36話 星鏡庭園①―目覚める石板―
36話 星鏡庭園①―目覚める石板―
夜明け前の空には、まだ深い群青が残っている。
昨夜の焚き火は、赤い熾火を残すのみとなっていた。
夜露に濡れた白い石畳が、仄かな光を返している。
一行は昨夜、二つ目の試練が行われた広場まで引き返し、そこで夜を明かした。
星鏡庭園では、まだ何が起こるか分からない。
対して、すでに越えた試練が再び作動する兆しはなく、少なくとも未知の庭園内よりは、この広場の方が安全だと判断したのだ。
◇
エレノアは毛布を丁寧に畳むと、小さく息を吐いた。
ほとんど眠れなかった。
身体は疲れているはずなのに、目を閉じるたびに脳裏へ浮かんだのは、あの庭園だった。
夜空を映す、鏡のような泉。
天を覆うほど枝を広げた大樹。
そして、その根元に置かれていた黒曜石のような台座。
昨夜、石板の姿は見つけられなかった。
けれど、あの場所には確かに何かがあった。
数千年ものあいだ、訪れる者を待ち続けてきたような、不思議な気配が胸の奥へ残っている。
「起きたのか」
低い声に振り返る。
すでに装備を整えたシリルが、焚き火へ薪を一本くべていた。
小さな炎が立ち上がり、端整な横顔を橙色に照らす。
「おはようございます、シリル様」
「ああ」
短い返事をしたあと、青い瞳がエレノアの顔へ向けられる。
ほんの数秒見つめ、シリルは僅かに眉を寄せた。
「眠れなかったか」
「……少しだけです」
「緊張しているな」
問いかけではなかった。
隠しても無駄だと悟り、エレノアは困ったように笑う。
「分かりますか?」
「顔色を見れば分かる」
それ以上、理由を尋ねることはなかった。
必要以上に踏み込まない。
けれど、気づかないふりもしない。
それがシリルらしかった。
エレノアは、そんな彼の距離感へ小さな安堵を覚える。
昨日、橋を渡ったときもそうだった。
不安をすべて言葉にしなくても、彼は手を差し伸べてくれた。
離さないと、迷いなく告げてくれた。
けれど、それは彼にとって、護衛として当然のことなのだろう。
そう思うと、これ以上心配をかけてはいけない気がした。
「大丈夫です」
エレノアは自分へ言い聞かせるように答えた。
「今日はきちんと、石板を見つけます」
シリルはしばらく彼女を見つめていたが、やがて短く頷いた。
「ああ」
それだけで、不思議と心が落ち着いた。
やがて他の者たちも起き出し、出発の準備が始まった。
ガレスは地図と周辺の地形を照らし合わせ、リアナとオーウェンは装備を確認している。
クラウディアは携行食を人数分に分け、アルヴィンは昨夜書き留めた碑文をもう一度読み返していた。
穏やかな朝に見える。
だが、誰の表情にも、これから向かう場所への緊張が浮かんでいた。
「朝食を済ませ次第、出発する」
ガレスが一同を見回す。
「昨日確認した星鏡庭園を調査する。第三の石板の発見と回収が第一目標だ。だが、未知の仕掛けが残っている可能性は高い。決して独断で動くな」
「承知しました」
返事が重なる。
エレノアも静かに頷いた。
今日こそ、勇気の石板へ辿り着けるかもしれない。
期待と緊張が入り混じり、胸の鼓動が少しだけ速くなった。
◇
朝日が山の稜線から姿を現す頃、一行は再び星鏡庭園へ向かって歩き始めた。
白い回廊は朝の光を受け、眩しいほどに輝いている。
左右の水路には澄み切った水が流れ、小さなせせらぎが一行の足音へ重なっていた。
昨日は夕闇に包まれていたため見えなかった細部が、朝の光の中で次々と姿を現す。
「……このような模様だったのですね」
エレノアは思わず歩みを緩めた。
白い石畳の全面へ、小さな星形の紋様が刻まれている。
近くでは規則なく散らばっているように見えたが、少し離れて眺めると、一つの大きな星図を形作っていた。
「星座でしょうか」
アルヴィンも足を止め、眼鏡の奥から目を凝らす。
「少なくとも、現在知られている星座の配置とは異なりますね」
「古代ヴァレシア独自の星図かもしれません」
エレノアは膝を折り、紋様を詳しく確かめた。
星と星を結ぶ細い線。
その一部は石畳の両側にある水路へ繋がり、水が星の軌跡をなぞるように流れている。
なんと美しい発想だろう。
石と水によって、地上へ夜空を描いているのだ。
「後ほど記録する」
ガレスが静かに告げる。
「今は先を優先するぞ。」
「はい」
名残惜しさを覚えながら、エレノアは立ち上がった。
やがて、回廊の終わりに立つ二本の巨大な柱が見えてくる。
昨日、夕闇の中で見たものと同じ白い柱。
その向こうには薄い霧が漂い、庭園を外界から隔てていた。
まるで、現世と古の時代を分かつ門のようだった。
ガレスを先頭に、一行は慎重に柱のあいだを抜ける。
その瞬間。
誰もが、言葉を失った。
朝の星鏡庭園は、昨夜とはまるで異なる表情を見せていた。
幾何学模様を描く水路は朝日を受け、銀色の糸のように庭園全体を巡っている。
白い石畳には一点の汚れもなく、数千年もの歳月を経た場所とは思えない。
庭園の中には草花も、低木もない。
ただ中央に立つ一本の巨樹だけが、天を覆うように枝葉を広げていた。
銀緑色の葉には朝露が宿り、一枚一枚が宝石のように輝いている。
そして、その根元。
昨夜は何も載っていなかったはずの黒い台座の上に――。
一枚の黒い石板が、横たえられていた。
「……石板が」
エレノアが息を呑む。
「……あれが、三枚目の石板」
アルヴィンの声が震える。
エレノアも、ほとんど囁くように告げた。
「勇気の石板です」
遥か昔。
古代ヴァレシアの時代にも、王や将軍、高官たちがこの場所まで辿り着き、同じ石板の前へ立ったのだろう。
力だけでは国を守れない。
知だけでも守れない。
他者へ手を伸ばし、支えられることを受け入れた者だけが、この庭園へ導かれる。
そして最後に、自らの心と向き合う。
その意味を思うと、エレノアの背筋は自然と伸びた
「ですが、昨夜は、確かになかったはずです」
「ああ」
ガレスが低く答える。
全員が大樹の根元を確認している。
台座だけでなく、その周囲まで確かめた。
見落としたとは考えにくい。
そのとき、大樹の葉の隙間から一筋の朝日が差し込んだ。
光は幹の表面へ刻まれた細い溝を伝い、黒い台座へ真っ直ぐ落ちている。
アルヴィンが目を見開いた。
「夜明けの光によって、石板を覆っていた仕掛けが解かれたのでしょうか」
回廊の入口も、夕陽が正しい位置へ届かなければ開かなかった。
この庭園にもまた、定められた時にだけ石板を示す仕掛けがあるのかもしれない。
けれど、本当に夜明けの光だけが条件だったのだろうか。
昨夜、庭園の入口へ辿り着いた時には、確かに何もなかった。
まるで庭園そのものが、一晩をかけて訪れた者たちを見定めたようにも思えた。
「石板が現れる時刻まで、定められていたのでしょうか……」
エレノアは黒い石板を見つめた。
「警戒」
ガレスの声に、全員が我へ返る。
リアナとオーウェンは左右へ展開し、水路と石畳の状態を確かめる。
クラウディアは後方と大樹の枝のあいだへ視線を巡らせた。
シリルは何も言わず、エレノアの半歩前へ立つ。
王城を出てから、決して変わらない。
危険があれば真っ先に自分が受ける位置。
エレノアはその背中を見つめ、小さく息を吸った。
「進むぞ」
ガレスの合図で、一行は黒い台座へ向かう。
近づくにつれ、周囲の空気が僅かに冷たくなっていった。
肌を刺すような冷気ではない。
澄み切った泉の水へ手を浸したときのような、清らかな冷たさだった。
台座の前まで来ると、石板の表面がはっきり見える。
黒曜石を思わせる深い黒。
光を吸い込むような表面には、これまでの二枚よりさらに細かな古代文字が刻まれていた。
輪郭は鮮明で、まるで昨日刻まれたばかりのようだった。
エレノアは文字の並びを目で追う。
「読めます」
ガレスが頷く。
「頼む」
すぐに近づくことはしない。
まずシリルが台座の周囲を調べ、石畳の継ぎ目や大樹の根元に異常がないことを確認する。
やがて、彼はエレノアへ視線を向けた。
「いい」
「ありがとうございます」
エレノアは台座の前へ進んだ。
まだ石板には触れず、最初の文字へ目を凝らす。
けれど、刻みがあまりにも細かい。
光の加減によって、一部が読み取りにくかった。
「もう少し近くで確認します」
エレノアは慎重に身を屈めた。
だが、刻みは浅く、朝日の反射によって細部が見えにくい。
「縁へ触れてもよろしいでしょうか」
ガレスがシリルへ確認の視線を向ける。
台座の周囲を確かめていたシリルは、石板から目を離さずに答えた。
「目立った仕掛けはありません」
その報告を受け、ガレスが頷いた。
「触れていい。ただし、異変があればすぐに離れるんだ」
「はい」
エレノアは石板の縁へ、そっと指先を添えた。
冷たい。
まるで深い水底へ沈んでいた石へ触れたような冷たさが、指先から腕へ伝わってくる。
けれど、手を離すほどではない。
エレノアは最初の一文字へ意識を向けた。
その瞬間だった。
石板の内部で、淡い青い光が脈打った。
「……!」
エレノアが目を見開く。
一文字。
また一文字。
刻まれた文字が順番に目覚めるように、淡い光を宿していく。
これまでの石板も、解読や試練の達成に応じて光を宿した。
だが、今の反応は明らかに違う。
文字そのものが、ゆっくりと呼吸しているようだった。
――ゴォ……
地の底から、低い振動が響く。
黒い台座が僅かに震え、大樹の根元へ刻まれていた紋様に青い光が走った。
光は幹を伝い、太い枝の一本一本へ広がっていく。
銀色の葉が一斉に揺れた。
風は吹いていない。
それでも大樹は、長い眠りから目覚めたように葉を鳴らしている。
鏡の泉へ、一つの波紋が生まれた。
今までどれほど風を受けても揺れなかった水面が、中央からゆっくりと動き始める。
一つ。
二つ。
波紋は幾重にも重なり、泉全体へ広がっていった。
水路を流れていた水が淡く輝き、庭園のすべての流れが鏡の泉へ集まっていく。
やがて、黒い石板全体が眩い白の光に包まれた。
その直後。
泉の中央から、一筋の光が天へ立ち上った。
朝日よりも柔らかく。
月明かりよりも澄んだ、青白い光。
天へ伸びた光の柱は、次第に庭園全体を包み込んでいく。
その中へ、無数の古代文字が浮かび上がった。
文字はゆっくりと光の柱を巡りながら、一つの文章を形作っていく。
「読めます……」
エレノアは息を吸った。
そして導かれるように、その言葉を読み上げる。
「――『勇気とは』」
光がさらに強くなる。
水音が消えた。
大樹の葉音も。
遠くで鳴いていた鳥の声さえ、途絶える。
まるで庭園のすべてが、エレノアの声へ耳を傾けているようだった。
「『恐れぬことではない』」
その言葉が紡がれた瞬間――。
泉の中央から、誰のものとも知れぬ穏やかな声が響き渡った。
まるで数千年の時を越え、この場所そのものが語りかけてくるように。
そして。
勇気を問う最後の試練が、静かに幕を開けた。




