42話 星図に眠る道
42話 星図に眠る道
白い階段を下り、麓で待機していた補給部隊と合流してから、しばらくが過ぎた。
一行を乗せた大型馬車は乾いた土の上をゆっくりと進んでいる。
ごとり、ごとりと一定の音が響き、その単調な揺れが、遺跡の中で張り詰めていた感覚を少しずつ現実へ引き戻していった。
窓の外には、朝の光を受けた山々が幾重にも連なっている。険しい岩肌の合間には低い木々が生い茂り、その向こうへ淡い霞がかかっていた。
あの白い遺跡は、今も静かに見守っているのだろう。
誓約の回廊。
星鏡庭園。
そして、そこで手に入れた第三の石板。
つい先ほどまで自分たちがそこにいたというのに、遠ざかっていく山々を眺めていると、すべてがひどく遠い出来事のように思えた。
◇
馬車の中は静かだった。
往路では地図や資料が幾つも広げられ、これから向かう遺跡についてアルヴィンの説明を聞きながら、騎士たちは道程や周辺の地形を確認していた。
だが今は、誰一人として次の行動を相談しようとはしない。
オーウェンは腕を組んで座席へ深く身体を預け、クラウディアも窓辺へ視線を向けたまま静かにしている。いつもなら沈黙が続けば何かしら話題を探すリアナでさえ、今は時折窓の外を眺めるだけだった。
誰もが疲れていた。
長い道程や遺跡探索による身体の疲労だけではない。
自分の心の最も深い場所へ触れられ、そこに隠していた恐れを否応なく見せつけられたのだ。試練を越えたからといって、その余韻まですぐに消えるはずもなかった。
そんな中、エレノアは膝の上へ記録帳を開き、携帯用の木炭筆を手にしていた。
書き残しておかなければならないことは多い。
星鏡庭園の構造。石畳へ刻まれた星図。鏡の泉。試練の言葉。そして、第三の石板に浮かび上がった古代文字。
記憶が鮮明なうちに、できる限り正確に残しておきたかった。
そう思って木炭筆を手にしているのに、意識はなかなか紙の上へ戻ってこなかった。
脳裏へ浮かんでいたのは父の書斎だった。
暖かな陽だまり。長い年月を吸い込んだ古書の匂い。まだ伯爵として研究へ打ち込み、今よりもずっと自由に書物を読めていた頃の父。
――私は、お前を誇りに思う。
あれは幻だった。
星鏡庭園が、自分の記憶と心から作り出したものにすぎない。
それでも、エレノアはもう、あの言葉を偽物だとは思わなかった。
父ならきっと、同じように言ってくれる。自分が選んだ道を進むことを、許してくれる。
そう信じられるようになったことこそが、試練を越えた証なのかもしれない。
エレノアは小さく息を吐き、ようやく木炭筆を動かした。
星鏡庭園の全体像を簡単に描き、その横へ星図の配置を書き写していく。
そこで、一度だけ手が止まった。
試練を行うための庭園に、なぜこれほど精密な星図が必要だったのだろう。単なる装飾とも思えない。星の位置だけではなく、それぞれを結ぶ線にまで何らかの規則があるように見える。
だが今の疲れた頭では、考えても答えは出なかった。エレノアは頁の余白へ小さく疑問を書き留めると、再び記録を続けた。
向かいに座っていたリアナが、その様子に気づいて顔を上げる。
「エレノア様、もう記録を取っていらっしゃるのですか?」
「はい。忘れてしまわないうちにと思いまして。」
「私は、忘れたくても忘れられなさそうです。」
リアナは苦笑しながら、座席の背へ深く寄りかかった。
「しばらくは、目を閉じるたびに思い出しそうです」
その言葉に、エレノアは手を止める。誰も、ほかの者が何を見たのかは知らない。
星鏡庭園では全員がそれぞれ異なる幻へ導かれ、自らの内にある恐れと向き合った。それは、軽々しく触れてよいものではないことは分かっている。
少し離れた席で、オーウェンが腕を組んだまま天井を見上げた。
「俺はもう一度やれと言われても断るぞ。」
「珍しいわね。オーウェンが弱気なことを言うなんて。」
クラウディアが僅かに笑うと、オーウェンは眉を上げた。
「弱気ではありません。正しい判断です」
「魔物相手なら、どれだけ数がいても平気なのに?」
リアナがからかうように尋ねる。
「実体のある相手なら、まだ対処のしようがある。斬れば終わるからな」
オーウェンは至って真面目な顔で答えた。
「自分の頭の中から出てくるものを、どう斬れというんだ」
リアナが小さく吹き出す。
「それはそうね。」
クラウディアの口元にも笑みが浮かび、張り詰めていた車内の空気が、ようやく少しだけ和らいだ。
その時、向かいの隅から紙をめくる音が聞こえた。
アルヴィンだった。
彼だけは背もたれへ寄りかかることもなく、膝の上へ何冊もの記録帳を重ね、猛烈な勢いで文字を書き続けている。
顔色には疲れが見えるものの、その瞳だけは異様なほど輝いていた。
「星鏡庭園の水路は、単なる装飾ではありません。あの配置は儀礼的な意味を持つ可能性が高い。さらに、石畳へ刻まれた星の配列が当時の天体観測に基づくものだとすれば、現在の星図との比較が必要です。それから、誓約の回廊における――」
「アルヴィン先生。」
ガレスが低い声で遮る。
「……はい?」
「息をするのを忘れている。」
一瞬、静寂が落ちる。
アルヴィンは目を瞬かせた後、ようやく自分が一息に喋っていたことへ気づいたらしい。
「……失礼しました。」
「それと、少し休め。顔色が悪い」
「ですが、今記録しておかなければ細部が失われる可能性があります」
「その前に先生が倒れたら意味がない」
「それは困りますね」
アルヴィンは真剣に頷くと、記録帳を閉じた。
ガレスが安堵したのも束の間、数秒後には彼の手へ別の小さな手帳が現れる。
「何が違うんだ、それは。」
「こちらは簡易記録用です。」
「同じだろう」
「あと三行だけです」
「さっきも似たようなことを言っていたぞ」
車内に小さな笑いが広がる。久しぶりに聞く穏やかな笑い声だった。
エレノアもつられて微笑み、再び記録帳へ視線を戻す。だが、張り詰めた緊張が解けたせいだろうか。文字を追ううちに、瞼が少しずつ重くなっていった。
馬車の揺れは穏やかだった。
ごとり、ごとり。
一定の音が子守歌のように続いている。
昨夜も十分に眠れたとは言い難い。遺跡の中では常に神経を張り詰め、試練の後も昂ぶっていた気持ちはなかなか収まらなかった。
宿場へ着くまでに、少しでも記録を――。
そう思っているのに、木炭筆を持つ手から、少しずつ力が抜けていく。
やがて頭がゆっくりと傾き、肩が窓枠へ触れた。
膝の上の記録帳が滑る。
床へ落ちる直前、それを横から伸びた手が受け止めた。
シリルだった。
彼は受け止めた記録帳を片手に、眠ってしまったエレノアへ視線を向ける。
長い蜂蜜色の髪が頬へかかり、規則正しい寝息に合わせて僅かに揺れていた。
……無理をしていたのだろう。
遺跡へ入ってから、彼女が弱音を吐いたことは一度もない。
険しい山道も、暗い回廊も、何が待っているか分からない試練も。恐れていないはずがない。それでも、彼女は自分の足で前へ歩き続けた。
シリルが記録帳を閉じようとした時、開かれていた頁の上部へ記された一文が、意図せず目に入る。
――恐れを抱くことは、弱さではない。
読もうとしたわけではなかった。だが、その言葉だけが妙に鮮明に目へ残った。
シリルの脳裏へ、星鏡庭園で見せられた光景が蘇る。
恐ろしかった。
これまで経験したどの戦場でも知らなかったほどに。
だが、その恐れを知ったからこそ、自分が何を失いたくないのかも、もう誤魔化せなかった。
シリルは今度こそ記録帳をそっと閉じると、眠るエレノアへもう一度視線を向けた。
馬車の揺れに合わせて僅かに動く髪。
静かな寝息。
窓から差し込む朝の光が、頬へ柔らかく落ちている。
その確かな現実感が、胸の奥へ残っていた幻の冷たさを少しずつ遠ざけていった。
同時に、自分がしばらく彼女を見つめ続けていたことに気づいた。
僅かに眉を寄せ、窓の外へ視線を逸らす。
その先で、斜め向かいに座るリアナが、じっとこちらを見ていた。
「……何だ。」
「別に。」
リアナはすぐに素知らぬ顔で窓の外へ視線を移す。
シリルは何も言わず、記録帳を自分の隣へ置いた。
その時、馬車が再び揺れ、眠っていたエレノアの頭が窓枠へ軽く当たりそうになった。
シリルは咄嗟に手を伸ばしかける。
だが、触れる直前で止め、代わりに自分の外套を畳んで、窓と彼女の頭の間へ差し込んだ。
エレノアは目を覚まさず、柔らかな布へ頬を預け、そのまま穏やかな寝息を立てている。
それを確かめてから、シリルは何事もなかったように窓の外へ顔を向けた。
◇
どれほど眠っていたのだろう。
馬車の速度が緩やかになり、車輪の音が変わったことで、エレノアはゆっくりと目を開けた。
山道を抜け、平らな街道へ入ったらしい。
「……あれ?」
ぼんやりと瞬きをする。
最初に気づいたのは、頬へ触れている柔らかな感触だった。
次いで、乾いた木を思わせる落ち着いた香りに、革と清潔な石鹸の匂いが微かに混じっていることへ気づく。
覚えのある香りだった。
エレノアはゆっくり身体を起こすが、そこにあるのが見覚えのある外套だと分かるまで、少し時間がかかった。
「これは……。」
「起きたか。」
隣から低い声がする。
エレノアが振り向くと、シリルが窓の外を見たまま座っていた。
「はい。あの……こちら、シリル様の外套ですよね?」
「ああ」
「もしかして、私……」
「寝ていた」
あまりにも簡潔な答えに、眠気が一気に引いていく。
エレノアは頬へ熱が集まるのを感じた。
「すみません。記録をしていたはずなのですが……」
「疲れていたんだろう」
「でも、外套まで」
「窓に頭をぶつけそうだった」
それだけ言うと、シリルは隣へ置いていた記録帳を差し出した。
「これも落ちかけていた」
「ありがとうございます」
エレノアは両手で受け取った。
表紙にも頁にも汚れはない。
きっと床へ落ちる前に、彼が受け止めてくれたのだろう。
「ご迷惑をおかけしました。」
「迷惑ではない。」
返事は、考える間もないほど早かった。そのことにエレノアは僅かに目を見開く。
シリルはそれ以上何も言わず、もう窓の外へ視線を戻しているいつもと変わらない横顔だった。
それなのに、以前なら、ただ「親切にしていただいた」と思ったはずの出来事が、今日は胸の奥へ違う温かさを残した。
エレノアは借りていた外套を丁寧に畳む。
「ありがとうございました。」
「ああ。」
それ以上会話は続かなかったが、不思議と気まずくはない。
馬車の音と穏やかな沈黙が、二人の間へ静かに流れていた。
◇◇◇
それから数日。
途中の宿場で十分な休息を取りながら街道を進み、王都まであと半日ほどの距離へ差しかかった頃だった。
窓の外を眺めていたクラウディアが、不意に身体を起こす。
「見えてきたわ」
一同が顔を上げる。
遠くの地平へ、白い城壁が姿を現している。その奥には大小幾つもの塔が並び、さらに中央には、見慣れた王城の尖塔が空へ伸びていた。
まだ距離はある。けれど、見慣れた街の姿に誰もが安堵の息を漏らした。
「ようやく帰ってきたな。」
オーウェンが背を伸ばす。
「私はまず、温かい湯に入りたいです」
リアナが言うと、クラウディアも頷いた。
「それには賛成ね」
「私は資料庫へ。」
アルヴィンが即座に続ける。
「先生はまず寝た方がいい。」
ガレスの言葉に、再び小さな笑いが起こった。
エレノアも微笑みながら、窓の向こうに見える王都へ目を向ける。
遠征へ出た時と何も変わらない。けれど、あの場所を出た時には持っていなかったものを、今の自分たちは確かに持ち帰ろうとしている。
王都へ戻れば、まず第三の石板と星鏡庭園について国王へ報告しなければならない。
その後は、アルヴィンらと遺跡の記録を整理し、持ち帰った石板に刻まれている内容も改めて精査する必要がある。
東の地下神殿で得た、第一の石板。
北の知恵の祠で得た、第二の石板。
そして西の星鏡庭園で得た、第三の石板。
その先には、古代ヴァレシアの歴史を覆す何かが待っているのかもしれない。
なぜ、千年もの栄華を築いた文明は、何の前触れもなく滅びたのか。二千年前、この地で何が起きたのか。
謎へ近づくたび、新たな疑問が生まれていく。
馬車は、白亜の王都へ向かって進んでいく。
エレノアの膝の上では、まだ誰も意味を知らない星図が、
次なる場所へ至る道を秘めたまま、静かに頁を埋めていた。




