41話 星鏡庭園⑥―星々の祝福―
41話 勇気の証―星々の祝福―
「……シリル様。」
聞き慣れた声が、静まり返った庭園へ届いた。
シリルは、弾かれたように顔を上げる。
少し離れた白い石畳の上に、エレノアが立っていた。
蜂蜜色の髪は朝の光を受けて柔らかく輝き、澄んだ翡翠色の瞳が真っ直ぐこちらへ向けられている。その表情には驚きと、それ以上に、彼の無事を確かめた安堵が浮かんでいた。
シリルは何も言えないまま、ただ彼女を見つめた。
確かにそこに立っている。
生きている。
先ほどまで目の前にあった光景は、すべてこの庭園が見せた幻だった。
分かっている。頭では、とうに理解している。
それなのに、胸の奥へ焼きついた感覚だけは、すぐには消えてくれなかった。
血に濡れた石畳。腕の中で失われていく温もり。何をしても届かず、ただ彼女の身体が光へ変わっていくのを見ているしかなかった絶望。
そして最後に、自分の喉から零れ落ちた名。
――エレノア
シリルの指先が、無意識に僅かに動く。
幻の中で抱いていたはずの身体は、もう腕の中にはない。それでも、その温もりだけがまだ掌の奥へ残っているような気がした。
「……ああ」
ようやく返せた声は、ひどく短かった。
それでもエレノアは、それ以上を求めなかった。
何を見たのかとも、なぜそんな顔をしているのかとも尋ねない。
彼女自身もまた、この庭園で何かを見せられたのだろう。翡翠色の瞳の奥には、いつもの穏やかさとは少し異なる、静かな決意のようなものが残っていた
二人は、言葉を交わさなかった。
ただ互いがそこにいることを確かめるように、しばらく視線を重ねた。
無事に、ここへ戻ってきた。
今はそれだけで十分だった。
その静かな時間を破ったのは、ガレスだった。
「……全員、戻ったようだな。」
シリルが視線を動かす。
いつの間にか、庭園には試練へ挑んだ者たちが再び揃っていた。
クラウディアは一度大きく息を吐き、額へ落ちた青みがかった黒髪を指先で払う。
「さすがに……生きた心地がしなかったわね」
「同感です」
リアナも苦笑を浮かべている。普段なら明るく言葉を返す彼女にも、まだ緊張の名残があった。
オーウェンは首を軽く回しながら息を吐く。
「剣で襲われる方が、まだ対処のしようがありますね。」
一方、アルヴィンだけはまだ夢から醒めきらないような表情で、星鏡庭園を見回していた。
「精神へ直接働きかけ、個々に異なる幻を見せる遺構……。それも、これほど精密に人の記憶や恐怖へ触れるとは……。古代ヴァレシア文明には、我々が考えていた以上の技術があったということになりますね」
恐ろしかったはずだ。それでも歴史家としての好奇心が勝るらしい。
その時だった。
コォ……。
台座の黒い石板が淡く輝き始めた。
一瞬で一同の視線が集まる。
しかし、先ほどまでの激しい光とは違う。
柔らかな青白い光だった。
夜の水面へ差し込む月明かりのような、青みを帯びた白。黒い石の表面から滲み出した輝きが台座を包み、そこから柔らかな波紋となって白い石畳へ広がっていく。
最初に変化したのは、足元だった。
「これは……。」
エレノアが思わず息を呑む。
庭園全体へ刻まれていた星図の一つへ、青白い光が灯った。
続いて、その隣。
さらに、その先。
遠く離れた星々が順番に目覚めるように、無数の光点が静かに浮かび上がった。
そして、点と点の間へ細い光の線が伸びていく。
幾何学的に配置されていた無数の刻印が繋がり、やがて巨大な星座のような模様を形作っていった。
まるで白い石畳そのものが、一枚の夜空へ姿を変えていくようだった。
さらに、庭園を巡る水路にも変化が起きる。
透明だった水の底から淡い蒼が浮かび上がり、静かな水面をゆっくりと染めていった。そこへ映り込んだのは、頭上に広がる朝の空ではない。
無数の星が瞬く、深い夜だった。
「空が……。」
オーウェンが思わず見上げる。
頭上には雲一つない青空が広がっている。陽射しも差している。
それなのに、この庭園だけは違った。
地面には夜空が広がり、水面にも星が瞬いている。
昼と夜が同じ場所へ重なり合い、現実の庭園に別の世界が現れたようだった。
「だから……星鏡庭園」
エレノアが小さな声で呟いた。
その名が意味するものを、初めて目にしたように。
その直後だった。
庭園の中央に立つ大樹の枝葉が、風もないのにさらりと揺れた。
銀色だった葉へ青みが差し、その一枚一枚が内側から淡く透ける。
やがて枝の間から、小さな光が一つ落ちてきた。
それは地面へ落ちない。
途中でふわりと止まり、宙に浮かぶ。
続いて二つ。三つ。
やがて数え切れないほどの光が、大樹の枝葉から溢れ出した。
「……綺麗」
リアナが、ほとんど無意識のように呟く。
青白い光の粒は、雪のように降りながらも地面へ積もることはなく、七人の周囲をゆっくりと漂い始めた。
一つ一つが淡く明滅している。
まるで夜空から星そのものが零れ落ちてきたようだった。
一粒がクラウディアの肩へ触れ、音もなく弾けて細かな煌めきへ変わる。
ガレスの手元にも、オーウェンの外套にも、リアナの腕にも。次々と星明かりが触れ、そのたび柔らかな光となって溶けていった。
エレノアはそっと掌を上へ向けた。
一つの光が、その手の上へ静かに降りる。
冷たくはなかった。
むしろ春の日差しへ触れたような、穏やかな温もりが掌から身体の奥へ沁み込んでいく。
彼女が驚いたように僅かに目を見開く。
その横顔を見たシリルのもとへも一粒の星が流れてきた。
胸元へ触れた光が淡く弾ける。
その瞬間、先ほどまで胸の奥へ残っていた幻の冷たさが、僅かに薄れた気がした。
恐怖そのものが消えたわけではない。
だが、この光は恐れを否定しているのではないのだと、なぜかそう思えた。
恐れたことも。
迷ったことも。
その上で、それでも前へ進んだことも。
すべてを知った上で、受け入れているような温かさだった。
この庭園は、ただ星空を映すための場所ではない。
誓約の回廊を越え、自らの最も深い恐れと向き合い、それでも歩みを止めなかった者たちへ、
星々がその勇気を認め、祝福を返す場所だったのだ。
七人を包んでいた光は、しばらく庭園を巡った。
誰一人、言葉を発さない。
無数の星明かりの中で、それぞれが自分の胸へ残されたものと向き合っているようだった。
やがて、光の粒が一つずつ方向を変え始める。
吸い寄せられるように庭園中央の黒い石板へ集まり、青白い輝きとなってその表面を包み込んでいく。
最後の一粒が石へ溶け込むと同時に、古代文字が浮かび上がった。
エレノアが一歩前へ進む。
シリルも反射的にその動きを追いかけかけたが、危険な気配がないことを確認し、半歩後ろで止まる。
青白く輝く文字を見つめ、エレノアはゆっくりと読み上げた。
「――『恐れを知り、なお歩む者』」
静かな声が、星明かりの残る庭園へ響く。
「――『ここに、勇気を認める』」
読み終えた瞬間、石板の光が一際強く輝いた。
そして、光は静かに収まり、星図を満たしていた輝きも、水面へ映っていた夜空も、少しずつ薄れていく。
静寂が戻った。
気づけば庭園には、朝の光が穏やかに差し込んでいる。
そこには先ほどまでと変わらぬ黒い石板が、静かに置かれている。
ガレスがゆっくり頷いた。
「これで、勇気の試練を越えたと認められたわけか。」
「そうなのでしょう。」
誓約の回廊を進み、星鏡庭園で自らの最も深い恐怖を見せられる。
恐れを持たない者を選ぶのではない。
恐れを知った上で、それでも立ち止まらない者。
古代の人々が『勇気』と呼んだものは、きっとその強さだったのだ。
エレノアは台座へ近づき、黒い石板へ慎重に指先を伸ばした。
指先が触れても、今度は何も起こらない。冷たい石の感触だけが伝わってくる。
両手を縁へ掛け、ゆっくりと持ち上げる。するとシリルが、すぐに彼女の前へ手を差し出した。
「預かる。」
「ですが、それほど重くはありません。」
「それでもだ。」
反論の余地を与えない声だった。
いつものことだと思いながら、エレノアは小さく微笑んだ。
「では、お願いいたします」
石板を渡すと、シリルは両腕で確実に受け取り、表面と縁に異常がないことを確認した。そのあと保護布で慎重に包み、運搬を担うオーウェンへ引き渡す。
その様子を見届け、ガレスが静かに告げる。
「第三の石板の回収を確認。」
「三枚目が……本当に、ここに。」
アルヴィンは、感慨を押さえきれないように石板を見つめた。
「失われた歴史へ、また一つ近づけました。」
三枚目の石板。
残る石板がどこにあるのか。その先へ何が待っているのか。
まだ分からない。
けれど一行は今、三つ目の答えを確かに手へした。
星鏡庭園の大樹が、朝の風に静かに枝葉を揺らしていた。
まるで役目を終えた者たちを穏やかに見送るように。
◇◇◇
帰路を進む一行は、誓約の回廊を静かに歩いていた。
朝日に照らされた白い石畳は、来たときよりもどこか穏やかに見える。
先頭を歩くガレスの後ろでは、オーウェンが第三の石板を慎重に抱えていた。
誰も、自分が星鏡庭園で何を見たのかを口にしなかった。
聞こうとする者もいない。
それぞれが心の最も深い場所へ触れられたことを、言葉にせずとも理解していたからだ。
その沈黙は、重苦しいものではない。
むしろ、互いの胸へ残されたものを尊重するための静けさだった。
エレノアは、シリルの半歩後ろを歩いていた。
試練へ入る前と同じ位置。
けれど、シリルは以前よりも頻繁に振り返っていた。
少し歩いては振り返り、エレノアの足元や顔色へ視線を向ける。
歩調が遅れていないか、呼吸に乱れがないかを確かめるようなその動きは、もともと護衛として周囲をよく見ている彼にしても、明らかに頻度が増えていた。
三度目に視線が重なったところで、エレノアはとうとう首を傾げた。
「シリル様?」
「何だ」
「何か、私に異変がありますか?」
「ない」
間を置かない返答だった。
「では……」
「確認しているだけだ」
「そうですか」
何を確認しているのか。
そこまで尋ねるのは、なぜか躊躇われた。
シリルも説明するつもりはないらしく、再び前を向く。
やがて回廊の石畳へ、小さな段差が現れた。
「エレノア嬢。」
呼ばれて顔を上げると、シリルが足を止め、こちらへ手を差し出している。
「段差だ。」
「……はい。」
エレノアは、その大きな手へ自分の手を重ねた。
ほんの僅かな段差だった。一人でも、問題なく越えられる。
それでもシリルは、彼女の両足が平らな石畳へ着くまで、手を離さなかった。
「ありがとうございます。」
エレノアが微笑む。
「ああ。」
短く答え、シリルは再び歩き出す。
回廊の先では、白い階段へ差し込む朝の光が、
一行を優しく迎えていた。




