48話 星降る野営地①―同じ火を囲んで―
48話 星降る野営地①―同じ火を囲んで―
陽が西の森へ傾き始めた頃、南へ続く街道には、馬の蹄が土を踏む音が一定の間隔で響いていた。
その一頭。黒馬の背で、エレノアはいつの間にか眠り込んでいた。
背中を支えているのは、すぐ後ろに座るシリルの胸元だった。落ちないよう腰の前へ回された腕に身体を預け、一定の揺れに合わせて蜂蜜色の髪がゆるく揺れている。
朝、王都を出た時にも同じ馬へ乗ったが、昼前の第一休憩で黒馬を休ませるため、エレノアはいったん随行馬車へ移っていた。
ところが夕刻が近づくにつれ、先日の雨で荒れた街道へ入った。深い轍とぬかるみに車輪を取られ、馬車の揺れが激しくなったため、再びシリルの馬へ移ることになったのだ。
朝ほど緊張しなかったのは、同じ鞍へ乗ることに少し慣れたからなのかもしれない。あるいは、背後から支えてくれる腕に、もう安心してよいのだと身体が覚えてしまったからなのか。
エレノア自身がその答えを知るより先に、一定の蹄の音に誘われ、いつしか瞼は閉じていた。
やがて、先頭を進んでいたガレスが片手を上げた。
「ここで野営する」
低く通る声に、隊列がゆるやかに速度を落とした。
荒れた街道を抜けた先には、森の手前へ比較的乾いた草地が広がっていた。すぐそばには細い川が流れ、背後には風を遮る木立もある。馬を休ませ、天幕を張るには十分な場所だった。
周囲を確かめたガレスは、短く頷く。
「日が落ちる前に天幕を張る。馬を休ませたあと、交代で周辺を確認しろ」
騎士たちが一斉に返事をし、それぞれの役目へ動き始める。
その声をどこか遠くに聞きながら、エレノアはゆっくりと顔を上げた。
「……着いたのですか?」
「ああ」
すぐ耳元へ落ちた低い声に、何度か瞬きをする。
眠りに落ちる前より空は大きく傾き、白かった日差しはいつの間にか柔らかな橙色へ変わっている。
そこでようやく、自分がどんな姿勢で眠っていたのかに気づいた。
背中はシリルの胸元へ深く預けられ、腰には落ちないよう彼の腕が回されている。
そのことを意識した途端、残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。
「すみません。また眠ってしまって……」
「構わない」
短い返事だった。
けれど、シリルの声には責める響きなど少しもない。
エレノアが慌てて身体を起こそうとすると、腰へ回されていた腕がわずかに強まった。
「動くな」
「え……」
シリルは先に馬を降り、地面へ着地する。
それからすぐにエレノアへ両手を差し出した。
「降りろ」
エレノアは一瞬だけ迷ったものの、素直にその肩へ手を置いた。
腰を支えられ、身体がふわりと浮くと、危なげのない動作で静かに地面へ下ろされた。
だが、馬上で眠っているうちに脚が痺れていたらしい。靴底が草へ触れた途端、僅かに膝から力が抜けた。
「あ……」
倒れるより早く、シリルの腕が小柄な身体を支える。
肩と腰を抱き留められ、エレノアは咄嗟に彼の胸元へ手を添えた。
「申し訳ありません……」
「謝らなくていい」
それだけ告げ、シリルはすぐには腕を解かなかった。
青い瞳が、エレノアの顔から足元へ移る。
まだ痺れが残っていることを確かめているのだと気づき、エレノアの頬へ熱が集まった。
「もう、大丈夫です」
「立てるか」
「はい。きちんと立てます」
エレノアが自分の足で一歩踏み出したことを確かめてから、シリルはようやく腕を離した。
野営の準備は、驚くほど手際よく進んでいった。
ガレスが全体へ指示を出し、数名の騎士が馬を木立のそばへ繋いでいく。
リアナは荷馬から天幕を下ろし、クラウディアとともに道具を仕分けていた。
オーウェンは薪になりそうな枯れ枝を拾い集めている。
アルヴィンは、大切そうに抱えていた資料箱を乾いた場所へ置き、夜露に濡れないよう布を掛けていた。
皆が忙しそうに動くなか、エレノアだけが取り残されたようにその場へ立っている。
何か手伝えることはないかと周囲を見回していると、クラウディアがこちらへ歩いてきた。
「エレノア様」
袖を肘までまくり、大鍋と食材の入った麻袋を抱えている。
「これから夕食の準備をします。出来上がるまで、少し休んでいてください」
「私もお手伝いさせてください」
エレノアの表情が、ぱっと明るくなった。
「皆様が働いているのに、私だけ待っているわけにはいきませんから」
「ですが、今日は長く馬に乗っていらっしゃいましたし……」
「それは皆様も同じです。それに、お料理なら慣れています」
そう言って微笑むと、クラウディアは少し考えたあと、穏やかに頷いた。
「それでは、お願いしてもよろしいですか?」
「はい」
エレノアは嬉しそうに答え、大鍋のそばへ敷かれた布の前に腰を下ろした。
麻袋の口を開き、中身を一つずつ確かめていく。
「根菜と小粒の豆、それから干し肉ですね」
豆を一つ摘まみ、状態を確かめる。
「これなら早く柔らかくなります。根菜と一緒に煮込みましょう。最後に芋を少し崩せば、とろみもつきます」
迷いのない答えに、クラウディアが感心したように目を細めた。
「もう献立が決まったのですね」
「家のことを自分たちでするようになってから、あるもので作ることが増えましたので」
エレノアは根菜へついた土を払いながら続ける。
「最初は簡単なものしか作れませんでした。でも、始めてみると奥が深くて」
香草を手に取り、葉の状態を確かめる。
「同じ材料でも、切り方や煮込む順番で味が変わるんです」
「古代文字だけでなく、お料理まで」
クラウディアの言葉に、エレノアは少し恥ずかしそうに笑った。
「どちらも、ほんの少し違うだけで、出来上がるものが変わってしまいますから」
「ふふ。確かに、エレノア様らしいですね」
用意された水で食材を洗い終えると、エレノアは袖を肘まで折り、包丁を手に取った。
根菜の皮を剥き、同じ大きさへ切り揃えていく。
とん、とん、とん。
夕暮れの草地に、一定の心地よい音が響いた。
天幕用の杭を抱えていたリアナが、その音に足を止める。
「エレノア様、とてもお上手ですね」
「そうでしょうか?」
「そうですよ。少なくとも、以前食事当番だったオーウェンとは比べものになりません」
「なぜ、そこで俺が出てくるんだ?」
枯れ枝を両腕いっぱいに抱えたオーウェンが戻ってきて、不満そうに眉を寄せる。
「あなたが切った芋、大きさが全部違ったでしょう」
「煮れば同じだ」
「小さい方は溶けて、大きい方は芯が残っていたわ」
「あれは火加減の問題だろう」
オーウェンが真面目な顔で言い返す。
エレノアは包丁を動かす手を止め、少しだけ考えた。
「それは……切り方の問題だと思います」
一瞬、辺りが静かになった。
最初にクラウディアが小さく笑い、続いてリアナが吹き出す。
オーウェンは胸へ手を当て、大げさに顔を伏せた。
「まさかエレノア嬢から、とどめを刺されるとは……」
「そ、そんなつもりでは」
「気にしないでください。事実ですから」
リアナが容赦なく追い打ちをかける。
「味は悪くなかっただろ?」
「大きな芋には味が染みていなかったわ」
「……次は揃えて切る」
肩を落とすオーウェンの姿に、皆の笑い声が夕暮れの草地へ広がった。
エレノアも最初は申し訳なさそうにしていたが、やがて堪えきれずに笑みをこぼす。
これまでの遠征では、遺跡を前に緊張している時間の方が長かった。古代文字を読み、仕掛けを解き、何が起きるか分からない場所へ足を踏み入れる。気を抜いて誰かと笑える時間など、ほとんどなかった。
けれど今は、同じ鍋を囲むために皆で支度をしている。騎士も、学者も、古代文字を読む自分も、今だけは同じ夕暮れの中で笑っている。
そのことが、エレノアには嬉しかった。
切り終えた根菜を大鍋へ移し、火の準備をしようと立ち上がる。
「では、火を起こしますね」
言い終えるより早く、視界の端で誰かが動いた。
シリルだった。
いつから近くにいたのか、片腕に乾いた枝を抱えている。彼はエレノアの前へ枝を置き、火打ち石を取り出して膝をついた。
硬い音が二度響き、小さな火花が枯れ草へ落ちる。細い煙が上がり、やがて橙色の炎が生まれた。
「ありがとうございます」
シリルは僅かに頷き、火が細い枝へ移るまで見届けた。
火勢が安定したところで、エレノアが大鍋へ手を伸ばす。だが、それより早くシリルが持ち上げ、焚き火の上へ据えた。そのまま料理の邪魔にならない位置まで下がったものの、距離は近い。エレノアが手を伸ばせば届くほどだった。
彼女が鍋へ水を注ぐあいだも、その青い瞳は森や川辺、街道の先へ絶えず向けられていた。時折、火勢を確かめ、鍋が傾かないよう足元の石を直す。
エレノアが熱くなった取っ手へ手を伸ばしかけると、その前へ厚い布が差し出された。
「使え」
「あ……ありがとうございます」
布を受け取るとき、僅かに指先が触れた。革手袋越しのほんの小さな接触だったのに、エレノアはなぜか意識してしまい、慌てて鍋へ向き直る。
「シリル様は、少しお休みにならなくてよろしいのですか?」
「問題ない」
「先ほどは、ずっと私を支えてくださっていたでしょう」
「重くない」
あまりにも即座に返され、エレノアは瞬いた。
「ですが、ずっと同じ姿勢でいらしたのでは」
「慣れている」
短く答えたあと、シリルは火へ小枝を一本加えた。それだけで会話は終わったように見えた。
けれど、少しして彼は静かに付け加える。
「よく眠っていた」
エレノアの頬が熱くなる。
「やはり、ご迷惑でしたか?」
「違う」
シリルは炎を見つめたまま答えた。
「安心して眠れたなら、それでいい」
エレノアは言葉を失った。
シリルは、特別なことを言ったつもりなどないような顔で炎を見つめている。きっと彼にとっては、護衛として当然のことなのだろう。
それでも、その言葉は焚き火の熱とは違う温もりとなって、エレノアの胸へゆっくりと広がっていった。
「……はい」
小さく返し、鍋を混ぜる。
自然と浮かんだ笑みを、隠すことはできなかった。
夕陽が森の向こうへ沈んでいく。
野営地へ灯った小さな炎が、隣り合うエレノアとシリルの姿を柔らかく照らしていた。
(続く)




