51話 蒼を映す鏡 前編
51話 蒼を映す鏡 前編
翌朝、森に残っていた薄い霧が、昇り始めた朝日に押し流されていく頃。
遠征隊一行は、蒼鏡の水殿が存在したと推測される場所の近くへ到着した。すでに街道は途切れている。
長く人の手が入らなくなった森では、古木の根が地表を這い、低く伸びた枝が行く手を塞いでいた。馬一頭が通るだけでも難しい場所が増えている。この先へ馬や荷を運び込めば、身動きが取れなくなるばかりか、馬の脚を傷めかねなかった。
先頭を進んでいたガレスが片手を上げる。
「全隊、止まれ。」
落ち着いた声が響くと、騎士たちは一斉に手綱を引いた。
「ここから先は徒歩で進む。」
ガレスは馬を降り、森の奥を見据えた。
細い獣道には、古木の根が幾重にも隆起している。湿った岩には厚く苔が張りつき、少し足を滑らせれば、人間であっても斜面へ転げ落ちかねない。
アルヴィンも馬を降り、二枚の地図を広げた。一枚は、現在の地形を記したもの。もう一枚は、エレノアの父ローレンスの論文や古い地誌をもとに、彼自身が復元した古代の地図だった。
周囲の尾根や岩壁を見比べたあと、アルヴィンは静かに頷く。
「この辺りで間違いありません。古地図に残る地形と一致しています。」
古い地図の一点を指で示した。
「かつては、この先に水殿へ続く参道があったようです。今では森に呑まれていますが、周囲の地形そのものは大きく変わっていません。」
地図を回し、ガレスたちからも見えるようにする。
「この獣道を南東へ進んでください。しばらくすると、中央から二つに割れた大岩が見えるはずです。そこから地形の低い方へ下れば、水殿があったと考えられる場所へ出ます。」
「ここまでの案内、助かった。」
ガレスは地図と進行方向を見比べ、短く頷いた。
「アルヴィン先生は手筈どおり、ここに残って資料の保管を頼む。」
アルヴィンは馬のそばへ積まれた資料箱へ目を向ける。その中には、復元地図や古代地誌の写しが納められていた。
「承知しました。貴重な資料です。責任をもってお預かりします。」
真剣な表情で答えたあと、少しだけ口元を和らげる。
「皆さんがお戻りになった際、すぐに記録と照合できるよう準備しておきます。」
ガレスは短く頷き、同行してきた騎士たちへ向き直った。
「馬と荷はここへ残す。待機組は周囲を警戒しながら、馬、物資、研究資料を守れ。」
「はっ。」
騎士たちはすぐに動き始めた。馬を木々の間へ移し、周囲から見つかりにくい場所へ繋ぐ。
ガレスは待機組を任せる騎士へ告げた。
「信号筒は三種だ。上空へ打ち上げろ。白は入口発見、赤は応援要請、黒は即時撤退を示す。」
「承知しました。」
「定刻までに戻らず、信号も上がらなければ最寄りの駐屯地へ伝令を出せ。」
「はっ。」
「この一帯は人の出入りがほとんどない。大型の獣や魔物が棲みついている可能性もある。油断するな。」
その言葉に、待機する騎士たちの表情が引き締まった。
エレノアは鐙から足を外し、馬を降りようとした。すぐ下には、すでにシリルが立っている。彼は何も言わず両腕を伸ばし、エレノアの身体を危なげなく抱え下ろした。
地面には朝露が残り、ところどころがぬかるんでいる。けれど、シリルが彼女を下ろした場所だけは、太い木の根が露出し、足元が固かった。
「ありがとうございます。」
エレノアが礼を告げる。それにシリルは短く頷くと、彼女がきちんと立てていることを確かめてから手を離した。
エレノアは鞍へ掛けていた革鞄へ手を伸ばす。中には筆記具と羊皮紙、必要な古代語資料の写し、そして父ローレンスの論文が入っている。
選別したとはいえ、決して軽くはない。それでも、自分で持てないほどではなかった。ところが、エレノアの手が届くより先に、シリルが鞄を持ち上げた。
「あの、シリル様。今回は私が持ちます。」
シリルは鞄の留め具を確認し、そのまま自分の肩へ掛けた。
「道が悪い。」
「ですが、シリル様は剣もお持ちですし……。」
「問題ない。」
返すつもりがないことは、その一言だけで十分に伝わった。
エレノアは少し困ったように鞄を見上げた。けれど、彼が安全のためにしてくれていることも分かっている。
「では……お願いいたします。」
「ああ。」
森の奥へ進むのは、ガレス、シリル、クラウディア、オーウェン、リアナ、そしてエレノアの六名。
ガレスは全員を見回した。
「隊列を確認する。俺が先頭を取る。シリルはエレノア嬢から離れるな。クラウディアは後方。リアナは右、オーウェンは左を警戒しろ。」
「異変を感じたら、どれほど小さなことでも声を上げろ。単独行動は禁止だ。」
「承知しました」
「了解」
全員の返事を聞き、ガレスが森の奥へ向き直った。
「行くぞ。」
◇◇◇
森へ足を踏み入れると、外から見ていた以上に地面は歩きにくかった。
太い根が何本も絡み合い、足を置ける場所は限られている。降り積もった落ち葉の下には石が隠れ、一歩ごとに慎重さを求められた。
ガレスは進路を確かめながら、一定の速度で先を進んでいく。
「昔、この周囲には水路が通っていたのでしょうか。」
リアナが右側の木立を警戒しながら、エレノアへ尋ねた。
「その可能性は高いと思います。」
エレノアも足元に注意しながら答える。
「父は、この辺りにあった施設が、地下水路網の管理にも関わっていたのではないかと考えていました」
「けれど今は、川も水路も見当たりませんね。」
「地殻の変動や土砂の堆積によって、水の流れが変わったのかもしれません。あるいは――」
エレノアは少し考えた。
「今も、私たちの足元を流れているのかもしれません。」
そう告げたあと、父の論文が入った鞄へ目を向ける。その鞄はシリルの肩に掛かっていた。
先日、彼からあの論文を渡された時のことを思い出す。父が長い年月をかけて調べ続け、それでも誰にも認められなかった研究。
蒼鏡の水殿を見つけることができれば、父の考察が正しかったと証明できるかもしれない。
期待が胸へ膨らむ。それと同時に、もし自分が読み違えていたらという不安も、静かに顔を覗かせた。
「ですが……本当に、場所は合っているのでしょうか。」
思わず小さな声が漏れると、後ろを歩いていたクラウディアが穏やかに問いかける。
「不安ですか?」
「少しだけ。」
エレノアは正直に頷いた。
「私たちが参考にした記録は断片的です。古代と現在では、地形も変わっています。もし私が解釈を誤っていたら、皆様を危険な森の奥まで連れてきてしまったことになります。」
「エレノア様。」
リアナが柔らかく呼びかける。
「まだ何も見つかっていないだけです。間違っていると決まったわけではありません。」
「そうですが……。」
「それに、ここへ来ると決めたのは副団長です。私たちも全員、自分の意思で同行しています。」
オーウェンも左側の茂みから視線を外さないまま続けた。
「違っていたら、また探せばいい。探索で最初からすべて当たる方が珍しい。」
前を歩くガレスも、振り返らずに言う。
「結果が出る前から責任を背負うな。ここへ進むと判断したのは俺だ。」
皆の言葉が、静かに胸へ届く。
エレノアは胸の前で手を重ねた。
「……ありがとうございます。」
その直後、すぐ隣から低い声が落ちた。
「前を見ろ。」
シリルだった。
エレノアが顔を上げると、目の前へ太い根が張り出している。
「あ……。」
危うく躓くところだった。
シリルはすぐに彼女の腕を支えると、自分が先に根を越え、安全な足場を確かめる。それから、エレノアが根を跨ぐまで手を添えていた。
「申し訳ありません。」
「謝るな。」
それだけ告げると、シリルは再び周囲へ目を向けた。けれど、その手はエレノアが確かに足場へ立つまで離れなかった。
エレノアは彼の横顔を見上げる。
シリルは、いつもと変わらず隣にいた。エレノアが迷っても急かさず、答えを代わりに決めることもない。ただ必要な時だけ手を差し伸べ、彼女が自分の足で進むのを待ってくれる。それだけで、不思議と胸の重さが和らいだ。
エレノアが穏やかに微笑む。
その笑みに気づいたシリルは一瞬だけ視線を止めたが、すぐに進行方向へ戻した。
しばらく進んだところで、リアナが突然足を止めた。右手を軽く上げ、全員へ静止を伝える。
「何かあるか。」
ガレスが声を抑えて尋ねるがリアナは答えず、地面へしゃがみ込んだ。落ち葉を払い、その下に残された跡を確かめる。
「足跡です。」
オーウェンも近づき、少し離れた場所へ膝をついた。
湿った土に、三本の深い爪痕が刻まれている。獣のものに似ている。だが、一つの足跡だけで、人の手のひらよりも大きかった。
「こちらにもある。」
オーウェンが指した先には、同じ形の足跡が幾つも重なっていた。古いものの上へ、新しい跡が残されている。
リアナは土の縁へ指先を近づけた。
「崩れていません。かなり新しいです。昨夜か……今朝、この辺りを通ったのでしょう。」
シリルが即座にエレノアの前へ出る。まだ剣は抜いていない。だが、右手はすでに柄へ添えられていた。
クラウディアもエレノアの背後へ回り、後方と死角を警戒する。
「数は分かるか。」
ガレスが尋ねると、オーウェンは周囲へ目を走らせた。
「少なくとも八、九頭はいる。歩幅と進行方向が重なっている。実際はもっと多いかもしれない。」
「群れで動く種でしょうか。」
リアナの問いに、クラウディアは足跡を見つめたまま答える。
「この跡だけでは断定できません。ただ、この大きさで三本爪……少なくとも、この地方に棲む通常の獣とは一致しません。」
その時。
森の奥で、枝が小さく鳴った。
全員の視線が、一斉に音のした方角へ向く。
息を潜める。
だが、茂みは動かない。
鳥の声も聞こえなかった。先ほどまで微かに響いていた虫の音さえ消えている。森全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。
ガレスが静かに立ち上がる。
「警戒を強める。だが、目的地は近い。進むぞ。」
隊列がわずかに変わった。ガレスは先頭を維持し、オーウェンが前方左側へ位置を上げる。リアナは右側の木々を警戒し、クラウディアは中央との距離をさらに縮めた。
シリルはエレノアのすぐ前を進む。先ほどまでより歩調は遅い。敵が現れた時、彼女との間へわずかな距離も生まれないようにしているのだ。エレノアもそれを察し、遅れないよう慎重に足を運んだ。
やがて、木々の向こうが少しずつ明るくなる。
「森を抜けます。」
リアナが囁くように告げた。
ガレスは一度足を止め、開けた場所の様子を窺う。オーウェンが左側へ回り込み、リアナが右側から先行した。
二人は木立の向こうを確認し、ほぼ同時に小さく頷く。
「今のところ、動くものはありません。」
「こちらも安全です。」
ガレスが先へ進む。
シリルはエレノアを背後へ置いたまま、最後まで周囲を確認してから木立を抜けた。
視界が、一気に開ける。
森に囲まれた、広大な窪地が広がっていた。ほぼ円形の土地。
外周には古い木々が立ち並んでいるが、中央には大きな木が一本もない。背の低い草が一面を覆い、その間から白い岩が幾つも顔を出していた。
中央部分は、周囲よりわずかに低い。そこには地中から滲み出したような浅い水が薄く広がり、雲一つない朝の空を、鏡のように映している。
風が吹いているにもかかわらず、水面にはほとんど波紋がなかった。
エレノアの足が、自然と止まった。
北東に並ぶ二つの峰。西側に聳える岩壁。そして南へ向かって緩やかに下る地形。
父の論文に記されていた特徴が、目の前の景色と一つずつ重なっていく。
そして、その中央には――空の蒼をそのまま映し取った、鏡のような水面が広がっていた。
エレノアは息を呑んだ。
「……ここです」
声は小さかった。けれど、もう迷いはなかった。
「ここが――蒼鏡の地です。」
長い歳月の中で湖そのものは失われても、その名の由来だけは、今もなお青空を映す水面に残されていた。
(続く)




