44話 水路の先の名
44話 水路の先の名
王都へ戻ってから、数日が過ぎた。
遠征を終えた一行に与えられた休養期間も明け、エレノアは再び自らの役目へ戻っていた。
王城の奥に設けられた研究室。
壁際の書棚には古文書や革装丁の書物が並び、窓から差し込む朝の光が、広い机を柔らかく照らしている。
その中央には、星鏡庭園から持ち帰った三枚目の黒い石板が置かれていた。
黒曜石を思わせる表面には、細かな古代ヴァレシア文字が隙間なく刻まれている。
残る石板は、あと一枚。
四枚すべてが揃った時、その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
エレノアは石板を見つめ、小さく息を吸った。
「……必ず、見つけます」
その呟きが、静かな研究室へ溶けていく。
ほどなくして、扉を叩く音が響いた。
「失礼します」
入ってきたアルヴィンは、両腕へ古文書や巻物、何枚もの古地図を抱えていた。
「あの、アルヴィン先生。そちらはすべて……?」
「関連しそうな資料を王立図書館から集めてきました。絞り込んだつもりなのですが」
苦笑しながら資料を机へ重ねていく。だが、その量はとても絞り込んだようには思えない。
エレノアは思わず微笑んだ。
「ありがとうございます」
「礼を申し上げるのはこちらです」
アルヴィンは眼鏡を押し上げ、石板へ目を向けた。
「古代文字を読めるのは、エレノアさんだけです。私は、あなたが読み解いた言葉を歴史や地理と結びつけることしかできません」
「ですが、文字を読めても、その背景までは私一人では分かりません」
エレノアも椅子へ腰を下ろす。
「今回も、よろしくお願いいたします」
「ええ。いつもどおり、二人で進めましょう」
エレノアが古代文字を読み、アルヴィンが歴史や地理の中から、その意味を探す。
文字だけでは場所へ辿り着けない。歴史だけでは、失われた言葉を受け取れない。
互いに持たない知識を補い合ってきたからこそ、ここまで辿り着けた。
研究室の一角には、シリルが立っていた。濃紺の隊服を隙なく着こなし、腰には長剣を佩いている。
廊下にも近衛騎士が配置されていたが、それでもシリルは、専属護衛としてエレノアの傍を離れなかった。王城の奥深くにある研究室とはいえ、石板そのものが何を起こすかは誰にも分からない。
壁際へ立ち、扉と窓、そして中央の黒い石板へ絶えず視線を巡らせていた。
◇
それから数刻。
研究室には、紙をめくる音と羽根ペンの走る音だけが響いていた。
三枚目の石板は、刻まれた順に読めば意味が通じるものではない。一定の間隔で挟まれた紋様。不自然に途切れた文章。何度も繰り返される文字列。
エレノアは一つずつ規則を探り、正しい順序へ並べ直していった。
やがて、羊皮紙へ記した文を確かめ、静かに顔を上げる。
「解読できた箇所があります」
アルヴィンがすぐに羽根ペンを構えた。
「お願いします」
エレノアは石板と写しを見比べ、慎重に読み上げた。
「――『真実を求める者よ』」
アルヴィンの羽根ペンが、さらさらと紙の上を走る。
「――『三つの試練を越えし者は、次の地を目指せ』」
「やはり、第四の石板へ至る道が記されているようですね」
「はい。続きは――」
エレノアは、紋様によって分断されていた文字列を正しい順序へ並べ直す。
「『水は大地を巡り、やがて始まりへ還る』」
「水が、大地を巡る……」
アルヴィンは呟き、王国の古地図を机へ広げた。
その傍らで、エレノアは石板に繰り返し刻まれた四つの紋様へ目を留めた。
地平から昇る光。
夜空の中、ただ一つ動かぬ星。
地平へ沈む光。
そして、静かな水面へ逆さに映る細い月。
これまでは、文章を区切るための装飾だと思っていた。
だが、三つの紋様を見比べた瞬間、エレノアの中で一つの考えが繋がった。
「最初の紋様は、朝日ではないでしょうか」
「朝日なら東ですね」
アルヴィンが古地図へ目を移す。
東には、地下神殿がある。
次に、夜空の中でただ一つ動かぬ星。
エレノアはその紋様を見つめ、ゆっくりと言った。
「……旅人は、夜になれば動かぬ星を頼りに北を知ります」
アルヴィンの視線が地図の北へ動く。
「その方角には、知恵の祠がありますね」
「はい」
そして三つ目。地平へ沈む光が示すのは西。その先には、誓約の回廊と星鏡庭園がある。
「ここまで三つとも一致するとなると……」
「偶然とは考えにくいですね」
エレノアは、最後に残された紋様へ目を向けた。
静かな水。その水面へ、逆さに映る細い月。
「最後の紋様そのものだけでは、方角までは分かりません」
エレノアは、水面へ月を映した紋様の横へ刻まれた一文字を示した。
「ですが、こちらに『下方』とあります」
「下……?」
「古代ヴァレシアの地図では、上を北、下を南として描く例があります。ですから、この場合の『下方』は――」
「南」
「はい」
アルヴィンはすぐに、王都南部の古地図を引き寄せた。
「では、第四の場所は南に?」
「まだ断定はできません。ですが、三つの紋様が既に見つかった遺構と一致しています」
エレノアは四つ目の紋様を見つめる。
「最後の紋様も、残る遺構の方角を示している可能性は高いと思います」
アルヴィンは何枚もの古地図を重ね、王都南部の水系を追っていった。現在の地図から百年前の地図へ、さらに古い、水路だけを記した図へと遡っていく。
やがて、その手が一枚の黄ばんだ羊皮紙の上で止まった。
「ここを見てください」
王都の南から、一本の細い線が延びていた。現在の地図には存在しない、古い水路だった。
線は南へ進み、途中で途切れている。その先には地名も、集落も、施設を示す印も記されていない。
「古代の水路跡……」
「後世の地図では、この水路は途中から姿を消しています」
東、北、西を示す三つの紋様は、これまで辿ってきた遺構の位置と一致している。そして今、残された南の方角には、現在の地図から失われた古い水路が延びていた。
エレノアは地図の途切れた先を見つめた。
「この水路を辿れば……」
「第四の遺構へ近づけるかもしれません」
まだ正確な場所までは分からない。それでも、探すべき方角だけは見えてきた。
王都の南――地図から消えた古代の水路の先。
その後も二人は、石板の文字と古地図を何度も照らし合わせた。
だが、南を示す紋様の先にある文字列は複雑に組み替えられており、容易には意味を結ばなかった。
◇
解読は夕刻まで続いた。
エレノアは、南へ延びる古い水路と石板を交互に見つめた。
文字列と水の流れを思わせる紋様。そして、南を示す紋様のすぐ傍らへ刻まれた、二つの大きな文字。
「……アルヴィン先生」
「何か見つかりましたか?」
「ここです。人名や地名など、固有の名を記す際に使われる囲みがあります」
エレノアは二つの文字を順に追った。
「『蒼』。そして、『鏡』」
「蒼い鏡……?」
「いいえ。二つで一つの名です」
エレノアは、静かに読み上げた。
「――『蒼鏡』」
アルヴィンは南部の古地図をはじめ、失われた集落の記録、水源地や神殿、古い運河や巡礼地についての資料まで、次々と確かめていった。
だが、いずれの資料にも、その名は見つからなかった。
「記録にはありません」
アルヴィンが静かに首を横へ振る。
「少なくとも、現代の地名録や施設記録には残っていないようです」
エレノアは、古地図の上で南へ延び、何も記されていない場所で途切れている一本の水路へ目を落とした。
『蒼鏡』が土地の名なのか、施設の名なのか、それすらまだ分からない。
それでも、地図から消えた古い水路と石板に刻まれた未知の名。二つが無関係だとは思えなかった。
「続きを解読すれば、きっと辿り着けます」
エレノアは黒い石板を見つめた。
「最後の石板が眠る場所へ」
窓の外では、沈みゆく夕陽が白亜の王都を茜色へ染めている。
残るのは最後の石板。
そこへ至る道に何が待つのかも、まだ誰にも分からない。
けれど今、歴史の霧の向こうから一つの名だけが姿を現した。
――蒼鏡。
その二文字が、次なる旅の始まりを静かに告げていた。




