47 話 南へ
47話 南へ
遠征当日の朝、王都はまだ薄い朝靄に包まれていた。
昇り始めた陽が白い城壁を淡く照らし、石畳に残る夜露が細かな光を散らしている。
王城正門前では、遠征隊の出発準備が着々と進められていた。騎士たちは馬具を点検し、荷馬や随行馬車へ食料、天幕、探索用の道具を積み込んでいく。
革の軋む音や馬の鼻息に混じって、短い号令が飛び交う。慌ただしい中にも、長く訓練を重ねた者たちらしい規律があった。
エレノアは両腕で抱えていた革鞄を、そっと抱き直した。
昨日まで机を埋めていた資料は、シリルにも確認を手伝ってもらい、ようやくこの一つへ収まるまでに絞り込んである。
知恵の祠で採取した拓本。古代文字の辞書。南部の新旧地図。そして、父ローレンスが残した赤茶色の革表紙の論文。
どれも、今回の遠征には欠かすことのできないものだった。
「エレノア様、おはようございます。」
声に振り返ると、青みがかった黒髪を高い位置できっちりと結ったクラウディアが、柔らかな笑顔で歩いてくるところだった。
「おはようございます、クラウディア様。」
「昨夜は眠れましたか?」
「はい。少し緊張はしていますけれど……。」
エレノアは、南の空へ目を向ける。
「最後の石板ですから。」
「そうですね。」
クラウディアも同じ方角へ視線を向けた。
「今回も、何が待っているかは分かりません。」
穏やかな声だったが、その中には騎士としての警戒が滲んでいる。
「ですが、皆様が一緒なら安心です。」
エレノアがそう告げると、クラウディアは僅かに目を細めた。
「私たちも同じですよ。」
「え……?」
「今度も、誰か一人で進む旅ではありませんから」
迷いのない言葉だった。
これまで越えてきた遺跡も、試練も、決して一人の力で辿り着いたものではない。
エレノアはその言葉を胸へ受け止め、革鞄を抱く腕へ僅かに力を込めた。
「ありがとうございます。」
その時、広場へガレスのよく通る声が響いた。
「全員、集合」
遠征隊の面々が次々と集まってくる。
シリル、クラウディア、オーウェン、リアナ、アルヴィン。そして現地まで同行する騎士や、物資を運ぶ補給要員。最後に、見送りのためダリウスも姿を現した。
全員が揃ったことを確認すると、ガレスは地図を広げた。
「目的地は、南部に存在すると推定される蒼鏡の水殿だ。」
指先が、王都から南へ延びる街道をなぞる。
「本日は街道を南下し、旧ルベール湖へ続く森の手前で野営する。明日の昼刻までには、湖沼域周辺へ到着する予定だ」
騎士たちが静かに頷く。
「王都を出て数刻は、先日の雨で街道の一部が荒れているとの報告が入っている。馬車は揺れが大きくなる可能性があるため、路面が安定するまではエレノア嬢をクラウディアの馬へ同乗させる」
ガレスは地図上の一点へ指を置いた。
「昼前には街道も整う。そこで一度長めの休憩を取り、馬を休ませる。その後、エレノア嬢は馬車へ移れ」
長距離の移動では、馬にも休息が必要になる。まして一頭へ二人が乗れば、なおさらだ。そのため、同乗は第一休憩までと決められていた。
「よし。騎乗に移れ」
騎士たちは、それぞれの馬へ向かい始めた。
クラウディアも白馬の手綱を取り、エレノアを振り返る。
「では、行きましょうか」
「はい」
エレノアは自然と、そのあとへ続こうとした。
ガレスから告げられたとおり、街道が落ち着くまでの数刻はクラウディアの馬へ同乗する予定だった。最初の遠征でも彼女の馬へ乗せてもらっているため、エレノアにとってもごく自然な流れだった。
「シリル」
ガレスが呼ぶと、黒馬の腹帯を確かめていたシリルが顔を上げた。
「お前は第一休憩まで前衛へ回れ。エレノア嬢は予定どおりクラウディアと――」
「第一休憩まで、エレノア嬢は私が乗せます」
低く落ち着いた声が、その言葉を遮った。
エレノアが思わず振り向く。リアナとオーウェンも、僅かに目を見開いていた。
ガレスだけが表情を変えずに尋ねる。
「理由は」
「前回の帰路も私の馬へ同乗しています。二人を乗せた状態でも、第一休憩までの距離なら馬にも負担ありません」
シリルは黒馬の首筋を軽く撫でた。
「それに、専属護衛として私が傍にいる方が対応しやすい」
どの言葉にも護衛としての理は通っている。だが、普段のシリルなら、与えられた配置へ自ら異を唱えることはほとんどない。
ガレスは数秒だけ彼を見つめた。
「同乗したまま前衛は任せられん」
「承知しています」
ガレスはその意図を理解したらしく、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。オーウェンを前衛へ出す。シリルはその後ろにつけ。」
そしてクラウディアへ目を向ける。
「クラウディアは後方警戒へ回れ。エレノア嬢はシリルと同乗。」
「承知しました。」
クラウディアは穏やかに応じる。
配置はそれだけで決まった。
少し離れたところで、リアナがオーウェンの袖を小さく引く。
「言っていることは、全部正しいわよね。」
「ああ。」
「でも、それだけじゃない。」
「本人に言うなよ」
二人の会話を聞いたクラウディアは、少し離れた場所でわずかに目元を和らげた。
その視線に気づき、リアナは小さく肩をすくめた。
◇
シリルが黒馬を引き、エレノアの前まで歩いてくる。
「エレノア嬢。」
「はい。」
「鞄を。」
「あ、こちらは自分で持てます。」
差し出された手を見て、エレノアは慌てて答えた。だがシリルは何も言わず、革鞄を受け取る。
そのまま馬へ括りつけるのかと思ったが、彼は近くに停められていた随行馬車へ向かった。
「こちらへ載せる」
「シリル様のお馬には?」
「二人乗る。余計な荷は減らした方がいい」
当然のように告げ、馬車の奥へ用意されていた資料箱へ革鞄を収める。ほかの荷物に押し潰されない場所を選び、固定用の革帯まで自分の手で確かめている。
父の論文が入っていることを、覚えていてくれたのだろうか。
その慎重な手つきを見つめながら、エレノアの胸へ柔らかな温かさが広がる。
「ありがとうございます。」
「ああ。」
留め具を一度引いて、動かないことを確認してから、シリルは黒馬のもとへ戻った。
それから、改めてエレノアへ向き直る。
「乗るぞ。」
「はい。踏み台は――」
「必要ない。」
シリルが半歩近づいた。
「失礼する。」
低い声が落ちる。
「……はい。」
エレノアが小さく答えた、次の瞬間。
腰と膝裏へ、力強い腕が回された。
身体がふわりと浮き、エレノアは反射的に彼の肩へ手を置いた。
「……っ」
厚い隊服越しにも、支える腕の確かな力が伝わってくる。
視線の高さが変わり、朝日に照らされた青い瞳が、すぐ近くに見えた。
シリルはエレノアが驚いていることに気づいたらしい。
その腕へ僅かに力を込め、落ち着かせるように告げた。
「動くな。」
「は、はい。」
吐息が触れそうなほど近い。
けれど本人は表情一つ変えず、エレノアを黒馬の鞍へ慎重に座らせた。
裾が鐙革へ絡んでいないことを確かめ、外套の端も鞍の下へ巻き込まれないよう整える。
「苦しくないか」
「はい。大丈夫です」
「座りにくくは」
「ありません」
シリルは短く頷き、そのまま鐙へ片足を掛けると、エレノアの後ろへ軽々と跨った。
背後へ大きな身体の気配が近づく。
両脇から伸びた腕が手綱を取り、エレノアは自然とシリルの胸元へ収まる形になった。
近い。
前回の帰路でも同じ馬へ乗った。
疲れ切って眠り、彼の腕に支えられたことも覚えている。
けれど、意識がはっきりしたまま出発前からこうして座ると、背中へ伝わる温もりも、頭上から聞こえる呼吸も、ひどく気になった。
「エレノア嬢。」
「は、はい。」
「力を抜け。」
言われて初めて、自分が背筋を固くしていたことへ気づく。
「申し訳ありません。少し緊張してしまって……。」
「馬が怖いのか。」
「いいえ」
エレノアは小さく首を横へ振った。
黒馬は落ち着いている。シリルがいる以上、落馬への不安もなかった。
怖いのではない。ただ、背後の彼を意識してしまうだけだ。けれど、それを正直に告げることはできなかった。
「こうして乗るのは、まだ慣れておりませんので……」
「そうか」
シリルはそれ以上追及しなかった。
代わりに、手綱を左手へまとめると、空いた右腕をエレノアの腰の前へ回した。直接抱き寄せるわけではない。ただ、馬が不意に動いてもすぐ支えられる位置へ置いただけだ。
それでも、濃紺の袖が視界へ入った途端、胸が小さく跳ねた。
「これなら落ちない。」
「……はい。」
シリルの声が、すぐ耳の上から聞こえた。
低く静かで、不思議なほど安心できる。
エレノアはそっと肩の力を抜き、背後の温もりへ僅かに身を預けた。
その変化に気づいたのか、腰の前に置かれた腕へほんの少しだけ力が加わる。
抱き締めるほどではない。
けれど、決して落とさないと伝えるには十分な強さだった。
「行くぞ。」
「はい。」
黒馬が静かに最初の一歩を踏み出す。
両脇から伸びたシリルの腕に守られながら、エレノアは南の空を見つめた。
その先にあるのは、父が追い続けた古代の水の道と、最後の石板が眠ると考えられる蒼鏡の水殿。
やがて黒馬が城門を抜けると、白い城壁は朝靄の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。
遠征隊はまだ見ぬ地へ続く南の街道を、静かに進み始める。




