52話 蒼を映す鏡 後編
52話 蒼を映す鏡 後編
「ここです。」
エレノアは地図を開き、現在地と周囲の地形をもう一度照らし合わせた。
「蒼鏡の水殿が存在したと考えられるのは、間違いなくこの場所です。」
リアナは、円形の窪地を一周するように見渡した。
「ですが……水殿らしきものは、どこにもありませんね。」
目の前に広がっているのは、背の低い草と、地面から顔を出す白い岩ばかりだ。
中央には、地中から滲み出したらしい浅い水が広がり、朝の空を映している。
だが、神殿の壁も、柱も、崩れた屋根も見当たらない。
かつて大きな建造物が存在したなら、少なくとも基礎や石材の一部が残っていてもおかしくなかった。
地下へ続く階段や扉らしきものもない。
「地上部分が、完全に失われたのでしょうか。」
クラウディアが尋ねると、エレノアは慎重に首を横へ振った。
「その可能性もあります。ですが、大規模な建造物が存在した痕跡まで、何一つ残っていないのは不自然です。」
オーウェンが中央の窪みへ近づいた。
「そもそも、本当に水殿だったのか? 今は浅い水があるだけだぞ。」
その問いに、エレノアは浅い水面を見つめる。
青い空。白い雲。そして、そのすべてを映す水。
「あるいは……私たちに見えているものが、水殿のすべてではないのかもしれません。」
ガレスが視線を向けた。
「どういう意味だ。」
「これまで訪れた三つの遺構も、入口は外から見えないよう、仕掛けによって隠されていました。」
東の地下神殿、北の知恵の祠、西の誓約の回廊。いずれも入口は巧妙に隠され、正しい条件を満たした者だけが先へ進めるよう造られていた。
「水殿そのものが失われたのではなく――」
エレノアは窪地を見渡す。
「今もこの場所のどこかに、仕掛けによって隠されているのだと思います。」
ガレスは僅かに頷いた。
「ならば、手掛かりを探す。」
すぐに一同を見回す。
「外周から調べる。単独では動くな。シリルとエレノア嬢は中央付近を確認しろ。クラウディアはエレノア嬢の背後につき、周囲を警戒。」
「承知しました。」
「リアナとオーウェンは左右へ回れ。ただし、森の中へは入るな。」
「了解。」
全員が、それぞれの持ち場へ動き始めた。
エレノアは中央の浅い水辺を中心に、周囲の岩や地面を確かめていった。
人工的に削られた痕跡や、不自然に並ぶ石、文字に見える溝がないか。一つずつ目を凝らしながら、何か手掛かりがないかと膝をついて草をかき分ける。
白い岩へ近づこうとすると、シリルが先にその前へ出た。手袋をはめた手で表面へ触れ、毒を持つ植物や鋭い亀裂がないことを確かめる。それから、エレノアへ場所を譲った。
「ありがとうございます。」
エレノアは布を取り出し、岩の表面を丁寧に拭う。だが、現れたのは自然にできた筋だけだった。
「……違いますね。」
次の岩にも文字はない。さらに別の場所を調べたが、手掛かりらしいものは見つからなかった。
――蒼鏡。
水殿の名には、必ず意味があるはずだ。
「鏡……。」
小さく呟く。けれど、その先の考えはまだ形にならない。その時、少し離れた場所からリアナの声が届いた。
「エレノア様、こちらを見ていただけますか?」
リアナは窪地の外周付近で、半分ほど土へ埋もれた平たい石の前にしゃがんでいた。
「何かありましたか?」
「自然にできた傷にしては、線が整いすぎているように見えます。」
エレノアはすぐに近づき、石の前へ膝をついた。表面は苔と湿った土に覆われている。手袋をはめ、柔らかな布で少しずつ汚れを払っていく。
最初に現れたのは、一本の細い曲線だった。さらに土を落とす。曲線の下から、幾つもの線が連なって姿を現す。
エレノアの瞳が大きく開いた。
「古代文字です。」
シリルも隣へ膝をつき、文字へ絡みついていた細い根を、短剣で慎重に切り取った。
やがて、埋もれていた石の全体が姿を現す。細長い石碑だった。上部には、太陽を思わせる円。下部には、幾重にも重なる波の紋様。
エレノアは文字の輪郭を目で追い、静かに読み始めた。
「――『蒼き天を仰ぐ者よ』」
「『目に映るものを、真実と思うな』」
慎重に確かめ、次の行へ進む。
「『天にある光は一つ』」
「『されど、地に映る姿は二つ』」
そして最後。
「『空を水底へ返し、二つの光を一つとせよ』」
そこで碑文は終わっていた。
「……天にある光は、太陽か。」
「私もそう思います。」
オーウェンの言葉に、エレノアは石碑の上部へ刻まれた円を示す。
「ただ……『地に映る姿は二つ』が、何を意味しているのかまでは分かりません。」
リアナが中央の水面を見つめた。
「太陽を水へ映す、ということではないのでしょうか。」
「それだけなら、“二つ”にはなりません。」
エレノアも水面へ目を向ける。朝の太陽は東側の木々の向こうにあり、まだ水面へ直接その姿を映してはいなかった。
『空を水底へ返す』
ならば、何らかの方法で太陽の光を水へ導く必要がある。
そう考えた時。
窪地へ点在する白い岩が目に留まった。
「……鏡。」
エレノアは、一つずつ岩を目で追っていく。
「この場所には、水面以外にも“鏡”があるのかもしれません。」
全員が周囲を見渡す。
十を超える白い岩。そのほとんどは土や苔に覆われ、自然石にしか見えない。
けれど、北東側にある一つだけが、木々の間から差し込む朝日を受け僅かに青く輝いていた。
「あれです。」
オーウェンがすぐに向かう。
手袋で表面を擦ると、苔の下から滑らかな面が現れた。
「石じゃない。」
エレノアたちも近づくと、現れたのは、青みを帯びた金属だった。
ガレスの指示で、オーウェンとリアナが周囲の土を払い始める。やがて、地中へ埋もれていた装置の全体が姿を現した。
円形の金属板。大きさは、人の上半身ほどもある。縁には波の紋様が刻まれ、石造りの台座へ固定されていた。長い年月を経ているにもかかわらず、その表面にはほとんど曇りがない。朝日を受けると、水のような青い輝きを返した。
「蒼い鏡……。」
エレノアが息を呑む。
「これが、碑文に記された“鏡”なのかもしれません。」
リアナが台座の側面へ手を添えた。
「僅かに動きます。」
力を加えると、金属板は重い音を立てながら、ゆっくりと傾いた。
「向きを変えられるのですね。」
エレノアは太陽と中央の水面を見比べる。
「この鏡で太陽の光を反射させ、水面へ導くのだと思います。」
ガレスが周囲を確認する。
「試すぞ。」
オーウェンとリアナが鏡の左右へ立った。
エレノアは中央の水辺へ移動し、光の落ちる場所を確かめる。彼女が歩き始めると、シリルも当然のように隣へついた。
「水際は滑りやすそうです。気をつけます。」
「ああ。」
返事をしながらも、シリルは離れない。
エレノアが窪地の縁へ膝をつくと、その半歩前へ立った。反対側にはクラウディア。二人が、エレノアと森の双方を警戒できる位置を取った。
「少し右へ動かしてください。」
エレノアが鏡の方へ声を掛けた。リアナとオーウェンが、慎重に角度を変える。反射した光が草の上を走った。
「もう少し下です。」
「このくらいか?」
「あと少しだけ……はい。そのままお願いします。」
一筋の光が、中央の水面へ落ちた。
水の中に、眩い光の円が生まれる。まるで地上へ、二つ目の太陽が現れたようだった。
次の瞬間。
水底へ、青白い線が走った。
「光りました!」
リアナの声が響く。
青い線は水底を這うように広がり、幾重もの円を描いていく。
それまで泥と石しか見えなかった底へ、巨大な紋様が浮かび上がった。
中央には太陽。その周囲には、無数の古代文字。
だが。
エレノアは眉を寄せた。
「……逆向きです。」
「逆向き?」
鏡を支えたまま、オーウェンが聞き返す。
「はい。このままでは読めません。」
すると、水底で輝いていた文字の光が、ゆっくりと水面へ浮かび上がった。実際に文字そのものが動いているわけではない。光だけが、水面の裏側へ写し取られていくようだった。
エレノアは息を呑む。水底では反転していた文字が、水面では正しい向きに並んでいる。
「……そういうことだったのですね。」
見るべきものは水底ではない。水面――この水そのものが、文字を正しく映し出すための鏡だったのだ。
エレノアは一文字ずつその形を追った。
「――『空にある光を、水底へ』」
風が窪地を抜けていく。草は揺れ、エレノアの蜂蜜色の髪も僅かになびいた。
それなのに、水面だけは不自然なほど静まり返っていて、青白い文字は鏡のような水面へ乱れることなく浮かんでいた。
「『水底にある光を、空へ』」
そして最後の一文へ辿り着いた時、エレノアの表情が変わった。
「『二つの太陽が重なる時、眠れる道は目覚める』」
「二つの太陽……。」
リアナが中央の水面を見る。
そこには今、鏡によって導かれた太陽の像が眩い光輪となって浮かんでいる。
その一方で、朝日が高くなるにつれ、東側の木々の間から差し込んだ光が円形の水面へ届き始めた。やがて決まった一点へ、空の太陽を映したもう一つの光輪が現れる。
エレノアは息を呑んだ。
「これです。」
全員が彼女を見る。
「“地に映る姿は二つ”――この二つの太陽を意味していたのですね。」
碑文の意味が、ようやく一つへ繋がった。
「二つを、同じ位置へ重ねるのだと思います。」
エレノアは鏡の方へ顔を上げる。
「角度を、もう少し変えてください。」
リアナとオーウェンが力を込めた。
光の円が、水面をゆっくりと滑っていく。
「左へ。」
光が本物の太陽へ近づく。
「少し上です。」
光の円が水面を進み、エレノアが息を詰める。
「そのまま、ゆっくり……。」
そして。
二つの太陽が、ぴたりと重なった。
――キィン
澄み切った音が響いた。まるで巨大な硝子の器を、指先で弾いたような音だった。
水底の文様が、鮮やかな青い光を放つ。
直後、地面が大きく揺れた。
「っ……!」
シリルが即座にエレノアの肩を抱き、自分の方へ引き寄せる。クラウディアも反対側から周囲を警戒した。
「怪我は。」
「大丈夫です。」
揺れは、さらに強くなっていく。
水面が大きく波立ち、地中から滲み出していた水が、渦を巻き始めた。
「水が……。」
水底の青い文様が、鼓動するように明滅する。
やがて水は、石床へ刻まれた無数の細い溝へ吸い込まれていった。まるで本来あるべき水路へ、還っていくかのように。水位が、みるみる下がる。
そして水が完全に引いた時。
窪地の底一面に、精緻に組まれた白い石畳が姿を現した。
「こんなものが……。」
オーウェンが息を呑む。
中央には、巨大な円形の石床。
水底で光っていた太陽の紋様が、その中心へ刻まれている。
ゴォ……。
重い音とともに、円形の石床が回転を始めた。
土埃が舞う。
やがて、円を二つへ分ける直線に沿って亀裂が走った。
ゆっくりと。
石床そのものが、左右へ開いていく。
地中から冷たい空気が吹き上がり、その下から、地下へと続く長い白石の階段が姿を現した。
壁面には水の流れを表す彫刻が刻まれ、その奥からは青白い光が微かに漏れていた。
エレノアは息をすることも忘れ、その光景を見つめた。
「見つけました……。」
声が震える。
「蒼鏡の水殿への入口です。」
父が、幾つもの古水路が不自然に集まると指摘していた場所。
その仮説へ繋がる入口が今――
確かに、目の前へ姿を現している。
胸の奥から込み上げるものを抑えきれず、エレノアは両手を強く握った。
「お父様が追っていた道は……本当に、ここへ繋がっていたのですね」
隣に立つシリルも、地下へ続く階段を見つめていた。
やがて静かに頷く。
「ああ。」
短い一言だった。けれど、エレノアにはそれで十分だった。
父が信じた研究を。
自分がここまで追い続けてきたものを。
彼もまた、目の前の事実として受け止めてくれている。
エレノアの翡翠色の瞳へ涙が浮かんだ。
だが、それが零れ落ちるより先に――。
ばきり。
森の奥で、太い枝が踏み折られる音がした。
シリルの表情が一変する。
エレノアを支えていた手を離し、半歩前へ出る。
剣を抜いた。
澄んだ金属音が、開けた窪地へ響く。
ほぼ同時にガレスが振り返った。
「構えろ。」
オーウェンとリアナも鏡から離れ、それぞれ剣を抜く。クラウディアはエレノアのすぐ背後へ立った。
森がざわめいた。
一か所ではない。
右。
左。
正面。
低い唸り声が、木々の間を這うように近づいてくる。
茂みの奥で。
一対の黄金色の目が光った。
その隣に、もう一対。
さらに奥にも。
一つではない。
森を取り囲む闇の中で、次々と黄金色の光が灯っていく。
エレノアの背筋を冷たいものが走った。
シリルは剣を構えたまま、彼女から一歩も離れない。
「俺から離れるな。」
「はい。」
短い返事を確かめると、深い青の瞳が森の奥を鋭く射抜いた。
茂みが、大きく揺れる。
そして次の瞬間。
獣の咆哮が、目覚めた蒼鏡の地へ轟いた。




