50話 星降る野営地③―森に潜む影―
50話 星降る野営地③―森に潜む影―
食事を終える頃には、空はすっかり藍色へ染まっていた。
薪がぱちりと弾け、温かな橙色の光が、焚き火を囲む者たちの顔を柔らかく照らしている。
リアナは空になった木椀を傍らへ置くと、夜空を仰いだ。
「今日は、星がよく見えますね」
その言葉につられるように、エレノアも顔を上げる。
雲一つない夜空には、数え切れないほどの星が散りばめられていた。
「本当に綺麗ですね。王都では、ここまで多くは見えません」
焚き火のそばへ腰を下ろしたオーウェンが、炎の向こうを見つめながら呟く。
「明日はいよいよ、最後の遺跡か」
エレノアの表情が、わずかに引き締まった。
「はい。四枚目の石板が見つかれば、これまで分からなかったことも明らかになる気がします」
「緊張していますか?」
リアナが穏やかに尋ねる。
「……少しだけ」
エレノアは正直に頷いた。
「何が待っているか分かりませんから、不安がないわけではありません。でも――」
一度、満天の星へ視線を向ける。
「まだ誰も知らない歴史へ近づけると思うと、それ以上に胸が高鳴るんです」
翡翠色の瞳には、古代文字へ向き合うときと同じ、真っ直ぐな光が宿っていた。
「これまでにも危険なことはありました。それでも、その先に残された言葉を知りたいという思いの方が、いつも強くて」
リアナは、眩しいものを見るように微笑んだ。
「私、エレノア様が古代文明のお話をなさるときのお顔が好きです」
「え……?」
思いがけない言葉に、エレノアが目を瞬く。
「本当に楽しそうで。聞いている私まで、もっと知りたくなるんです」
「私も同感です」
クラウディアも静かに頷いた。
「心から好きなものを語る方は、自然と人を惹きつけるものですから」
「ありがとうございます……」
二人からまっすぐに告げられ、エレノアは照れたように頬を染めた。
焚き火が、ぱちりと小さく音を立てる。
少し間を置いて、オーウェンが尋ねた。
「エレノア嬢は、幼い頃から古代文字を学んでいたんですよね?」
「はい。父が研究していましたので、気づけばいつも書斎にいました」
「遊び場も書斎だったんですか?」
「書斎でした」
迷いのない答えに、皆から笑いがこぼれる。
エレノアも懐かしそうに目を細めた。
「本棚の間で遊んだり、父が書き写した古代文字を眺めたりしていました。意味は分からなくても、文字の形を見るのが好きだったんです」
「それで、自然と読めるようになったのですね」
リアナの言葉に、エレノアは首を横へ振る。
「いいえ。最初は、まったく読めませんでした」
「そうなのですか?」
「はい。何度も辞書を引いて、父に教わって、書き写して……その繰り返しです」
クラウディアが穏やかに頷いた。
「長い努力の積み重ねなのですね」
「はい」
エレノアは謙遜することなく、素直に認めた。
「特別な才能があったわけではありません。ただ、読めるようになりたかったんです」
その言葉に、焚き火を囲む者たちが静かになる。
シリルは炎越しに、エレノアを見つめていた。
古代文字を読める唯一の者。
だが、その力は突然与えられたものではない。幼い頃から一文字ずつ積み上げてきた、長い時間の先にある。
――努力してきた人だ。
だからこそ、今ここにいる。
シリルは何も言わず、その横顔を静かに見つめていた。
ふと、リアナが彼へ顔を向ける。
「シリルは?」
「何がだ」
「子どもの頃は、何をして遊んでいたの?」
シリルは少しだけ考え、短く答えた。
「剣」
「やっぱり」
リアナが笑う。
「朝は?」
「木剣」
「昼は?」
「木剣」
「夕方も?」
「ああ」
「毎日?」
「毎日だ」
あまりにも予想どおりの返答に、皆から笑い声が上がった。
「本当に稽古ばかりだったのね」
「遊びも稽古だった」
シリルはそれだけ答え、再び口を閉じる。
エレノアは興味深そうに彼を見た。
「ヴァルモント侯爵家は、厳格なお家なのですか?」
「普通だ」
シリルは焚き火を見たまま答える。
その隣で、オーウェンがすぐさま首を横へ振った。
「いや、普通ではありませんよ」
「そうなのですか?」
「俺が初めてヴァルモント家へ遊びに行ったとき、『遊ぼう』と言われて木剣を渡されました」
リアナが吹き出す。
「それは稽古でしょう?」
「本人たちにとっては、遊びだったらしい」
オーウェンは肩をすくめた。
「シリルだけでなく、兄上まで加わってきまして」
その光景を思い浮かべたのか、エレノアは楽しそうに笑った。
「少し、見てみたかったです」
シリルが、わずかに目を見開く。
「幼いころから、とても努力されてきたのですね。」
柔らかな笑顔を向けられ、シリルは一瞬だけ視線を逸らした。
「……昔のことだ」
返ってきたのは、それだけだった。
けれどオーウェンは、木椀を口元へ運びながら、密かに堪えている。クラウディアも何も言わず、静かに目を細めた。
剣の腕をどれほど称えられても顔色一つ変えない青年が、
エレノアの何気ない言葉には返答に困っている。
当のエレノアは、シリルが言葉少ななのはいつものことだと思い、穏やかに微笑むだけだった。
夜風が吹き抜け、焚き火の炎がゆらりと揺れる。
明日には、最後の遺跡へ向かう。それでも今だけは、仲間たちの間に心安らぐ時間が流れていた。
◇
やがて会話が途切れ、それぞれが静かに夜空を眺め始めた。
星々は、黒い天幕へ光の粒を撒いたように瞬いている。
エレノアは空を見上げたまま、小さく口を開いた。
「父が、よく言っていたんです」
皆の視線が集まる。
「星空は、昔も今も変わらない。古代の人々も、きっと同じ空を見上げていたはずだと」
幼い頃、父の書斎で何度も聞いた言葉だった。
「何千年も前を生きた方々も、こうして星を見ていたのかもしれないと思うと……遠い時代の人々が、少しだけ近く感じられるんです」
リアナは、静かに聞き入りながら微笑んだ。
「エレノア様らしいお話ですね」
「そうでしょうか」
「はい。過去の人々を、ただの記録としてではなく、本当に生きていた方として見ていらっしゃるから」
エレノアは少し照れたように笑った。
焚き火の向こうから、シリルはその横顔を見つめていた。
古代文明を語るときの、真っ直ぐな翡翠色の瞳。
過ぎ去った時代の人々へさえ、敬意を失わない優しさ。
彼女を見ていると、不思議と胸の内が静かになる。
そのとき、森を渡る風が少しだけ強くなった。
エレノアの髪が揺れ、肩が小さく震える。
シリルは無言で立ち上がると、自分の外套を外した。
そのままエレノアの背後へ回り、濃紺の布を肩へ掛ける。
「え……」
驚いて振り向くエレノアへ、シリルは短く告げた。
「冷える」
「ですが、シリル様が――」
「俺は平気だ」
反論を許さない声だった。
エレノアは外套の前を両手で合わせる。
厚い布に残る温もりが、冷え始めていた身体を包んだ。
「……ありがとうございます」
「ああ」
シリルは小さく頷き、元の位置へ戻る。
リアナは、濃紺の外套へ包まれたエレノアを見て微笑んだ。
「よくお似合いですよ、エレノア様」
「そうでしょうか?」
「はい。とても」
エレノアは少し照れながら、外套の襟元へ顔を寄せる。
その姿を見たシリルは、ほんのわずかに目元を和らげた。
やがてガレスが立ち上がる。
「そろそろ休め。明日は夜明けとともに出発する」
騎士たちが表情を引き締めた。
「夜番は二人ずつ交代だ。最初は――」
「俺が立ちます」
シリルが先に告げた。
ガレスは一度だけ彼を見る。
「分かった。オーウェン、お前もつけ」
「了解」
オーウェンはシリルへちらりと目を向けたが、何も尋ねなかった。ただ、すべて分かっているような笑みをわずかに浮かべ、焚き火のそばへ腰を下ろす。
天幕へ向かう前に、エレノアは借りていた外套を丁寧に外した。
「シリル様」
差し出された外套を受け取りながら、シリルが彼女を見る。
「今日も一日、本当にありがとうございました」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「おかげで、安心して旅をすることができます」
シリルはしばらく彼女を見つめ、それから低く答えた。
「明日に備えて休め」
「はい。おやすみなさいませ」
「ああ」
エレノアは一礼し、クラウディアとともに天幕へ入っていく。
布の向こうへ姿が消えるまで、シリルはその場を動かなかった。
やがて外套を肩へ掛け直し、森の闇へ視線を移す。
焚き火へ薪を一本くべると、橙色の火の粉が夜空へ舞い上がった。
森は静まり返っている。
虫の声。
川の流れる音。
風に擦れる木々の葉。
どれも、穏やかな夜の音だった。
けれど。
野営地から遠く離れた森の奥。
月明かりさえ届かぬ木々の隙間で、淡い光が二つ、静かに瞬いた。
獣の眼にも見える。
だが、その位置は人の背丈よりも高い。
それは音も立てず。
気配すら闇へ溶かしたまま。
遠く揺れる焚き火の方角だけを、じっと見つめていた。




