46 話 革表紙の論文
第46話 革表紙の論文
王への報告を終えた翌朝、エレノアは客室の窓辺に立ち、大きく息をついた。
朝陽が王都の白い街並みを柔らかく照らしている。
明日の朝には、再び王都を発つ。
目指すのは南――蒼鏡の水殿。
机の上には、遠征へ持参する予定の資料が山のように積まれていた。
知恵の祠で採取した拓本。
古代文字の辞書。
南部地方の新旧二枚の地図。
現地で新たな碑文を見つけた場合に備えた羊皮紙と筆記具。
「……こちらは、必要ですし。」
一冊を手に取って、残す方の山へ置く。
「でも、これも何かの手掛かりになるかもしれません。」
迷った末に、もう一冊をその隣へ重ねた。選別しているはずなのに、資料の山は少しも低くならない。
遺跡では、何が手掛かりになるか分からない。置いていった一冊にこそ、必要な答えが記されているかもしれない。そう考えると、どうしても減らせなかった。
そのとき。
――コン、コン。
控えめなノックが響いた。
「エレノア嬢。」
扉の向こうから聞こえたのは、聞き慣れた低く落ち着いた声だった。侍女のマリエラが扉を開けると、やはりそこにはシリルが立っていた。
「シリル様?」
「……少し、話がある。」
エレノアは思わず息をのんだ。
(お話……?)
「……どうぞ、お入りください。」
シリルは室内へ足を踏み入れたものの、旅支度を整えていた侍女を見ると、すぐに立ち止まった。
そのまま、マリエラへ視線を向ける。
「悪いが、少しだけ席を外してもらえるか。」
マリエラは一瞬だけ目を丸くした。
だが、シリルはすぐに言葉を加える。
「扉は開けておいてくれ。隣室にいてもらえればいい。」
「かしこまりました。」
侍女は柔らかく微笑み、一礼する。
「では、お茶を淹れ直してまいります。何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ。」
侍女が隣室へ移ったが、扉は閉じられず、半ば開かれたままだった。
それでも、部屋の中には二人だけの静けさが落ちる。
エレノアは、なぜか落ち着かなくなった。
明日の夜明けには、再び危険な遺跡へ向かう。そんな前日に、シリルがわざわざ一人で訪ねてきて、二人だけで話したいこととは何なのだろう。
「シリル様……?」
シリルはすぐには答えなかった。
何かを言いかけるように僅かに唇を開き――やがて、視線を机へ移した。
「……多いな。」
「あ……。」
エレノアは困ったように笑った。
「どれも必要に思えてしまいまして。」
シリルは資料の山をしばらく見つめた。
「必要なものから分けろ。残りは俺が運搬量を確認する」
「ですが、シリル様に資料のことまでお願いするのは……」
エレノアが申し訳なさそうに告げると、彼はエレノアへ視線を戻した。
「一人で無理に決めるな」
「……はい」
その言葉に、エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
これが話だったのだろうか。
そう思ったが、シリルは帰ろうとしなかった。
「それと」
低い声に、エレノアは再び顔を上げる。
シリルは何かを言いかけ、僅かに口を閉ざした。
やがて肩へ掛けていた革鞄を外し机の端へ置き、中から一冊の古びた冊子を取り出した。
赤茶色の革表紙。
角は丸く擦れ、綴じ糸にも僅かなほつれがある。長いあいだ、何度も開かれてきたことが一目で分かる冊子だった。
シリルは、それをエレノアの前へ静かに差し出した。
「これを」
「……何でしょう」
エレノアは赤茶色の革表紙へ目を落とした。
表紙には、題名も名前も書かれていない。けれど、その色と形に覚えがあった。
父が、以前話していたもの。
――赤茶色の革表紙の古い論文。
まさか。
胸の鼓動が僅かに速くなる。
エレノアは、慎重に表紙を開いた。
色褪せた文字が現れる。
一行ずつ目で追い、ゆっくりと読み上げた。
「……『古代ヴァレシア王国における地下水路網についての一考察』……」
その下に記された名を見た瞬間。
息が止まった。
――ローレンス・アシュフォード。
「……お父様。」
指先が震える。
何度見直しても、そこにある名前は変わらない。
幼い頃から見慣れた、父の署名だった。
エレノアは壊れ物を扱うように、冊子を両手で持ち上げる。
「どうして……これを……?」
「休暇中に旧王立学術院の保管庫で見つけた」
「旧学術院の……?」
「ああ」
シリルは静かに頷いた。
「審査へ提出された、自筆の原稿だ。採用されなかった論文とともに保管されていた」
その説明に、エレノアはようやく状況を理解した。
父がかつて学術院へ提出した論文が残っていたのだ。
旧王立学術院の保管庫は、王都の南門から馬で半日ほどの場所にある。新たな学術院が建てられたあと、審査を通らなかった論文や、整理の済んでいない史料が移された場所だ。閲覧には特別な許可が必要で、王都からも遠い。
存在は知っていたが、エレノア自身が訪れたことはなかった。
「休暇中に、そこまで行かれたのですか?」
「ああ」
「王都から、半日以上かかりますのに……」
「ローレンス卿の話が気になった」
以前父が語っていた、各地の遺構は一つの大きな仕組みとして繋がっているのではないかという仮説。
シリルは、あの時の話を覚えていたのだ。
エレノアが大切にしてきた、父の研究を。
「祠で見たものと一致する記録がないか、調べた」
休暇の日を使って王都の外まで馬を走らせ、膨大な未整理資料の中から、彼はこの一冊を探し出してくれたのだ。
それがどれほど手間のかかることだったか、エレノアにも分かった。
「シリル様……」
何を言えばよいのか分からないまま、胸の奥には温かなものが満ちていった。
エレノアは、そっと次の頁を開いた。そこへ並ぶ、少し癖のある丁寧な文字。余白へ書き込まれた細かな注釈。何度も線を引き直した地図。
間違いない。幼い頃から何度も見てきた、父の筆跡だった。
「……懐かしい」
思わず、頬が緩む。
父は目を患う前まで、夜遅くまで机へ向かっていた。紙に残された文字や書き直しの跡から、当時の姿が蘇るようだった。
「お父様は、古代ヴァレシアには地下へ張り巡らされた水路があったのではないかと、ずっと考えていました」
シリルは口を挟まず、静かに耳を傾けている。
「ですが、証明するための遺跡も、資料も見つけられませんでした」
エレノアは、少しだけ寂しそうに笑った。
「学会でも、相手にしてもらえなかったそうです」
『存在しない遺構を前提に論じても意味がない』
『夢物語だ』
父は、何度もそう言われた。
「悔しかったと思います」
エレノアは赤茶色の表紙を、そっと撫でた。
「それでも諦めずに、古い文献を集めて、地図を何度も書き直していました」
その隣で、自分は古代文字を教わっていた。父が見つけられなかった答えを、いつか読めるようになりたいと願いながら。
部屋へ静寂が落ちる。
遠くから、小鳥の鳴き声が聞こえていた。
やがてシリルが、冊子へ目を向けたまま口を開く。
「知恵の祠で見た壁画」
エレノアは顔を上げる。
「あれは、この論文の仮説を裏づけている」
それは慰めではない。シリルは、自分の目で確かめた事実だけを告げていた。
だからこそ、その言葉は何より心強かった。
「……はい」
エレノアは冊子を胸元へ抱き寄せた。
声が僅かに震える。
「お父様は、間違っていなかったのですね」
「ああ」
シリルは迷わず答えた。
その一言が、胸の最も深いところへ届いた。
「王命に関わる資料として、団長を通じて特別閲覧と一時持ち出しの許可を得た」
「そこまでしてくださったのですか」
「今回の遠征に必要だと判断した」
いつもと変わらない、簡潔な言い方だった。まるで、自分は必要なことをしただけだとでもいうように。
けれどエレノアには、それが決して当然のことではないと分かっていた。
「ありがとうございます」
エレノアは冊子を抱いたまま、深く頭を下げた。
「父も、きっと喜びます」
シリルは僅かに頷いた。
「戻ったら、ローレンス卿へ見せればいい」
「はい」
必ず無事に帰り、この論文を父へ届ける。
その約束まで与えられたような気がした。
シリルは踵を返し、扉へ向かう。だが、取っ手へ手を掛ける直前で足を止めた。
振り返らないまま、静かな声で告げる。
「明日、確かめに行こう」
エレノアは胸に抱いた論文へ目を落とした。
父が追い続けたもの。古代ヴァレシアが遺した水の道。そして、その先に眠る蒼鏡の水殿。
「はい」
今度の返事には、迷いがなかった。
「必ず、確かめましょう」
シリルは小さく頷き、そのまま部屋を後にした。
やがて侍女が戻り、静かに扉を閉める。エレノアはしばらく、その扉を見つめていた。
それからもう一度、論文を開く。
父の文字。父が引いた線。父が書き加えた、幾つもの仮説。
頁をめくっていくうちに、一枚の地図が現れた。
南部地方を描いた古い地図。
現在では失われた、大きな湖。
その東岸近くに、父の手で小さな円が描かれている。
傍らには、細い文字でこう記されていた。
――『南部旧湖沼域において、複数の古水路が不自然に収束する。単なる灌漑設備とは考えにくい』
エレノアは息を呑んだ。
「……蒼鏡の水殿」
父は、その名を知らなかった。
そこに何が眠るのかも、確かな証拠も持っていなかった。
それでも、散らばった記録と古い水路の痕跡だけを頼りに、同じ場所のすぐ近くまで辿り着いていたのだ。
エレノアは、地図へそっと指先を置いた。
父が長年追い続け、あと一歩で届かなかった場所。
今度は娘である自分が、その続きを確かめに行く。
明日の遠征は、第四の石板を探すだけの旅ではない。父から受け取った知識を、自らの目で真実へ繋ぐ旅でもある。
その答えはきっと――蒼鏡の水殿の先にある。




