り詰めていた。
次の瞬間。
残る三頭が、一斉に地面を蹴った。
「構えろ!」
ガレスの声が響く。
通常の二頭は左右へ分かれ、それぞれ前線へ襲いかかった。リアナとオーウェンが即座に応じる。クラウディアも剣を構え直した。
だが、群れの長だけは違った。一直線にシリルとエレノアへ矢のような速さで向かってくる。
「エレノア様!」
リアナの声が飛ぶ。
しかし、彼女は動けない。目の前の一頭が、僅かでも注意を逸らせば前線を突破しようと身を沈めている。
オーウェンももう一頭を押さえていた。
クラウディアが一瞬だけエレノアへ目を向ける。
けれど、すぐに剣先を敵へ戻した。
エレノアの前には、シリルがいる。ならば、自分が守るべきなのはこの陣形だ。
ガレスもオーウェンの援護へ向かいながら、一度だけシリルへ視線を向けた。
命令は出さなかった。
必要がない。
シリルは最初から群れの長だけを見ていた。
剣先を僅かに下げ、エレノアの半歩前へ立っている。
飛び出さず、迎えにも行かない。自ら敵との距離を自ら縮めようとはしなかった。
魔物がどれほど速くとも、自ら距離を詰めることはしない。エレノアから離れてしまえば、護衛としての意味を失う。
シリルが守るべきなのは、戦場の優勢ではない。
エレノアのいる、この場所だった。
群れの長は地を蹴るたびに速度を増していった。通常の棘牙狼とは明らかに違う。石畳を蹴るたびに大地が軋み、黒曜石のような棘が朝の光を鋭く弾く。
十歩。
八歩。
六歩。
エレノアの耳に、自らの鼓動が大きく響いた。
怖い。
けれど不思議と逃げようとは思わなかった。
目の前には、濃紺の背中がある。旅の中で幾度も見てきた背中。地下神殿でも、知恵の祠でも、誓約の回廊でも。危険が迫るたび、彼は必ず自分の前へ立ってくれた。
だから――。
(シリル様なら。)
その瞬間。
「俺から離れるな。」
静かな声が響いた。何度も聞いてきた、短い言葉。それだけで、エレノアの胸を満たしていた恐怖が少しずつ引いていく。
「はい。」
群れの長が大きく口を開いた。異様に長い牙の間から、濁った息が漏れる。
四歩。
三歩。
それでも、シリルは動かない。
黄金色の瞳が獲物を捉えた喜悦に細められた。
もう間に合わない――そう確信したかのように、群れの長は最後の一歩で地面を蹴った。
巨体が宙へ躍る。
鋭い爪が前へ突き出され、その奥で長い牙が光った。
「シリル様!」
エレノアの声が漏れる。
その瞬間、シリルの左足が半歩だけ前へ出た。
大きく踏み込んだわけでも、身体を大きく捻ったわけでもない。ただ、エレノアと魔物の間へ、己の身を深く差し入れる。
棘牙狼の爪が迫る。
シリルは剣を振り上げなかった。
低く保っていた刃を、下から斜めへ走らせる。
一筋の銀光。
それだけが、エレノアの目に映った。
棘牙狼の巨体は勢いのままシリルの頭上を越えようとする。
――ヒュン
空気を断つ鋭い音が、遅れて響いた。
一拍遅れて、宙にあった巨体が不自然に傾く。
勢いを失った身体が横へ流れるのと同時に、シリルは左腕を後ろへ伸ばし、エレノアの肩を抱くように引き寄せた。同時に半歩だけ位置を変える。
棘牙狼は二人の横を通り過ぎ、そのまま石畳へ激しく叩きつけられた。重い衝撃が地面を揺らし、土煙と鮮血が舞う。
それでも、シリルの身体は揺らがない。
飛び散った血がエレノアへ届かぬよう、己の背で遮っていた。
棘牙狼は一度だけ脚を痙攣させ、やがて黄金色の瞳から光を失った。
硬い顎骨と胸元の棘のわずかな隙間。シリルの刃は、飛びかかる一瞬に露わになったその喉元を、正確に斬り抜いていた。
静寂が落ちた。
ほんの一瞬だった。
群れの長が飛び出してから、地へ倒れるまで。エレノアにはシリルの剣筋そのものを目で追うことさえできなかった。
気づけば彼の腕に引き寄せられ、目の前には変わらずその背中がある。
シリルは倒れた魔物を一瞥し、剣先を僅かに払う。刃に残った血が、石畳へ細い弧を描いた。
そして、何事もなかったかのように構え直す。
「怪我は。」
振り返らないまま、低い声が問う。
「ありません。」
「そうか。」
シリルはそれ以上何も言わず、残る敵へ視線を向けた。まるで、今の一撃が特別なものではなかったかのように。
その時、前方で二つの剣閃が走った。
リアナが一頭の牙を外へ弾き、開いた喉元へクラウディアの刃が滑り込む。魔物は短く呻き、そのまま地へ崩れ落ちた。
もう一頭は、オーウェンが正面から押さえ込んでいた。ガレスが横から踏み込み、その急所へ剣を走らせる。
最後の棘牙狼が、石畳へ伏した。
「全十一体、討伐確認!」
素早く周囲を見渡したガレスの声が響き渡った。
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたエレノアの胸から大きく息が零れた。
「シリル様、お怪我は……?」
「ない。」
彼はすぐに答えた。
エレノアは、その横顔を見つめる。
頬には、薄く血がついている。だが、それは彼自身のものではない。
鎧にも傷はなく、呼吸一つ乱れていなかった。あれほど巨大な群れの長を、たった一度の剣で仕留めた。
強いからだけではない。
速いからでもない。
いつ動くべきか。
どこへ刃を通せば、確実にエレノアへ届かせずに済むか。
彼は、その一瞬を最初から待っていたのだ。
動かなかったのではない。
動くべき、ただ一度を逃さなかった。
エレノアは、目の前の濃紺の背中を見つめた。胸の奥へ、温かなものが広がっていく。先ほどまで身体を強張らせていた恐怖は、いつの間にか遠のいていた。
代わりに胸へ残っているのは、揺るぎない信頼だった。
(この方が隣にいてくださるなら――。)
どのような場所であっても。
自分は前を向いて、歩き続けられる。
そう思えた。
◇
今度こそ、森へ静寂が戻った。
だが、騎士たちはすぐには剣を収めない。
ガレスが周囲を見渡した。
「オーウェン、左を確認。」
「了解。」
「リアナは右。森へ入りすぎるな。」
「はい。」
「クラウディアは中央から全体を見ろ。」
「承知しました。」
それぞれの返答を聞き、ガレスは最後にシリルへ目を向けた。彼は変わらずエレノアの前へ立ち、森の奥を警戒している。
「そちらは。」
「問題ありません。」
いつもの落ち着いた返事だった。
ガレスは一度だけ頷く。
すべての方向を確認し、新たな気配がないことを確かめてから、ようやく剣を下ろした。
「周辺の安全確認を優先する。完全に警戒を解くまでは、持ち場を離れるな。」
「了解。」
緊張が、少しずつ解けていく。
エレノアはようやく、固く握っていた手を開いた。
掌には、自分の爪が食い込んだ赤い跡が残っている。エレノアはその手をそっと伸ばし、シリルの外套の裾を掴んだ。
彼がすぐに振り返る。
「どうした。」
「本当に、お怪我はありませんか?」
「ない。」
「ですが、先ほど魔物の爪が、あれほど近くまで……。」
「届いていない。」
言い切る声に、迷いはなかった。
それでもエレノアは、心配そうに彼の腕や肩へ視線を走らせる。
鎧の隙間、袖口、手袋。
どこにも傷は見当たらない。
その様子を見たシリルが、僅かに眉を寄せた。
「君は。」
「私は大丈夫です。」
エレノアは安堵したように微笑んだ。
「シリル様が、守ってくださいましたから。」
真っ直ぐに向けられた翡翠色の瞳へ、シリルの視線が止まる。
戦いの最中には一度も乱れなかった呼吸が、ほんの僅かに詰まった。
「本当に、ありがとうございました。」
シリルはしばらく何も言わなかった。
やがて、低く答える。
「……無事ならいい。」
「はい。」
エレノアの笑みが、さらに柔らかくなる。
「それでも、ありがとうございます。」
シリルは答えず、森へ視線を戻した。
少し離れた場所で剣を拭っていたオーウェンが、その様子を見て口元を緩めた。戻ってきたリアナも同じものを見たらしく、小さな声で囁く。
「……ずいぶん素直になったわね。」
「本人にとっては、あれでも精いっぱいなんだろ。」
二人の視線の先で、エレノアは今も安堵したように微笑んでいる。
シリルはその笑顔を見ないふりをして、静かに剣を鞘へ収めた。




