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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第三章

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37話 星鏡庭園②―見つめるもの―

37話 星鏡庭園②―見つめるもの―




「――『恐れぬことではない』」




エレノアが最後の一文字を読み上げた、その瞬間だった。


天へ伸びていた光の柱が、静かに脈打つ。


一度。


そして、もう一度。


まるで、この庭園そのものが鼓動を取り戻したかのようだった。


光の中を巡っていた古代文字が、ゆっくりと軌道を変える。


淡く輝く文字は七人の周囲を旋回したのち、吸い寄せられるように大樹の枝葉へ溶け込んでいった。


さらさら、と。


銀緑色の葉が一斉に鳴る。


朝の風は吹いていない。


それでも庭園にただ一本立つ巨樹だけが、長い眠りから目覚めたように枝を揺らしていた。


鏡の泉にも、中央から小さな波紋が生まれる。


一つ。


また一つ。


広がっては消え、消えては再び現れる。


まるで、目に見えない何者かが、水面へ何度も指先を触れているようだった。




「何が起きている……。」


オーウェンが低く呟く。


剣の柄へ手を添えているものの、斬るべき相手はどこにも見当たらない。


リアナも周囲へ鋭い視線を巡らせる。


「敵の気配はありません。ですが……。」


クラウディアが大樹を見上げた。


「何かが、私たちを見ているような……。」


その言葉を、誰も否定できなかった。


敵意ではない。


殺気でもない。


もっと静かで、もっと深い何か。


人ではない何かが、この場所へ辿り着いた七人を見つめている。


そんな感覚だった。


エレノアは、なおも黒い石板を見つめていた。


刻まれた文字は淡い光を放ち続けている。


けれど、先ほど読み上げたものに続く文章は、どこにも現れない。


代わりに。


鏡の泉の中央から、穏やかな声が響いた。


男とも女ともつかない。


若者とも老人とも分からない。


初めて聞くはずなのに、なぜか遠い昔から知っていたような、不思議な声だった。



――『知を得し者よ。』


――『力を携えし者よ。』



七人は自然と息を呑んだ。



――『共に歩みし者よ。』



ガレスが静かに目を細める。


知、力、そして、他者と共に歩むこと。


ここまで越えてきた二つの問いを示す言葉だった。



――『汝らは、ここへ至った。』



大樹の枝葉が一斉に揺れた。


朝日を受けた銀色の葉が、光の雨のように輝く。



――『最後の問いを受けよ。』





その言葉が響いた瞬間。


鏡の泉を満たしていた波紋が、ぴたりと止まった。


水面は再び、一枚の鏡へ戻る。


青空を映し。


銀緑の大樹を映し。


泉の前に立つ七人の姿を映している。


だが――。


「……?」


エレノアは小さな違和感を覚えた。


泉の中に映る自分たちが、


動いていない。


現実のガレスが辺りを見回しても、リアナが身構えても、シリルが警戒するように半歩前へ出ても。


水面に映る七人だけは、先ほどと同じ姿勢のまま、微動だにしていなかった。


「皆さん……。」


エレノアが思わず声を上げる。


「泉を見てください。」


全員の視線が、水面へ集まる。


オーウェンが息を呑んだ。


「映像が……止まっている。」


「違う。」


ガレスが低く言った。


「これは、今の俺たちを映しているのではない。」


その直後。


水面の中の七人が、一斉にこちらを向いた。


エレノアは思わず息を止める。


泉の中に映る自分が、ゆっくりと微笑んだ。


現実のエレノアは、笑っていない。


それなのに、水面の自分だけが、


静かな笑みを浮かべている。


背筋へ冷たいものが走った。


次の瞬間、鏡のようだった水面が、内側から砕けた。


無数の光の欠片が星屑のように宙へ舞い上がり、七人の周囲を激しく巡る。


白い霧が溢れ、瞬く間に庭園を覆い尽くした。


「下がれ!」


ガレスの鋭い声が飛ぶ。


シリルは即座にエレノアへ手を伸ばそうとした。


しかし。


一歩も動けなかった。


「……っ!」


足が動かない。


それだけではない。


腕も。


指先さえも。


何かに押さえつけられている感覚はない。


それなのに、身体は自分の意思を受けつけなかった。


手足の感覚はある。


呼吸もできる。


ただ、動こうとする命令だけが、身体へ届かない。


まるで庭園そのものに、今は動くなと静かに告げられているようだった。



――『恐れるな。』



穏やかな声が、白い霧の中へ響く。



――『これは、裁きではない。』



霧がさらに深くなる。



――『己の心を知るための刻である。』



その言葉とともに、七人の足元へ淡い光が灯った。


最初にガレスを。


次にクラウディアを。


オーウェンを。


リアナを。


アルヴィンを。


そして最後に。


シリルとエレノアを、それぞれ別の光が包んだ。


一人ずつを包んだ光は、やがて七つの光の膜となり、白い霧の中へ隔てていく。


「シリル様。」


エレノアは隣へ顔を向けた。


ほんの数歩先にいたはずのシリルが、急速に霞んでいく。


黒い髪も。


濃紺の隊服も。


深い青の瞳も。


輪郭だけを残し、霧の中へ溶けようとしていた。


「シリル様!」


今度は声を張る。


けれど、返事は聞こえない。


シリルもまた、こちらを見ていた。


普段は揺らぐことのない青い瞳に、隠しきれない焦りが浮かんでいる。


その唇が動いた。


何かを告げている。


だが、声だけが届かなかった。


ガレスも。


リアナも。


ほかの仲間たちも。


皆、少しずつ遠ざかっていく。


まるで一つだった世界が、七つに分かれていくようだった。



――『最も恐れるものと向き合え。』



声が、白い霧の奥から響く。



――『目を逸らさず、己の心を見つめよ。』



光が、ゆっくりと強くなる。



――『恐れを抱いたまま、なお一歩を踏み出せ。』



エレノアは無意識に息を吸った。


これから何が始まるのか。


自分が何を見せられるのか。


まだ何も分からない。


それでも本能だけが、ここから逃げろと激しく訴えていた。


光が視界を埋め尽くす。


大樹が消える。


鏡の泉が消える。


仲間たちの姿も、白い輝きへ溶けていく。


最後まで見えていたのは、シリルだった。


彼もまた光に包まれながら、必死にエレノアを見つめている。


その姿が完全に消えた瞬間。


エレノアの足元から、白い石畳が失われた。






どこか懐かしい石造りの部屋が、白い光の中からゆっくりと形を取り始める。


壁一面の本棚。


机の上へ積み重ねられた羊皮紙。


古いインクと、乾いた紙の匂い。


忘れるはずのない場所だった。


――父の書斎。


幼い頃から古代文字を学び続けた、小さな部屋。


エレノアは息を呑み、辺りを見回した。




「ここは……。」




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