40話 星鏡庭園⑤―勇気とは―
(※今回血や怪我、抽象的ですが死を連想させる描写があります。苦手な方はご注意ください。)
40話 勇気とは
赤黒い血が、石畳を染めていた。
鼻を突く鉄の匂い。
折れた槍。
砕けた盾。
焼け焦げた旗が、乾いた風に揺れている。
「……ここは。」
シリルはゆっくり目を開けた。
戦場だった。
だが、見覚えがない。
リーヴェル王国の軍旗もなければ、敵国の紋章もない。
それでも、この光景はあまりにも現実だった。
足元に残る血溜まりはまだ乾ききっていない。
風に運ばれる煙は、つい今しがたまで戦いがあったことを物語っている。
シリルは剣の柄へ手を掛ける。
――動ける。
先ほどまでの拘束は消えていた。
ゆっくりと一歩踏み出した、その時だった。
「……助けて。」
かすかな声。
女性の声だった。
シリルは顔を上げる。
崩れた石柱の向こうから聞こえた。
迷わず駆け出す。
瓦礫を飛び越え、崩れた壁を回り込む。
すると、そこには一人の女性が膝をついていた。
蜂蜜色の長い髪。
翡翠色の瞳。
淡いクリーム色の外套。
「……エレノア嬢。」
胸がざわつく。
彼女はこちらへ手を伸ばしていた。
「シリル様……。」
その笑顔は、どこか力がない。
クリーム色の外套の下。
白い衣服の脇腹へ、赤い染みが大きく広がっていた。
血だ。
傷口から、なおも止めどなく流れ続けている。
「何があった!」
駆け寄ろうとする。
しかし。
距離が縮まらない。
一歩踏み出しても。
また一歩踏み出しても。
まるで地面そのものが遠ざかっていくように、エレノアとの距離だけが埋まらない。
「……くそ!」
速度を上げる。
全力で駆ける。
それでも届かない。
彼女は苦しそうに息をしながら、それでも微笑んでいた。
「大丈夫です。」
か細い声。
「皆さんは……無事です。」
「話すな。」
「石板は……無事に……。」
「エレノア嬢!」
叫んでも、距離は縮まらない。
シリルの胸が激しく脈打つ。
今まで何度も危険な任務を経験してきた。
仲間を失ったこともある。
それでも。
こんな恐怖は知らない。
彼女へ届かない。
それだけで呼吸が浅くなる。
「もう少し……。」
エレノアは苦しそうに笑った。
「もう少しだけ……一緒に……。」
その身体がぐらりと傾く。
「待て!」
シリルは地面を蹴った。
届け。
頼む。
届いてくれ。
今だけは。
今だけは――。
景色が歪む。
距離が一瞬だけ縮まる。
彼は勢いのまま彼女を抱き止めた。
細い身体。
温もり。
震える呼吸。
確かに腕の中にいる。
「エレノア嬢!」
彼女はゆっくりと目を開いた。
「……シリル様。」
その唇に血が滲む。
「良かった……。」
弱々しい笑みだった。
「皆さんが……ご無事で……。」
「喋るな。」
傷口を押さえる。
血が止まらない。
騎士として何度も応急処置をしてきた。
だが、
傷口を強く圧迫しても。
布を重ね、全力で押さえても。
血は指の隙間から溢れ続ける。
「医者のところへ連れて行く。」
「必ず助ける。」
自分でも驚くほど声が震えていた。
エレノアは静かに首を横へ振る。
「大丈夫……です。」
「大丈夫ではない。」
「俺を見ろ。」
「死ぬな。」
命令口調。
だがその声には、焦りが滲んでいた。
エレノアは困ったように笑う。
「……はい。」
その返事は、いつものように素直だった。
けれど、
その瞼がゆっくり閉じ始める。
「眠るな。」
肩を揺する。
「エレノア嬢。」
返事はない。
「目を開けろ。」
呼吸が浅くなる。
「エレノア嬢。」
もう一度呼ぶ。
身体から力が抜けていく。
「……おい。」
初めてだった。
これほどまでに、冷静さを失ったのは。
エレノアを抱く手が震える。
呼吸が乱れる。
胸が締めつけられる。
彼女を失う。
その考えだけで、世界が崩れそうだった。
頭では理解できない。
ただ一つだけ、心が叫んでいた。
失いたくない。
絶対に。
その瞬間だった。
腕の中の温もりが、すっと消え始める。
まるで砂になって零れ落ちるように。
「!?」
シリルは目を見開く。
エレノアの身体が光へ変わっていく。
「待て。」
掴もうとする。
指先から光が零れる。
「待て……!」
届かない。
消えていく。
嫌だ。
行くな。
行かないでくれ。
その想いが、理性より先に口をついた。
「エレノア!!」
悲鳴にも似た叫びが、戦場へ響き渡る。
けれど声は虚空へ吸い込まれ、光となった彼女へ届くことはなかった。
次の瞬間。
戦場が音もなく崩れ始めた。
血に染まった石畳は砕け、空は白く染まり、世界そのものが光へ溶けていく。
再び、あの穏やかな声が響いた。
『それが、お前の最も恐れるもの。』
シリルは立ち尽くしたまま、拳を強く握り締める。
『守れなかった未来。』
『お前が最も恐れる結末。』
『失うことへの恐れ。』
彼は何も答えられない。
答える必要などなかった。
自分でも、ようやくはっきりと理解したのだから。
なぜ彼女が危険な目に遭うたび、心がざわついたのか。
なぜ彼女が無事だと、誰よりも安堵していたのか。
なぜ気づけば、その姿を目で追っていたのか。
答えから、もう目を逸らすことはできなかった。
彼にとってエレノアは、守るべき任務対象というだけではない。
――失いたくない、ただ一人の女性だった。
光となった彼女へ、シリルはなおも手を伸ばす。
「……っ。」
指先は虚しく空を掴むだけだった。
だが、その手をゆっくりと下ろす。
拳を強く握り締め、深く息を吐いた。
失うことは怖い。
その恐れは、きっと消えない。
これから先も、彼女が危険に晒されるたび、自分は同じ恐怖を抱くだろう。
それでも――。
彼は静かに顔を上げた。
「恐れているだけでは、守れない。」
誰に言うでもなく、低く呟く。
「失いたくないからこそ、俺は進む。」
その青い瞳に、再び騎士としての強い光が宿る。
「恐れたままでも、最後まで彼女の前に立つ。」
失う未来を恐れて、手を伸ばすことをやめるのではない。
傷つく可能性があっても。
守れない結末を見せつけられても。
それでも剣を取り、彼女の前に立ち続ける。
それが、
近衛騎士シリル・ヴァルモントの答えだった。
その瞬間、崩れかけていた世界が静かに光へ変わっていく。
空は朝焼けのような柔らかな白へ染まった。
穏やかな声が響く。
『恐れを知り、なお歩む者よ。』
シリルは静かに目を閉じる。
『汝に、勇気あり。』
世界が白い光に包まれる。
戦場も。
石畳も。
風も。
すべてが静かに溶けていった。
やがて耳に、水のせせらぎが戻る。
銀の葉が風に揺れる音。
澄んだ空気。
ゆっくりと瞼を開くと、そこは再び星鏡庭園だった。
鏡の泉は静かに輝き、大樹の枝葉が朝日にきらめいている。
シリルは小さく息を吐き、無意識に辺りを見回した。
その青い瞳は、ただ一人。
蜂蜜色の髪をした女性の姿を探していた。
その姿を見つけた瞬間。
胸の奥で張り詰めていたものが、静かにほどけた。




