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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第三章

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35話 誓約の回廊⑥―鏡の泉が映すもの―

35話 誓約の回廊⑥―鏡の泉が映すもの―




一行は二つ目の試練が行われた広場まで戻り、そこで夜を明かすことにした。


回廊の入口に残した補給部隊から天幕や食料を受け取るため、オーウェンとクラウディアが来た道を引き返していく。


試練を越えたあとの白い橋は、広い道となったまま残されていた。


先ほどまでのように輪郭が揺らぐこともなく、今は確かな白い石の道として水面の上へ架かっている。


一行を、試練を越えた者として認めたのだろう。


ガレスとリアナは野営地の周囲を確認し、アルヴィンは今日発見した碑文を記録帳へ書き留めていた。


エレノアも手伝おうと立ち上がりかけたが、その前へシリルが立つ。


「座っていろ。」


「まだ疲れてはいませんよ。」


「顔色が悪い。」


「橋を渡るときに緊張していただけです。少し休めば――」


「座れ。」


反論を許さない低い声だった。


エレノアは困ったように眉を下げたものの、素直に石畳へ腰を下ろした。


濃紺の外套が、夜気と石畳の冷たさを和らげてくれる。


シリルはそのすぐそばへ立ち、周囲の回廊へ視線を巡らせていた。


「シリル様は、お疲れではありませんか?」


「問題ない。」


「ずっと周囲を警戒していらっしゃったでしょう。」


「護衛中だ。」


「ですが、すぐそばにいれば、座っていても護衛はできます。」


シリルは答えなかった。


そこでエレノアは、自分の隣の石畳へそっと手を置いた。


「こちらへどうぞ。」


「……。」


「私ばかり休むのは、落ち着きません。」


その言葉に、シリルはわずかに目を細めた。


しばらく広場の様子を確かめたあと、ようやくエレノアの隣へ腰を下ろす。





二人の頭上には、満天の星空が広がっていた。


夜が深まるにつれ、星の数も増えていく。


「不思議ですね。」


エレノアが小さく呟く。


「何がだ。」


「三千年前の人々も、この場所から同じ星を見ていたのだと思うと。」


時代も、国も違う。


古代ヴァレシア王国は滅び、その地には今、リーヴェル王国が築かれている。


人も、建物も、言葉さえ変わった。


それでも夜空の星だけは、変わらずこの場所を照らしてきたのだろう。


「……お父様がこの景色をご覧になったら、どれほど喜ばれたでしょう。」


穏やかな声だった。


けれど、その奥には僅かな寂しさが混じっていた。


父の体調では、この山道を登り、長い回廊を進むことは難しい。


シリルは空を見たまま、短く答えた。


「見せればいい。」


エレノアは隣を見る。


「お父様をここへお連れするのは、難しいと思います。」


「景色を記録しろ。」


シリルが続ける。


「見たものを、君の言葉で伝えればいい。」


「私の言葉で……。」


「ああ。」


エレノアは再び回廊と空へ目を向けた。


父ローレンスは、古代文字を学ぶ楽しさを教えてくれた。


知識は、誰にも奪うことのできない宝だと教えてくれた。


自分がこの場所にいるのは、父が古い書物を手放さず、幼い自分へ一文字ずつ読み方を伝えてくれたからだ。


「そうですね。」


エレノアの表情に、柔らかな笑みが戻る。


「許される日が来たら、すべてお話ししたいです。地下神殿のことも、知恵の祠のことも、この回廊や星鏡庭園のことも。」


「ああ。」


「それから、シリル様のことも。」


シリルが静かに彼女を見た。


「俺の何を話す。」


「何度も助けていただいたことです。」


エレノアは少しだけ不思議そうに彼を見返した。


「シリル様がいなければ、私はここまで来られませんでしたから。」


「当然のことをしただけだ。」


「私にとっては、当然ではありません。」


エレノアはゆっくりと首を横へ振った。


「怖いときに手を握っていただけたことも。」


橋の上で聞いた言葉を思い出す。


「離さないと、言ってくださったことも。」


その言葉に、シリルの喉がわずかに動いた。


「とても心強かったです。」


エレノアはその僅かな変化には気づかず、星空へ視線を戻した。


「お父様にも、お母様にもお伝えしたいです。」


「……何を。」


「シリル様は、心から信頼できる方だと。」


シリルは、すぐには答えなかった。


敵を前にしても揺らがない青い瞳が、今はエレノアの横顔へ向けられている。


「……そうか。」


返されたのは、いつもと同じ短い言葉だけだった。


けれどエレノアには、その声がほんの少しだけ温かく聞こえた。









そのころ、星鏡庭園では星明かりが鏡の泉へ降り注いでいた。


庭園の中央に立つ大樹の葉が、風もないのに微かに揺れる。


さらり、と。


銀色の葉が触れ合う音が、静かな夜へ溶けていった。





鏡のように凪いでいた泉の中央へ、一滴の水が落ちた。


誰も触れていない。


空から雨が降ったわけでもない。


それでも小さな波紋は、一つ。


また一つと広がり、泉全体を覆っていく。




澄んだ水面から、星空が消えた。


代わりに映し出されたのは、白い石畳だった。


その上に、一人の女性が倒れている。


蜂蜜色の長い髪が、白い石の上へ力なく広がっていた。


その身体を、濃紺の騎士装を纏った黒髪の騎士が抱き締めている。


騎士は何かを叫んでいた。


けれど声は届かない。


深い絶望に染まった青い瞳だけが、あまりにも鮮明に映っていた。





次の瞬間。


新たな波紋が映像を砕いた。


すべてが水の揺らぎへ溶け、泉には何事もなかったかのように星空が戻る。



星鏡庭園は静かに、訪れた者たちの心を映し始めていた。



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