37話 星鏡庭園②―見つめるもの―
37話 星鏡庭園②―見つめるもの―
「――『恐れぬことではない』」
エレノアが最後の一文字を読み上げた、その瞬間だった。
天へ伸びていた光の柱が、静かに脈打つ。
一度。
そして、もう一度。
まるで、この庭園そのものが鼓動を取り戻したかのようだった。
光の中を巡っていた古代文字が、ゆっくりと軌道を変える。
淡く輝く文字は七人の周囲を旋回したのち、吸い寄せられるように大樹の枝葉へ溶け込んでいった。
さらさら、と。
銀緑色の葉が一斉に鳴る。
朝の風は吹いていない。
それでも庭園にただ一本立つ巨樹だけが、長い眠りから目覚めたように枝を揺らしていた。
鏡の泉にも、中央から小さな波紋が生まれる。
一つ。
また一つ。
広がっては消え、消えては再び現れる。
まるで、目に見えない何者かが、水面へ何度も指先を触れているようだった。
「何が起きている……。」
オーウェンが低く呟く。
剣の柄へ手を添えているものの、斬るべき相手はどこにも見当たらない。
リアナも周囲へ鋭い視線を巡らせる。
「敵の気配はありません。ですが……。」
クラウディアが大樹を見上げた。
「何かが、私たちを見ているような……。」
その言葉を、誰も否定できなかった。
敵意ではない。
殺気でもない。
もっと静かで、もっと深い何か。
人ではない何かが、この場所へ辿り着いた七人を見つめている。
そんな感覚だった。
エレノアは、なおも黒い石板を見つめていた。
刻まれた文字は淡い光を放ち続けている。
けれど、先ほど読み上げたものに続く文章は、どこにも現れない。
代わりに。
鏡の泉の中央から、穏やかな声が響いた。
男とも女ともつかない。
若者とも老人とも分からない。
初めて聞くはずなのに、なぜか遠い昔から知っていたような、不思議な声だった。
――『知を得し者よ。』
――『力を携えし者よ。』
七人は自然と息を呑んだ。
――『共に歩みし者よ。』
ガレスが静かに目を細める。
知、力、そして、他者と共に歩むこと。
ここまで越えてきた二つの問いを示す言葉だった。
――『汝らは、ここへ至った。』
大樹の枝葉が一斉に揺れた。
朝日を受けた銀色の葉が、光の雨のように輝く。
――『最後の問いを受けよ。』
その言葉が響いた瞬間。
鏡の泉を満たしていた波紋が、ぴたりと止まった。
水面は再び、一枚の鏡へ戻る。
青空を映し。
銀緑の大樹を映し。
泉の前に立つ七人の姿を映している。
だが――。
「……?」
エレノアは小さな違和感を覚えた。
泉の中に映る自分たちが、
動いていない。
現実のガレスが辺りを見回しても、リアナが身構えても、シリルが警戒するように半歩前へ出ても。
水面に映る七人だけは、先ほどと同じ姿勢のまま、微動だにしていなかった。
「皆さん……。」
エレノアが思わず声を上げる。
「泉を見てください。」
全員の視線が、水面へ集まる。
オーウェンが息を呑んだ。
「映像が……止まっている。」
「違う。」
ガレスが低く言った。
「これは、今の俺たちを映しているのではない。」
その直後。
水面の中の七人が、一斉にこちらを向いた。
エレノアは思わず息を止める。
泉の中に映る自分が、ゆっくりと微笑んだ。
現実のエレノアは、笑っていない。
それなのに、水面の自分だけが、
静かな笑みを浮かべている。
背筋へ冷たいものが走った。
次の瞬間、鏡のようだった水面が、内側から砕けた。
無数の光の欠片が星屑のように宙へ舞い上がり、七人の周囲を激しく巡る。
白い霧が溢れ、瞬く間に庭園を覆い尽くした。
「下がれ!」
ガレスの鋭い声が飛ぶ。
シリルは即座にエレノアへ手を伸ばそうとした。
しかし。
一歩も動けなかった。
「……っ!」
足が動かない。
それだけではない。
腕も。
指先さえも。
何かに押さえつけられている感覚はない。
それなのに、身体は自分の意思を受けつけなかった。
手足の感覚はある。
呼吸もできる。
ただ、動こうとする命令だけが、身体へ届かない。
まるで庭園そのものに、今は動くなと静かに告げられているようだった。
――『恐れるな。』
穏やかな声が、白い霧の中へ響く。
――『これは、裁きではない。』
霧がさらに深くなる。
――『己の心を知るための刻である。』
その言葉とともに、七人の足元へ淡い光が灯った。
最初にガレスを。
次にクラウディアを。
オーウェンを。
リアナを。
アルヴィンを。
そして最後に。
シリルとエレノアを、それぞれ別の光が包んだ。
一人ずつを包んだ光は、やがて七つの光の膜となり、白い霧の中へ隔てていく。
「シリル様。」
エレノアは隣へ顔を向けた。
ほんの数歩先にいたはずのシリルが、急速に霞んでいく。
黒い髪も。
濃紺の隊服も。
深い青の瞳も。
輪郭だけを残し、霧の中へ溶けようとしていた。
「シリル様!」
今度は声を張る。
けれど、返事は聞こえない。
シリルもまた、こちらを見ていた。
普段は揺らぐことのない青い瞳に、隠しきれない焦りが浮かんでいる。
その唇が動いた。
何かを告げている。
だが、声だけが届かなかった。
ガレスも。
リアナも。
ほかの仲間たちも。
皆、少しずつ遠ざかっていく。
まるで一つだった世界が、七つに分かれていくようだった。
――『最も恐れるものと向き合え。』
声が、白い霧の奥から響く。
――『目を逸らさず、己の心を見つめよ。』
光が、ゆっくりと強くなる。
――『恐れを抱いたまま、なお一歩を踏み出せ。』
エレノアは無意識に息を吸った。
これから何が始まるのか。
自分が何を見せられるのか。
まだ何も分からない。
それでも本能だけが、ここから逃げろと激しく訴えていた。
光が視界を埋め尽くす。
大樹が消える。
鏡の泉が消える。
仲間たちの姿も、白い輝きへ溶けていく。
最後まで見えていたのは、シリルだった。
彼もまた光に包まれながら、必死にエレノアを見つめている。
その姿が完全に消えた瞬間。
エレノアの足元から、白い石畳が失われた。
どこか懐かしい石造りの部屋が、白い光の中からゆっくりと形を取り始める。
壁一面の本棚。
机の上へ積み重ねられた羊皮紙。
古いインクと、乾いた紙の匂い。
忘れるはずのない場所だった。
――父の書斎。
幼い頃から古代文字を学び続けた、小さな部屋。
エレノアは息を呑み、辺りを見回した。
「ここは……。」




