35話 誓約の回廊⑥―鏡の泉が映すもの―
35話 誓約の回廊⑥―鏡の泉が映すもの―
一行は二つ目の試練が行われた広場まで戻り、そこで夜を明かすことにした。
回廊の入口に残した補給部隊から天幕や食料を受け取るため、オーウェンとクラウディアが来た道を引き返していく。
試練を越えたあとの白い橋は、広い道となったまま残されていた。
先ほどまでのように輪郭が揺らぐこともなく、今は確かな白い石の道として水面の上へ架かっている。
一行を、試練を越えた者として認めたのだろう。
ガレスとリアナは野営地の周囲を確認し、アルヴィンは今日発見した碑文を記録帳へ書き留めていた。
エレノアも手伝おうと立ち上がりかけたが、その前へシリルが立つ。
「座っていろ。」
「まだ疲れてはいませんよ。」
「顔色が悪い。」
「橋を渡るときに緊張していただけです。少し休めば――」
「座れ。」
反論を許さない低い声だった。
エレノアは困ったように眉を下げたものの、素直に石畳へ腰を下ろした。
濃紺の外套が、夜気と石畳の冷たさを和らげてくれる。
シリルはそのすぐそばへ立ち、周囲の回廊へ視線を巡らせていた。
「シリル様は、お疲れではありませんか?」
「問題ない。」
「ずっと周囲を警戒していらっしゃったでしょう。」
「護衛中だ。」
「ですが、すぐそばにいれば、座っていても護衛はできます。」
シリルは答えなかった。
そこでエレノアは、自分の隣の石畳へそっと手を置いた。
「こちらへどうぞ。」
「……。」
「私ばかり休むのは、落ち着きません。」
その言葉に、シリルはわずかに目を細めた。
しばらく広場の様子を確かめたあと、ようやくエレノアの隣へ腰を下ろす。
二人の頭上には、満天の星空が広がっていた。
夜が深まるにつれ、星の数も増えていく。
「不思議ですね。」
エレノアが小さく呟く。
「何がだ。」
「三千年前の人々も、この場所から同じ星を見ていたのだと思うと。」
時代も、国も違う。
古代ヴァレシア王国は滅び、その地には今、リーヴェル王国が築かれている。
人も、建物も、言葉さえ変わった。
それでも夜空の星だけは、変わらずこの場所を照らしてきたのだろう。
「……お父様がこの景色をご覧になったら、どれほど喜ばれたでしょう。」
穏やかな声だった。
けれど、その奥には僅かな寂しさが混じっていた。
父の体調では、この山道を登り、長い回廊を進むことは難しい。
シリルは空を見たまま、短く答えた。
「見せればいい。」
エレノアは隣を見る。
「お父様をここへお連れするのは、難しいと思います。」
「景色を記録しろ。」
シリルが続ける。
「見たものを、君の言葉で伝えればいい。」
「私の言葉で……。」
「ああ。」
エレノアは再び回廊と空へ目を向けた。
父ローレンスは、古代文字を学ぶ楽しさを教えてくれた。
知識は、誰にも奪うことのできない宝だと教えてくれた。
自分がこの場所にいるのは、父が古い書物を手放さず、幼い自分へ一文字ずつ読み方を伝えてくれたからだ。
「そうですね。」
エレノアの表情に、柔らかな笑みが戻る。
「許される日が来たら、すべてお話ししたいです。地下神殿のことも、知恵の祠のことも、この回廊や星鏡庭園のことも。」
「ああ。」
「それから、シリル様のことも。」
シリルが静かに彼女を見た。
「俺の何を話す。」
「何度も助けていただいたことです。」
エレノアは少しだけ不思議そうに彼を見返した。
「シリル様がいなければ、私はここまで来られませんでしたから。」
「当然のことをしただけだ。」
「私にとっては、当然ではありません。」
エレノアはゆっくりと首を横へ振った。
「怖いときに手を握っていただけたことも。」
橋の上で聞いた言葉を思い出す。
「離さないと、言ってくださったことも。」
その言葉に、シリルの喉がわずかに動いた。
「とても心強かったです。」
エレノアはその僅かな変化には気づかず、星空へ視線を戻した。
「お父様にも、お母様にもお伝えしたいです。」
「……何を。」
「シリル様は、心から信頼できる方だと。」
シリルは、すぐには答えなかった。
敵を前にしても揺らがない青い瞳が、今はエレノアの横顔へ向けられている。
「……そうか。」
返されたのは、いつもと同じ短い言葉だけだった。
けれどエレノアには、その声がほんの少しだけ温かく聞こえた。
◇
そのころ、星鏡庭園では星明かりが鏡の泉へ降り注いでいた。
庭園の中央に立つ大樹の葉が、風もないのに微かに揺れる。
さらり、と。
銀色の葉が触れ合う音が、静かな夜へ溶けていった。
鏡のように凪いでいた泉の中央へ、一滴の水が落ちた。
誰も触れていない。
空から雨が降ったわけでもない。
それでも小さな波紋は、一つ。
また一つと広がり、泉全体を覆っていく。
澄んだ水面から、星空が消えた。
代わりに映し出されたのは、白い石畳だった。
その上に、一人の女性が倒れている。
蜂蜜色の長い髪が、白い石の上へ力なく広がっていた。
その身体を、濃紺の騎士装を纏った黒髪の騎士が抱き締めている。
騎士は何かを叫んでいた。
けれど声は届かない。
深い絶望に染まった青い瞳だけが、あまりにも鮮明に映っていた。
次の瞬間。
新たな波紋が映像を砕いた。
すべてが水の揺らぎへ溶け、泉には何事もなかったかのように星空が戻る。
星鏡庭園は静かに、訪れた者たちの心を映し始めていた。




