49話 星降る野営地②―焚き火の夜―
49話 星降る野営地②―焚き火の夜―
鍋の水が温まると、エレノアは玉ねぎ、根菜、豆、細かく刻んだ干し肉を順に加えていった。
木杓子でゆっくりとかき混ぜるたび、甘い野菜と肉の香りが夕暮れの野営地へ広がっていく。
「いい匂いだな……」
薪を抱えて戻ってきたオーウェンが、大きく息を吸った。
「まだ出来上がっていませんよ」
エレノアが笑う。
「分かってる。だが、もう腹が鳴りそうだ」
そう口にした直後だった。
――ぐぅ。
小さく、けれど確かに音が響く。
一瞬、辺りが静まり返った。
次の瞬間、リアナが堪えきれずに吹き出す。
「本当に鳴った!」
「違う。今のは偶然だ」
「何と何が偶然重なったのよ」
「俺が話し終わった瞬間に腹が鳴っただけだ」
「それを鳴ったと言うのよ」
笑い声が広がる。
エレノアも思わず口元へ手を当てた。
「ふふ」
その笑顔を見たオーウェンは、諦めたように肩をすくめる。
「エレノア嬢に笑っていただけたのなら、恥をかいた甲斐もあるな」
「開き直ったわね」
「騎士は立ち直りが早いんだ」
「便利な言葉ね」
リアナが呆れたように笑う。
二人のやり取りを聞きながら、シリルは焚き火の傍らへしゃがみ込んだ。
炎が少し弱くなっている。
乾いた薪を一本加え、火の勢いを確かめる。橙色の炎がぱちりと音を立て、鍋の底を再び強く照らした。
「ありがとうございます。」
エレノアが礼を告げると、シリルは短く頷いただけだった。
思えば、彼はいつもこうしていた。
薪が減れば足し。水が足りなければ、頼まれるより先に桶を運ぶ。鍋が傾けば石を直し、火が強くなりすぎれば薪をずらす。
必要なことを見つけるたび、何も言わずに済ませてしまう。
(……護衛とは、本来ここまでしてくださるものなのかしら。)
一瞬そんな疑問が浮かんだものの、近衛騎士の務めを詳しく知るわけではない。何よりシリルは、誰かが困っていれば黙って手を貸す人だ。
きっと、そういう方なのだろう。
エレノアはそう納得し、再び鍋へ目を戻した。
少し離れた場所では、リアナが何とも言えない顔でその様子を眺めていた。しかし、口に出してもエレノアには通じないだろうと思ったのか、何も言わなかった。
◇
「エレノア様」
クラウディアが保存用のパンを入れた袋を差し出す。
「こちらは、どういたしましょう」
「ありがとうございます」
エレノアは固く乾燥したパンを一つ取り出し、少し考えた。
「小さく割って、最後に少しだけ煮込みましょう」
「鍋へ入れるのですか?」
「はい。汁を吸えば柔らかくなりますし、煮込みにもとろみがつきます。ただ、早く入れすぎると形がなくなってしまうので、仕上げに」
「なるほど」
クラウディアが感心したように頷く。
その会話を聞いていたリアナも、感嘆の息をついた。
「勉強もできて、お料理もお上手で……エレノア様は本当に何でもできるのですね」
「そんなことはありません」
エレノアは慌てて首を横へ振る。
「失敗もたくさんしています」
「例えば?」
「父へ、塩と砂糖を間違えた麦粥を出したことがあります」
一瞬、全員の動きが止まった。
オーウェンが恐る恐る尋ねる。
「……ローレンス卿は、それを召し上がったのか?」
「はい」
エレノアは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「『今日は少し甘い味つけだね』と仰って、全部食べてくださいました」
「全部……」
「食べ終わるまで、私も間違いに気づかなくて」
皆の想像を超える話だったらしい。
しばらく沈黙が落ちたあと、リアナが柔らかく笑った。
「お優しいお父様ですね」
「はい」
エレノアも懐かしそうに微笑む。
「そのあと母に教えられて、慌てて謝りました。それ以来、味見だけは必ずするようになったんです」
「お父様のおかげで、味見の習慣がついたのですね」
クラウディアの言葉に、エレノアは頷いた。
「はい。あの失敗だけは、忘れられませんから」
そう言って鍋をかき混ぜる姿は、どこか楽しげだった。
焚き火の明かりを受け、蜂蜜色の髪が柔らかく輝いている。
シリルは森へ警戒の目を向けながらも、時折その姿へ視線を戻していた。
遺跡の中で古代文字へ向き合うときとは違う。
肩の力を抜き、皆の言葉へ笑い、家族の思い出を穏やかに語る。
彼女が笑うだけで、胸の奥の張り詰めたものまでほどけていくようだった。
「シリル」
いつの間にか、オーウェンが隣へ立っていた。
「見張りを交代するか?」
「まだいい」
シリルは森へ視線を向けたまま答える。
オーウェンは一度、焚き火の傍らへ目をやった。
「そうか」
わずかに笑う。
「まだ、ここにいたいらしいな」
シリルの視線が鋭く向けられる。
「何の話だ」
「鍋だよ。腹が減ってるんだろ」
「余計なことを言うな」
「はいはい」
オーウェンは楽しそうに肩をすくめ、その場を離れていく。
シリルは再び森へ向き直った。
だが、しばらくしてまた、鍋の向こうにいるエレノアへ視線を戻した。
◇
空が群青へ変わり始めた頃。
エレノアは最後に割った保存パンを鍋へ加え、ゆっくりとかき混ぜた。汁を吸ったパンが柔らかくなり、煮込みへほどよいとろみがついていく。香草を指先ですり潰し鍋へ落とすと、香りが一段と深くなった。
木杓子で少量をすくい、息を吹きかけてから味を見る。
「……大丈夫です」
ほっとしたように微笑む。
「できました」
その一言に、野営地のあちこちから声が上がった。
「待ってました!」
「ようやく夕食ね」
「良い香りだ」
木の器へ煮込みが盛られ、一人ずつ手渡されていく。交代の見張りを残し、騎士も学者も焚き火の周りへ腰を下ろした。
ガレスも見張りの配置を終えると、少し離れた石へ座る。アルヴィンは資料箱から距離を取りながら、器を大切そうに両手で持っていた。
「温かい食事をいただけるとは、ありがたいですね」
「野営では、簡単なものになることが多いですから」
クラウディアが答える。
オーウェンは早速一口食べ、目を見開いた。
「美味い」
「まだ熱いわよ」
リアナが呆れたように言う。
「熱いうちに食べた方が美味いだろ」
「火傷しても知らないから」
「エレノア嬢、本当に美味しい」
改めて真剣な顔で告げられ、エレノアは嬉しそうに笑った。
「お口に合ってよかったです」
「芋も全部同じ柔らかさだ」
「そこを強調しなくてもいいでしょう」
リアナが笑う。
「重要だ。俺の名誉に関わる」
「もう手遅れよ」
再び笑い声が起きた。
その輪から少し外れた位置で、シリルも黙って煮込みを口へ運んでいた。
エレノアは自分の器を手にしたまま、そっと様子を窺う。
表情は変わらない。美味しいのか、そうでないのか。シリルは感情を顔へ出さないため、まったく分からなかった。
少し不安になり、思い切って尋ねる。
「シリル様」
「何だ」
「お味は……いかがでしょうか」
シリルは器から顔を上げた。青い瞳が、僅かに不安そうなエレノアの顔へ向けられる。
「美味い」
即答だった。
エレノアの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
もう一口食べてから、短く付け加える。
「身体も温まる」
「よかったです」
その笑顔を見たシリルの目元が、ほんの僅かに和らぐ。
傍らにいたオーウェンは何かを言いかけたが、リアナに腕を引かれた。
「今は黙っていましょう」
「俺は何も言ってない」
「言おうとしたでしょう」
二人の小声には気づかず、エレノアは嬉しそうに自分の煮込みへ口をつけた。
(続く)




