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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第三章

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39話 星鏡庭園④―それでも歩む―

39話 星鏡庭園④―それでも歩む―




――「知識だけでは、家族さえ救えなかった。」




その言葉は、まるで胸の奥深くへ落ちる石のように、静かに、しかし重く響いた。


エレノアは唇を強く噛む。


違う。


そんなことはない。


そう言い返したかった。だが、言葉にならない。


それは、誰よりも自分自身が何度も思ってきたことだったからだ。


家庭教師として働き始めてからも、何度も考えた。



もっと稼げる仕事があれば。


もっと力があれば。


もっと裕福な家に生まれていたなら。



古代文字を読めても、父の目が治るわけではない。母が薬を手放せるわけでもない。


知識だけでは、人は生きられない。


そんな現実を、何度も突きつけられてきた。


「私に……」


声が震える。


「私に、もっと力があれば……」


父は静かに首を横へ振った。


「お前は十分に家族を支えている」


「でも……!」


父の声は優しい。


けれど、それが本物の父の言葉なのか。


それとも、自分が最も聞きたい言葉を幻が与えているだけなのか、エレノアには分からなかった。


「働き、家のことを担い、それでも学ぶことをやめなかった。」


父は穏やかに笑う。


「これ以上、お前に何を望むというのだ。」


先ほどまで心を責め立てていた空気とは違う。


まるで、この姿だけは本当に父なのだと思えるほど温かかった。


その優しさが、エレノアには何よりも苦しかった。


もし父が責めてくれたなら。


怒ってくれたなら。


少しは楽だったかもしれない。


だが父は、昔と変わらない眼差しで娘を見つめている。


「……ごめんなさい。」


思わず漏れた言葉だった。


「私がもっと優秀なら……。」


「私が、もっと早く古代文字を役立てられていたら……。」


涙が頬を伝う。


「お父様に、苦労を……。」


その時。


父の姿が、ゆっくりと霞み始めた。


「お父様……?」


手を伸ばす。


しかし指先は届かない。


まるで霧に触れたように、父の姿は静かに揺らいでいく。


そして。


今度は父ではない声が聞こえた。







『本当に、それがお前の恐れか。』







庭園で聞いた、あの穏やかな声だった。





世界が一変する。


書斎の壁が崩れ、本棚が砕け、足元の床さえも光へ溶けていく。


気づけばエレノアは、どこまでも続く白い空間に一人立っていた。


目の前には、一枚の黒い石板が浮かんでいる。


その表面へ、古代文字がゆっくりと刻まれていった。


エレノアは無意識に読み上げる。


――『すべてを救えぬ知識に、何の価値がある』


それだけだった。


白い空間の中で、ただエレノアの答えだけが待たれていた。


あの日の父は、「知識さえあればすべて救える」――そんなことは、一度も言わなかった。


知識は、すべてを解決する奇跡ではない。


それでも人を導き、未来へ繋ぐことができる。


だから父は、それを“宝”と呼んだのだ。


宝は、すべてを解決する奇跡ではない。


それでも、人を導き、未来へ繋ぐもの。


それが知識なのだ。


「私は……。」


エレノアは静かに顔を上げた。


父を苦しみから救えなかったことは事実だ。


失った屋敷も戻らない。


それでも。


古代文字を学び続けたからこそ、この旅が始まった。


地下神殿で、古代文字を読めなければ、誰も正しい道を選べなかった。


知恵の祠で、碑文を解けなければ、失われた言葉はそこで途絶えていた。


数千年前の人々が未来へ託した言葉を、自分は確かに受け取ってきた。


皆がここまで辿り着いた歩みの一端を、自分の読んだ言葉も確かに支えていた。


それは決して無意味ではなかった。


エレノアは石板へ向かって、一歩踏み出す。


「私は……。」


もう迷わなかった。


「知識だけですべてを救えるとは思いません。」


「それでも。」


静かな声が、白い空間へ響く。


「知識が誰かを救える瞬間は、必ずあります。」


もう一歩。


「だから私は学び続けます。」


さらに一歩。


「読めるのが私だけなら、なおさら。」


石板の前へ立つ。


エレノアは真っ直ぐ前を見つめた。






「恐れても、私は歩みを止めません。」







その言葉と同時に、黒い石板が柔らかな光を放つ。


眩しいほどではない。


朝日のような、温かな光だった。




『恐れを知り、なお歩む者よ。』




 穏やかな声が響く。













『汝に、勇気あり。』










白い世界がゆっくりと崩れていく。


光の向こうへ、父の書斎がもう一度浮かび上がった。


本棚。


机。

 

窓から差し込む陽だまり。


そのすべてが、光の粒となって空へ舞い上がっていく。


最後に、父の姿が現れた。


目の病に苦しむ前の、穏やかな笑顔だった。


「よく頑張ったね、エレノア。」


優しい声。


幼い頃、文字を一つ読めるようになるたびに聞いた言葉。


けれど今は、あの頃とは違う意味を持って胸へ届いた。


「私は、お前を誇りに思う。」


その言葉を最後に、父の姿は光へ溶けた。


「……お父様。」


涙が一粒こぼれる。

 

けれど、その涙は先ほどまでとは違っていた。


胸の奥に、小さく灯る温かなものを感じていた。




やがて光が視界を満たす。


耳に、水のせせらぎが戻ってくる。


風が葉を揺らす音。


ゆっくりと瞼を開くと、そこは再び星鏡庭園だった。


鏡の泉は静かに輝き、大樹の銀緑色の葉が朝日に煌めいている。


エレノアは小さく息を吐いた。


「戻って……。」


言いかけて、言葉を飲み込む。


仲間たちは、まだ動かない。


ガレスも。

クラウディアも。

オーウェンも。

リアナも。

アルヴィンも。

そして――シリルも。


誰もが静かに目を閉じたまま、光に包まれていた。


それぞれが、まだ己の恐れと戦っているのだ。


エレノアは胸の前で手を組み、祈るように皆を見つめた。


――どうか、無事に帰ってきて。


その願いが胸を満たした。












その頃。


シリルの足元に広がっていたのは――


赤黒く血に染まった石畳だった。




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