39話 星鏡庭園④―それでも歩む―
39話 星鏡庭園④―それでも歩む―
――「知識だけでは、家族さえ救えなかった。」
その言葉は、まるで胸の奥深くへ落ちる石のように、静かに、しかし重く響いた。
エレノアは唇を強く噛む。
違う。
そんなことはない。
そう言い返したかった。だが、言葉にならない。
それは、誰よりも自分自身が何度も思ってきたことだったからだ。
家庭教師として働き始めてからも、何度も考えた。
もっと稼げる仕事があれば。
もっと力があれば。
もっと裕福な家に生まれていたなら。
古代文字を読めても、父の目が治るわけではない。母が薬を手放せるわけでもない。
知識だけでは、人は生きられない。
そんな現実を、何度も突きつけられてきた。
「私に……」
声が震える。
「私に、もっと力があれば……」
父は静かに首を横へ振った。
「お前は十分に家族を支えている」
「でも……!」
父の声は優しい。
けれど、それが本物の父の言葉なのか。
それとも、自分が最も聞きたい言葉を幻が与えているだけなのか、エレノアには分からなかった。
「働き、家のことを担い、それでも学ぶことをやめなかった。」
父は穏やかに笑う。
「これ以上、お前に何を望むというのだ。」
先ほどまで心を責め立てていた空気とは違う。
まるで、この姿だけは本当に父なのだと思えるほど温かかった。
その優しさが、エレノアには何よりも苦しかった。
もし父が責めてくれたなら。
怒ってくれたなら。
少しは楽だったかもしれない。
だが父は、昔と変わらない眼差しで娘を見つめている。
「……ごめんなさい。」
思わず漏れた言葉だった。
「私がもっと優秀なら……。」
「私が、もっと早く古代文字を役立てられていたら……。」
涙が頬を伝う。
「お父様に、苦労を……。」
その時。
父の姿が、ゆっくりと霞み始めた。
「お父様……?」
手を伸ばす。
しかし指先は届かない。
まるで霧に触れたように、父の姿は静かに揺らいでいく。
そして。
今度は父ではない声が聞こえた。
『本当に、それがお前の恐れか。』
庭園で聞いた、あの穏やかな声だった。
世界が一変する。
書斎の壁が崩れ、本棚が砕け、足元の床さえも光へ溶けていく。
気づけばエレノアは、どこまでも続く白い空間に一人立っていた。
目の前には、一枚の黒い石板が浮かんでいる。
その表面へ、古代文字がゆっくりと刻まれていった。
エレノアは無意識に読み上げる。
――『すべてを救えぬ知識に、何の価値がある』
それだけだった。
白い空間の中で、ただエレノアの答えだけが待たれていた。
あの日の父は、「知識さえあればすべて救える」――そんなことは、一度も言わなかった。
知識は、すべてを解決する奇跡ではない。
それでも人を導き、未来へ繋ぐことができる。
だから父は、それを“宝”と呼んだのだ。
宝は、すべてを解決する奇跡ではない。
それでも、人を導き、未来へ繋ぐもの。
それが知識なのだ。
「私は……。」
エレノアは静かに顔を上げた。
父を苦しみから救えなかったことは事実だ。
失った屋敷も戻らない。
それでも。
古代文字を学び続けたからこそ、この旅が始まった。
地下神殿で、古代文字を読めなければ、誰も正しい道を選べなかった。
知恵の祠で、碑文を解けなければ、失われた言葉はそこで途絶えていた。
数千年前の人々が未来へ託した言葉を、自分は確かに受け取ってきた。
皆がここまで辿り着いた歩みの一端を、自分の読んだ言葉も確かに支えていた。
それは決して無意味ではなかった。
エレノアは石板へ向かって、一歩踏み出す。
「私は……。」
もう迷わなかった。
「知識だけですべてを救えるとは思いません。」
「それでも。」
静かな声が、白い空間へ響く。
「知識が誰かを救える瞬間は、必ずあります。」
もう一歩。
「だから私は学び続けます。」
さらに一歩。
「読めるのが私だけなら、なおさら。」
石板の前へ立つ。
エレノアは真っ直ぐ前を見つめた。
「恐れても、私は歩みを止めません。」
その言葉と同時に、黒い石板が柔らかな光を放つ。
眩しいほどではない。
朝日のような、温かな光だった。
『恐れを知り、なお歩む者よ。』
穏やかな声が響く。
『汝に、勇気あり。』
白い世界がゆっくりと崩れていく。
光の向こうへ、父の書斎がもう一度浮かび上がった。
本棚。
机。
窓から差し込む陽だまり。
そのすべてが、光の粒となって空へ舞い上がっていく。
最後に、父の姿が現れた。
目の病に苦しむ前の、穏やかな笑顔だった。
「よく頑張ったね、エレノア。」
優しい声。
幼い頃、文字を一つ読めるようになるたびに聞いた言葉。
けれど今は、あの頃とは違う意味を持って胸へ届いた。
「私は、お前を誇りに思う。」
その言葉を最後に、父の姿は光へ溶けた。
「……お父様。」
涙が一粒こぼれる。
けれど、その涙は先ほどまでとは違っていた。
胸の奥に、小さく灯る温かなものを感じていた。
やがて光が視界を満たす。
耳に、水のせせらぎが戻ってくる。
風が葉を揺らす音。
ゆっくりと瞼を開くと、そこは再び星鏡庭園だった。
鏡の泉は静かに輝き、大樹の銀緑色の葉が朝日に煌めいている。
エレノアは小さく息を吐いた。
「戻って……。」
言いかけて、言葉を飲み込む。
仲間たちは、まだ動かない。
ガレスも。
クラウディアも。
オーウェンも。
リアナも。
アルヴィンも。
そして――シリルも。
誰もが静かに目を閉じたまま、光に包まれていた。
それぞれが、まだ己の恐れと戦っているのだ。
エレノアは胸の前で手を組み、祈るように皆を見つめた。
――どうか、無事に帰ってきて。
その願いが胸を満たした。
その頃。
シリルの足元に広がっていたのは――
赤黒く血に染まった石畳だった。




