34話 誓約の回廊⑤―心へ至る門―
34話 誓約の回廊⑤―心へ至る門―
最後に橋へ進んだのは、ガレスとアルヴィンだった。
騎士ではないアルヴィンは、欄干のない橋と、その下に広がる深い水を前に緊張を隠せずにいた。
だが、ガレスは急かさなかった。
互いの腰へ縄を結び、アルヴィンの歩調に合わせて、一歩ずつ白い橋を進んでいく。
やがて淡い霧が立ち上り、二人の姿を包み込んだ。
再び二人の姿が現れた時。
ガレスはアルヴィンの腕を確かに支え、アルヴィンもまた、隣を歩くガレスを信じて足を進めていた。
最後の一歩を踏み出す。
二人の靴が対岸の白い石畳へ乗った、その瞬間だった。
広場を囲む柱の彫刻へ、透明な水が流れ込んだ。
刻まれた人々の腕を。
差し出された手を。
互いに重ねられた掌をなぞるように、水が幾筋も走っていく。
橋の両端から淡い光が立ち上った。
二本の光は橋の上空へ弧を描き、頭上で一つに重なる。
それに応えるように、エレノアたちの傍らに立つ石碑へ、新たな文字が浮かび上がった。
全員の視線が集まる中。
エレノアは、一文字ずつ確かめながら読み上げた。
白い回廊へ、静かな声が響いていく。
「『独りで立つことを、強さと呼ぶな』」
「『民を背負う者は、民に支えられる者でもある』」
「『手を取り、弱さを預け、共に進む者に道を開く』」
読み終えた直後、橋の下の暗い水面が大きく揺れた。
深い青の水は、内側から光を宿したように少しずつ明るさを取り戻した。
それまで何も映していなかった水面へ、暮れかけた夕空が現れる。
茜色の雲。
紫へ移り変わる空。
広場を囲む白い柱。
すべてが、水鏡の中へ鮮明に映し出されていた。
続いて、白い橋が低い音を立てる。
細かった橋面が、両側へゆっくりと広がり始めた。
人一人が通るのがやっとだった橋は、やがて三人が並んで歩けるほどの幅を持つ、確かな道へ変わっていく。
もう、その輪郭が揺らぐことはなかった。
「一人で何でもできる者を求めていたわけではないのですね。」
エレノアは石碑を見つめながら呟いた。
「むしろ、自らの弱さを認め、他者へ手を伸ばせる者を求めていたのでしょう。」
アルヴィンが記録帳へ碑文を書き写す。
「力や立場を持つ者ほど、自分の判断だけを正しいと思い込みやすい。他者を頼れない指導者は、過ちを諫める者さえ遠ざけてしまいます。」
ガレスは、夕空を映し始めた水面へ視線を落とした。
「国を背負う者だからこそ、自分一人の力だけでは国を支えきれないと知れ、ということか。」
「それを認めることもまた、勇気なのでしょう。」
エレノアの言葉に、誰も反論しなかった。
助けを求めること。
差し出された手を受け入れること。
自分の弱さを認めること。
それらは、剣を持って敵へ立ち向かう勇ましさとは異なる。
けれど時に。
誰かを信じて身を委ねることは、一人で戦い続けることよりも難しい。
エレノアは、自分の右手へ目を落とした。
つい先ほどまで、シリルの手を握っていた。
掌には、まだ彼の温度が残っているような気がした。
「手が痛むのか。」
すぐに気づいたシリルが尋ねる。
「いいえ。何でもありません。」
エレノアは慌てて手を下ろした。
「そうか。」
シリルの視線はしばらく彼女の手元に残っていたが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、彼は自分の外套を外し、エレノアへ向かって差し出す。
「シリル様?」
「冷えてきた。」
言われて初めて、日が落ちかけていることに気づいた。
山の上の空気は、太陽が傾くと急速に冷たくなる。
先ほど霧の中を進んだせいか、エレノアのクリーム色の外套の裾は、わずかに湿っていた。
「ですが、シリル様が寒くなってしまいます。」
「俺は平気だ。」
「先ほども申し上げました。シリル様もご自分を大切にしてください。」
外套を受け取らずにいると、シリルは彼女をじっと見た。
「なら、これを着ろ。」
「話が繋がっていません。」
「君が体調を崩せば、俺が困る。」
エレノアは目を瞬いた。
護衛対象である自分が体調を崩せば、彼の任務へ余計な負担をかける。
そういう意味なのだろう。
「……それなら、お借りします。」
ようやく頷くと、シリルは彼女の肩へ外套をかけた。
長身の彼に合わせて作られた濃紺の外套は、エレノアには大きすぎる。
裾は足首近くまで届き、肩も余っていた。
それでも、厚い布へ包まれると、冷え始めていた身体から少しずつ震えが消えていく。
外套には、乾いた革と石鹸、それに清涼な木の香りが微かに残っていた。
シリルの傍にいるときと、同じ香りだった。
そのことへ気づいた途端、外套に包まれているだけなのに、彼の腕の中へ守られているような気がしてしまう。
エレノアは落ち着かない胸を隠すように、外套の前をそっと合わせた。
「暖かいです。」
「ああ。」
「ありがとうございます。」
エレノアが外套の前を小さな手で合わせる。
その姿を見たシリルの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「その外套も似合っているな。」
オーウェンが何気なく口にする。
その瞬間、シリルの視線が、静かに彼へ向けられた。
「……何だよ。外套が、だぞ。」
「聞いている。」
「なら、その目をやめろ。」
短い言葉を返され、オーウェンは呆れたように両手を上げた。
ガレスが軽く咳払いをする。
「先へ進むぞ。暗くなる前に回廊の先を確認する。」
全員が表情を引き締め、再び隊列を整えた。
◇
二つ目の問いを越えた先の回廊は、それまでとは少し様子が違っていた。
白い柱の間隔が徐々に広がり、左右の水路は複雑に枝分かれしている。
細い水路が石畳を横切り、幾何学模様を描きながら前方へ流れていた。
足元にも変化があった。
白い石畳へ、小さな星を象った意匠が刻まれている。
一つ。
二つ。
先へ進むほど数を増し、やがて足元全体が星空のような模様に覆われた。
空はすでに薄暗い。
西の端にわずかな茜色を残し、東から深い群青が広がっている。
頭上には、本物の星も一つずつ姿を現し始めていた。
白い石畳に刻まれた星。
水路へ映る星。
空に輝く星。
三つの星空の間を歩いているかのような空間。
「この先に、何かあります。」
リアナがそう言うと、先頭のガレスが足を止めた。
回廊の終わり。
そこには、二本の巨大な白い柱が立っていた。
柱と柱の間には扉も壁もない。
けれど、その先だけが薄い霧に覆われている。
水路は柱の間を通り抜け、霧の向こうへ流れていた。
エレノアが近づくと、柱の内側へ古代文字が刻まれていることに気づいた。
「碑文があります。」
シリルが先に周囲を確かめてから、エレノアを柱の前へ通す。
文字は左右の柱へ分けて記されていた。
右の柱。
左の柱。
二つを合わせ、一つの文章になる。
エレノアは静かに読み上げた。
「『力と知を携えし者よ』」
「『他者の手を取りし者よ』」
「『この先にて、自らの心を映せ』」
最後の文字を読み終える。
風が止んだ。
柱の向こうに漂っていた霧が、ゆっくりと左右へ分かれていく。
少しずつ現れた景色に、誰もが言葉を失った。
回廊の先には、広大な庭園が広がっていた。
白い石畳と澄んだ水路が、複雑な幾何学模様を描いている。
幾重にも枝分かれした水は庭園全体を巡り、夜空の星を映しながら中央へ集まっていた。
その中心にあるのは、鏡のように静かな大きな泉。
風が吹いているにもかかわらず、水面には波紋一つない。
空に浮かぶ星々を、そのまま地上へ写し取ったようだった。
泉の奥には、一本の大樹が立っている。
幹は、数人で手を繋いでも囲みきれないほど太い。
枝は天を覆うように広がり、青白い月明かりを受けた葉が銀色に輝いていた。
一体、どれほどの年月をここで生き続けてきたのだろう。
白と青で満たされた庭園の中で、その木だけが確かな生命の色を宿していた。
庭園の入口に立つ小さな石碑に、古代文字が刻まれている。
「……『星鏡庭園』」
エレノアの唇から、感嘆したような言葉がこぼれた。
――星鏡庭園
ヴァレシア王国の時代には、王や将軍、高官たちが二つの問いを越え、この場所で自らの心と向き合ったのかもしれない。
そして大樹の前で、民を守ると誓ったのだろう。
アルヴィンは声もなく景色を見つめていた。
やがて震える手で眼鏡を外し、目元を布でそっと拭う。
「この光景を……三千年前の人々も見ていたのでしょうか。」
「……おそらく。」
エレノアは泉に映る星空を見つめる。
王となる者も。
将軍も。
高官も。
この回廊を歩き、あの泉の前へ立ったのだろう。
見たことはないはずなのに、その情景が自然と心へ浮かんだ。
ガレスは庭園全体を慎重に見渡した。
「黒い石板は見えるか。」
大樹の根元には、黒曜石のような黒い石で造られた低い台座があった。
しかし、その上に黒い石板はない。
「いいえ。」
エレノアは目を凝らした。
「ですが、大樹の根元に古代文字らしきものがあります。近づかなければ読めません。」
そう告げ、庭園へ一歩踏み出そうとする。
その腕を、シリルが掴んだ。
「今日はここまでだ。」
「でも、石板がすぐ近くにあるかもしれません。」
「暗い。」
短い言葉だった。
だが、反論を許さない響きがある。
庭園の内部を確認していたオーウェンも頷いた。
「この先にも何か装置がある。二つの試練を越えて疲労した直後に、準備もなく入るべきではないな。」
ガレスも頷いた。
「シリルたちの言う通りだ。全員、疲労している。ここで判断を誤れば、回廊を越えた意味がなくなるかもしれん。」
エレノアは大樹を見つめた。
第三の石板。
勇気の石板が、あの場所に眠っているかもしれない。
今すぐ確かめたいという思いは強い。
それでも、自分たちが越えたばかりの試練を思い出した。
一人で抱え込まないこと。
自分の考えだけを正しいと思わないこと。
「……分かりました。」
エレノアは素直に頷いた。
先ほど越えた試練が教えていた。
自分一人の思いだけで進むことが、勇気なのではない。
仲間の判断を信じ、ときには立ち止まることも必要なのだ。
ガレスが庭園の入口と周囲の地形を見比べる。
「今夜は二つ目の広場まで戻って休む。見張りを立て、夜明けとともにここへ戻るぞ。」
「承知しました。」
一行が来た道へ向き直る。
エレノアはもう一度、星鏡庭園を振り返った。
鏡のような泉。
銀色の葉を揺らす大樹。
そして、その根元に刻まれた、まだ読むことのできない古代文字。
第三の石板は、きっとあの先にある。
けれど今は、皆とともに立ち止まる。
それもまた、この回廊を歩いたことで得た答えなのだと思えた。
(続く)




