45話 蒼鏡を追って
第45話 蒼鏡を追って
王城の研究室では、その朝も三枚目の石板の解読が続いていた。
前日、石板から『蒼鏡』という名を見つけて以来、エレノアとアルヴィンは南部に関する古い地誌や水系記録を集めていた。
廃村となった集落の台帳。失われた巡礼路を記した地誌。数百年前の水源調査記録。
机の上には、前日のうちに王立図書館から取り寄せた資料が幾つも積み重なっていた。
「エレノアさん。もう一度、こちらをご覧ください」
向かいに座るアルヴィンが、一冊の古びた地誌を慎重に開いた。
羊皮紙は黄ばみ、端は触れれば崩れそうなほど脆い。
「これは約五百年前、王国南部を巡った測量官が残した記録です」
指し示された一節へ、エレノアは目を落とした。
そこには、現在では使われていない土地の名が記されている。
――蒼鏡の地。
エレノアは息を呑み、思わず机の中央に置かれた黒い石板へ視線を移した。
「……同じ名です」
「ええ」
アルヴィンも頷く。
「石板に刻まれた名が、少なくとも五百年前までは、この地方に残っていたようですね」
地誌にはさらに、かつてその地へ大きな湖が存在したことも記されていた。
アルヴィンは現在の地図の隣へ、古地図を広げた。
かつて大湖だった場所には、今では小さな湿地と森しか残されていない。長い年月のうちに土砂が流れ込み、湖は少しずつ姿を失っていったらしい。
湖が消えるにつれ、『蒼鏡』という古い名も人々の記憶から薄れていったのだろう。
エレノアは地誌と石板を交互に見つめた。
湖。
南へ延びる失われた水路。
そして、『蒼鏡』に続く、まだ意味を確定できていなかった古代文字。
「……アルヴィン先生」
「はい」
「昨日、施設を示す言葉ではないかと考えていた、この箇所なのですが」
エレノアは石板の写しへ指先を置く。
神殿でも、祠でもない。古い用法では、水を用いた祭祀や、水の流れを管理するための建造物を示す語。
地誌に湖の記録が残っていたことで、曖昧だった意味がようやく一つへ絞られた。
エレノアは羊皮紙へ最後の文字を書き加える。
「――『水殿』」
アルヴィンの瞳が見開かれた。
エレノアは二つの語を続けて読み上げた。
「最後の地の名は――『蒼鏡の水殿』です」
静かな研究室へ、その名が落ちる。
ばらばらだった断片が、ようやく一つの場所を指し始めていた。
壁際で警戒を続けていたシリルが、静かに口を開く。
「場所は特定できるのか」
「正確な位置までは、まだ分かりません」
エレノアが答えると、アルヴィンは古地図の一点を示した。
「ですが、範囲はかなり絞れます。別の記録には、蒼鏡の湖岸に祭祀施設が存在したとの記述があります」
現在の地形では、その一帯は湿地と森に覆われている。
それでも、古い湖岸線と現在の地形を照合すれば、かつて岸辺だった場所を推定することはできる。
「遠征隊で向かえば、どれほどかかる」
「街道を使える区間までは馬車で進めます。天候に恵まれれば、野営を一度挟み、一日半ほどです」
「わかった。団長へ報告する」
そうシリルは告げると、廊下に控える騎士へエレノアの護衛を一時引き継ぐよう命じ、研究室を出ていった。
その背中を見送り、アルヴィンが小さく息を吐く。
「とうとう、最後の石板ですね」
「……はい」
エレノアは第三の石板へ目を落とした。
――三つの試練を越えし者は、次の地を目指せ。
最後の石板へ至る道が、ようやく見え始めた。
◇◇◇
翌朝。
王城奥の極秘会議室には、この任務に関わる者たちが集められていた。
中央の机には、第三の石板から写し取った解読文と、新旧二枚の南部地図が広げられている。
全員が席に着くと、エリオットが地方の水量について最新の報告書を読み上げた。
「北部では井戸の水位がさらに低下。東部では農業用水の取水制限が始まり、南部の河川でも流量の減少が確認されています」
エリオットが報告書を閉じる。
「現時点では備蓄と配給によって持ちこたえておりますが、乾季へ入れば農作物への被害は避けられません」
「時間は、我々が考えていたより少ないようだな」
レオンハルトの静かな声に、誰も異を唱えなかった。
王はエレノアへ視線を向ける。
「第三の石板について、報告を。」
「はい。」
エレノアは立ち上がり、深く一礼した。
「第三の石板には、第四の石板へ至る場所を示す記述があると考えております」
解読した文章を順に読み上げる。
「――『真実を求める者よ。三つの試練を越えし者は、次の地を目指せ。水は大地を巡り、やがて始まりへ還る』」
そして、最後に特定した名を告げた。
「次の地は、王国南部にかつて存在した大湖、蒼鏡の地に築かれた『蒼鏡の水殿』である可能性が高いと判断いたしました」
会議室が静まり返る。
レオンハルトは書面へ目を落とし、ゆっくりと文章を追った。
「可能性が高い、ということは、まだ断定はできぬのだな」
「はい」
エレノアは曖昧な部分を隠さず答えた。
「なお未解読の箇所はありますが、古代文字と南部に残る記録を照合した限り、ほかに該当する場所は見つかっておりません」
王は僅かに目を細め頷く。
「よい。分からぬものを分からぬまま報告できる者の言葉は、信頼に値する」
「ありがとうございます」
エレノアは静かに頭を下げた。
続いて、アルヴィンが二枚の地図を示す。
「蒼鏡の地に関する詳細な記録は、およそ五百年前を最後に途絶えております。現在は湿地と森ですが、旧湖岸線と地形を照合すれば、水殿が存在した範囲までは絞り込めます」
「地上になければ地下か」
ガレスが低く言う。
「これまでの遺跡を考えれば、その可能性もあります」
アルヴィンが答えると、ダリウスは地図から顔を上げた。
「内部の構造は。」
「記録には残っておりません」
エレノアが答えた。
「何が待っているのかは、現時点では分かりません」
レオンハルトは水源報告と南部の地図を交互に見つめた。
やがて、低く明確な声で告げる。
「南へ調査隊を送る。蒼鏡の水殿を探し、第四の石板を回収せよ」
「承知いたしました」
ダリウスが即座に応じる。
「遠征隊はこれまでと同じ者を中心に編成いたします。ただし、遺跡内部へ入る者は最小限とします。」
そしてアルヴィンへ視線を向けた。
「ベルナール殿には現地まで同行いただき、古地図と地形を照合して水殿の位置を特定していただきたい」
「承知しました」
「入口発見後は待機部隊へ残っていただく。古地図と研究資料の管理、および地上側の記録を頼みます」
「分かりました。地形と古地図の照合結果も、可能な限り記録しておきます」
ダリウスは頷く。
「内部へは、ガレス、シリル、クラウディア、オーウェン、リアナ、そしてエレノア嬢が入る」
「出発はいつにしますか。」
ガレスの問いに、ダリウスはエリオットへ視線を向けた。
「ヴァルモント隊長から第一報を受けたのち、団長の指示で必要物資の確認を進めております」
エリオットが答え、用意していた一覧を机へ置いた。
「食料、天幕、採取用具、石板運搬用の保護布は、本日中に準備できます。明日一日を最終準備へ充てれば、翌朝には出発可能です」
「ならば、出発は明後日の夜明けとする」
ダリウスの決定に、各々が静かに頷いた。
会議の終わりに、レオンハルトが全員を見渡した。
「これが、おそらく最後の石板となる。」
その瞳にあるのは期待だけではない。
水源の異変を抱える国を預かる者としての焦りと、臣下を危険へ送り出す王としての責任だった。
「第四の石板へ辿り着けなければ、この国を覆い始めた異変を止める術は、見つからぬかもしれぬ。これはもはや、失われた歴史を追うだけの調査ではない。王国の行く末そのものに関わる」
静かな言葉が、会議室へ深く落ちる。
「だが、石板のために諸君らの命を失うことは許さない。」
王は一人ひとりへ視線を向けた。
「必ず、全員で戻れ。」
「はっ。」
騎士たちの声が重なる。
エレノアとアルヴィンも、深く頭を下げた。
会議が終わると、エレノアは机へ広げられた南部の地図をもう一度見つめた。
王都の南。失われた大湖と、記録から消えた水殿。そのどこかに、最後の石板が眠っている。
なぜ四枚の石板は四方へ分けられ、これほどの試練を残したのか。その答えはまだ分からない。
けれど、次に進むべき道だけは見えた。
二日後の夜明け、一行は再び王都を発つ。
石板の示す地――蒼鏡の水殿を目指して。




