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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第三章

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38話 星鏡庭園③―知識は、何を救える―

38話 星鏡庭園③―知識は、何を救える―




白い光がエレノアの視界を満たしていく。


眩しいはずなのに、不思議と目は痛まなかった。


音も消えている。


仲間の気配も、風も、水音も。


ただ静かな白だけが世界を包み込んでいた。


やがて、その白の中に一つ、色が生まれる。




深い茶色。


古びた木の色だった。


続いて、革張りの椅子。


壁一面の本棚。


机へ積み重ねられた羊皮紙と、使い込まれたインク壺。


窓から差し込む、柔らかな午後の日差し。


見覚えのある景色が、ゆっくりと形を成していく。


「……ここは。」

 

エレノアは小さく息を呑んだ。


忘れるはずがない。


幼い頃から、数え切れないほどの時間を過ごした部屋。


没落する前の、アシュフォード伯爵邸。


父の書斎だった。


棚には古代語の書物が隙間なく並び、机の上には父が使っていた羽根ペンが置かれている。


紙をめくる音まで聞こえてきそうなほど、あまりにも鮮明だった。


「夢……?」


恐る恐る机へ触れると、木肌は温かい。


現実と何ひとつ変わらない感触だった。




『夢ではない。』




穏やかな声が響く。


星鏡庭園で聞いた、あの声だった。




『これは、お前自身の心。』




部屋の空気がゆっくりと揺れる。




『恐れを映す鏡である。』





その言葉とともに、部屋の奥で椅子が軋んだ。


ぎぃ、と静かな音がして、エレノアは振り向く。


そこには、一人の男性が座っていた。


少し癖のある、ややくすんだ金の髪。穏やかな茶色の瞳。柔らかな笑み。


「お父様……。」


思わず声が漏れる。


ローレンス・アシュフォード。


優しく微笑むその姿は、目を患い、歩くことにも不自由が生じる前のままだった。


「おいで、エレノア。」


いつもの温かい声だった。


「お父様……。」


気づけば駆け寄っていた。


父の前で足を止め、手を伸ばしかけて、はっと動きを止めた。


これは現実ではない。


幻なのだ。


分かっている。


それでも、目の前の父はあまりにも自然に微笑んでいた。


「今日は続きを読もう。」


父は一冊の古い本を開く。


「ヴァレシア建国記だ。」


その瞬間、胸が締め付けられた。幼い日の記憶が鮮やかによみがえる。


『知識は宝だ。』


父はいつもそう言っていた。


『物はいつか壊れる。だが知識は、人から人へ受け継がれる限り決して失われない。』


幼いエレノアは、その言葉を信じていた。


毎日、父の隣で古代文字を学んだ。


難しい文字が読めるようになるたび、父は嬉しそうに笑ってくれた。


『よく頑張ったね。』


その一言が嬉しくて。


もっと知りたくて。


もっと読めるようになりたくて。


気づけば、本を読むことが何より好きになっていた。


目の前の父も、あの日と同じように微笑んでいる。


「ほら、この文字は覚えているかい?」


父が紙を差し出す。そこには幼い頃、何度も書き取りをした古代文字があった。


エレノアは自然に答えていた。


「『始まり』です。」


「正解だ。」


父は嬉しそうに頷く。


「では、これは?」


「『未来』。」


「よく覚えているな。」




ああ……。




この時間が好きだった。





何も心配することがなかった頃。


まだ家が栄えていて。


母も病気ではなくて。


父も伯爵として慕われていて。


未来は希望に満ちていると信じていた頃。


涙が滲みそうになる。


しかし。


その温かな空気に、小さな違和感が混じった。





父の声が少しずつ遠くなる。


部屋の日差しが陰る。


窓の外に黒い雲が流れ込んできた。


「……お父様?」


父は答えない。


机の上の本が、一冊、また一冊と消えていく。本棚も空になっていく。壁際に積まれていた巻物も。


地図も。


研究書も。


まるで誰かが持ち去るように、静かに姿を消していった。


「え……?」


エレノアは周囲を見回す。


何が起きているのか分からない。


やがて部屋の床へ、一枚の紙が落ちた。


拾い上げると、そこには見覚えのある印章が押されていた。




――差押命令。




指先が震える。


次々と紙が降ってくる。


保証人契約。


借財証書。


競売通知。


どれも、あの日見た書類だった。


アシュフォード伯爵家が没落した日の記憶。


「違う……。」


エレノアは首を振る。


「これは……。」


しかし幻は止まらない。


豪華だった書斎は急速に色を失っていく。


壁紙が剥がれ、机は傷がつき、床には埃が積もる。


あの日の屋敷だ。


地位も、財産も、かつての日常も失った後の、静かな屋敷。


父は開いていた本へ目を落とした。けれど、文字を追おうとする瞳が苦しげに細められる。


やがて片手で目元を押さえ、本を閉じた。


「お父様……?」


エレノアは慌てて傍らへ寄る。


父の手は、閉じた本の上に力なく置かれていた。


知っている。


細かな文字を長く追えなくなった頃の父だ。


大切にしてきた研究書を開いても、数行読むだけで目に痛みが出る。


立ち上がれば足元が揺らぎ、以前のように書棚の間を歩くことさえ難しくなっていた。


「私は大丈夫だから。」


父は、目元を押さえたまま続けた。


「エレノアは、心配しなくていい。」


「そんな……。」


父は、エレノアを安心させようとするように笑った。


「私の治療のために、エレノアが無理をする必要はない。」


「そんなことをおっしゃらないでください。」


思わず声が強くなる。


家庭教師の仕事を始めた日のこと。


一枚一枚硬貨を数えながら、父の治療費と母の薬代を工面した日のこと。


屋根が雨漏りしても修繕を後回しにした日のこと。


すべてが鮮明によみがえる。


父は静かに本棚を見つめた。


もう、そこはほとんど空といっていい。


「知識は宝だと……私は言ったね。」


エレノアは小さく頷く。


「はい……。」


父はゆっくりと目を伏せた。


次の瞬間、父の表情が、ほんの僅かに歪んだ。


優しい面差しは変わらない。


それなのに、目の前にいる者が父ではないことを、エレノアは悟った。


父の姿を借りて。


父の声を使って。


自分の心の奥に沈めてきた恐れが、語ろうとしている。


「だが――」







「知識だけでは、家族さえ救えなかった。」









エレノアの呼吸が止まる。






「本を読んでも。」


「古代文字を解読しても。」


「家も守れない。」


「病も治せない。」


「何の役にも立たない。」


一つひとつの言葉が、心の奥へ沈んでいく。






それは、父の言葉ではない。


誰かに責められた言葉でもない。



エレノア自身が、誰にも打ち明けられないまま、心の最も深い場所へ閉じ込め続けてきた恐れだった。




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