33話 誓約の回廊④―離さない―
第33話 誓約の回廊④―離さない―
シリルとエレノアは、一本の縄で互いの腰を繋いだ。
それとは別に、シリルの腰にはもう一本の命綱が結ばれている。
反対側の端は橋の入口に立つ白い柱へ括り付けられ、その先をガレスたちがしっかりと握っていた。
二人は橋の入口へ立った。
シリルが先頭に立ち、エレノアがそのすぐ後ろへ続く。
「俺が先を歩く。」
「はい。」
二人の間隔は、一歩ほど。
背後のエレノアへいつでも手が届くよう、シリルは僅かに顔を横へ向けたまま、橋へ最初の一歩を踏み出した。
白い橋面へ靴底が触れる。
続いてエレノアも、腰を繋ぐ縄が張りすぎないよう注意しながら、橋へ足を乗せた。
二人が橋の上へ立っても、何も起こらない。
「……今度は大丈夫そうですね。」
エレノアが小さく息をついた、その時だった。
先ほどと同じように、地の底から巨大な鐘を鳴らしたような音が響いた。
――ゴォン。
足元の白い石が、ふっと霞むように揺らいだ。
「……!」
「止まれ。」
シリルが即座に歩みを止める。
橋は消えてはいない。
だが、その輪郭は先ほどオーウェンが渡った時と同じように、不安定に揺らぎ始めていた。
「二人で渡るだけでは違うようですね。」
エレノアは周囲へ視線を巡らせた。
その時、円柱へ刻まれた彫刻が目に入る。
手を取り合う人々。
倒れそうな者を支える人。
背中を預け合い、互いを守る姿。
エレノアは、はっと息を呑んだ。
「……そういうことだったのですね。」
「エレノア嬢?」
「どの彫刻も、ただ二人並んでいるだけではありません。」
エレノアは橋を見つめたまま静かに言う。
「互いに触れ、支え合っています。」
「この問いが求めているのは、『二人いること』だけではなく、『互いを支え合うこと』なのでしょう。」
シリルは彫刻を一瞥すると、橋の上で慎重に半身を返した。
そして、エレノアへ左手を差し出す。
「……行こう。」
エレノアは差し出された手を見つめた。
大きく、剣を握り続けてきた騎士の手。
「……はい」
おずおずと自分の手を重ねる。
革手袋ごしでも分かる、剣を握り続けてできた硬い皮膚が触れた。
けれど、その手は驚くほど慎重に、エレノアの手を包み込んだ。
痛みを与えないように。
それでいて、決して逃がさないように。
「手を離すな。」
「はい。」
その瞬間。
橋全体に刻まれていた古代文字が、淡い蒼白の光を放った。
「光った……。」
リアナが息を呑む。
揺らいでいた橋は静かに輪郭を取り戻し、白い石は再び確かな実体を宿した。
エレノアは思わずシリルを見上げる。
シリルは繋いだ手を離さぬまま、小さく頷いた。
その瞬間だった。
暗い水面の下から、淡い光が一つずつ浮かび上がった。
小さな星のような光が、一つ。
また一つ。
二人の足元を囲むように、深い青の中へ灯っていく。
「……綺麗。」
思わず零れた声に、シリルはすぐさま振り返った。
「下を見るな。」
シリルの鋭い声が飛ぶ。
「足元だけを見ろ。」
有無を言わせない声音だった。
橋には欄干がない。
水面の光へ気を取られれば、足を踏み外しかねない。
エレノアは名残惜しく思いながらも、シリルの濃紺の背と、足元の白い橋だけを見ることにした。
二人が進むたび、水中へ新たな光が灯っていく。
先ほどオーウェンが一人で渡ろうとしたときには、現れなかった光だ。
この橋が、二人で支え合って歩む者に応えていることは間違いなかった。
橋の中ほどまで進んだ、そのとき。
水面から冷たい風が斜めに吹き上がった。
山を渡る自然の風とは違う。
まるで橋から二人を振り落とそうとするような、鋭い突風だった。
エレノアの淡いクリーム色の外套が、大きくはためく。
身体が横へ流され、片方の靴底が橋の縁へ滑った。
「きゃっ……!」
握られていた手が、強く引かれる。
シリルは即座に振り返り、繋いでいない方の手でエレノアの腕を掴んだ。
そのまま自分の胸元へ引き寄せる。
エレノアの身体が、濃紺の外套へぶつかった。
「怪我は。」
「あ、ありません……。」
答えながら、エレノアは無意識にシリルの胸元を掴んでいた。
すぐ横には、橋の縁。
あと半歩ずれていれば、深い水の中へ落ちていたかもしれない。
遅れて恐怖が込み上げ、指先が小さく震える。
シリルは、その震えを見逃さなかった。
「戻るか。」
「……いいえ。」
エレノアは息を整えながら、首を横へ振った。
「進みます。」
「無理をするな。」
「無理ではありません。」
震えを抑えるように、ゆっくりと言葉を重ねる。
「怖くないわけではありません。でも……シリル様がいてくださいますから。」
シリルの表情が、わずかに動いた。
「あなたが手を離さないでいてくださるなら、進めます。」
それは、エレノアが初めて、自らの意思で誰かへ身を委ねた言葉だった。
危険な時には、必ず手を差し伸べてくれる人。
どのような場所でも、自分より先へ立ってくれる人。
怖さを隠し、一人で進むのではない。
差し出された手を取り、その人と共に進む。
それもまた、勇気なのかもしれない。
けれど、
シリルの胸には、その言葉が別の重さを持って落ちた。
「……離さない。」
わずかな沈黙のあと。
彼は低い声でそう告げた。
エレノアは安心したように微笑む。
「はい。」
シリルは、エレノアの両足が橋の中央へ戻ったことを確かめると、再び彼女の前へ立った。
ただし、今度は一歩の間隔さえ空けない。
エレノアを、ほとんど背中へ触れるほど近い位置へ導いた。
そして、繋いだ手を先ほどよりも深く、強く握り直す。
「俺の足跡だけを踏め。」
「はい。」
「このまま行く。」
再び歩き始めた二人の間には、ほとんど隙間がなかった。
一歩進むたび、外套の布が触れ合う。
握られた手の力強さ。
すぐ前から伝わる体温。
自分のものなのか、シリルのものなのか分からない鼓動まで、ひどく近く感じられた。
エレノアは足元へ意識を集中させようとする。
けれど、橋から落ちる恐怖はいつの間にか薄れ、その代わりに、理由の分からない落ち着かなさが胸を満たしていた。
◇
もう少しで橋を渡り切る。
そう思った瞬間、周囲の光景が一変した。
水面から淡い霧が立ち上り、二人を包み込む。
すぐ先にあるはずの対岸も。
後方で待つ仲間たちも。
瞬く間に白い霧の中へ消えていった。
「シリル様……。」
「俺から離れるな。」
エレノアの手を握る指に、力がこもる。
やがて、霧の奥から微かな声が聞こえてきた。
男とも女ともつかない、幾つもの囁き。
――一人で立てぬ者に、何が守れる。
――弱さを見せる者に、誰が従う。
――助けを求めることは、敗北だ。
――守る者が支えられて、何の価値がある。
声は二人の周囲を巡りながら、何度も同じ問いを投げかけてくる。
エレノアは息を呑んだ。
「遺跡の仕掛けでしょうか。」
「相手にするな。」
シリルは前だけを見ていた。
だが霧の中では、進むべき方向さえ見えない。
足元の橋も数歩先から白く霞み、本当に道が続いているのかすら分からなかった。
シリルは足先で慎重に前方を探る。
硬い石の感触がある。
一歩、進んだ。
すると、再び囁きが響いた。
――他者へ頼らねば進めぬ者に、勇気はない。
――手を借りれば、己の弱さを認めることになる。
その言葉に、エレノアの脳裏へ幼い日の記憶が蘇った。
立ち尽くす父。
体調を崩した母。
失われていく財産。
屋敷を去る使用人たち。
かつて親しくしていた者たちは、アシュフォード伯爵家が没落すると、潮が引くように離れていった。
知識は、自分を裏切らない。
努力しただけ、必ず残る。
だからエレノアは、自分一人でできることを増やそうとしてきた。
父へ心配をかけないように。
家族を支えられるように。
誰かへ助けを求めなくても、生きていけるように。
頼ることは、相手へ負担をかけることだと思っていた。
けれど今、自分はシリルの手を握っている。
一人では、この橋を渡れない。
それでも。
それを恥ずかしいとは、思わなかった。
「……私は。」
エレノアの声に、シリルが視線を向ける。
「私はずっと、父や家族を支えなければならないと思っていました。」
なぜ今、話そうと思ったのかは分からない。
霧の囁きに、心の奥を暴かれたように感じたからかもしれない。
「家が没落してからは、なおさらです。私がしっかりしなければ。私が働かなければ、と……。」
シリルは口を挟まず、黙って聞いていた。
「誰かに頼れば、その方の負担になります。だから、自分でできることは、すべて自分でするべきだと思っていました。」
「間違ってはいない。」
シリルは静かに答えた。
「だが、すべてを一人で背負う必要もない。」
「……シリル様もです。」
「何がだ。」
「シリル様も、いつもお一人で危険を引き受けようとなさいます。」
先ほどの試練でもそうだった。
危険があるなら、自分が最初に進む。
エレノアを守るためなら、自分が傷つくことを躊躇しない。
「私は、シリル様に何度も支えていただきました。」
エレノアは、繋いだ手へ少しだけ力を込めた。
「ですからシリル様も、時には私たちへ頼ってください。」
「守る方が、いつもお一人ですべてを背負わなくてもよいのだと思います。」
シリルは握り合った二人の手へ目を落とす。
しばらくして、短く答えた。
「……分かった。」
その言葉が落ちた途端。
周囲を満たしていた囁きが、静かに消えていった。
代わりに、握った手元から淡い光が生まれる。
二人の指の隙間から零れた光は、霧の中へ真っ直ぐ伸び、一本の道を描き出した。
「道が……。」
「進むぞ。」
「はい。」
二人は光に導かれ、再び歩き始めた。
数歩進むと霧は次第に薄くなり、やがて対岸の白い石畳が姿を現す。
最後の一歩を踏み出した瞬間。
背後で、澄んだ音が響いた。
振り返ると、橋は消えていない。
白い橋の両端に細い光が灯り、対岸まで真っ直ぐ続いていた。
揺らぎもない。
先ほどまで、少しでも条件を違えれば霞のように消えていた橋が、今は確かな白い石として水面の上へ架かっている。
二人が試練を越えたことで、橋そのものが変化したのだろう。
渡った先の岸に立つ石碑にも、新たな文字が浮かび上がっていた。
エレノアは腰を繋ぐ縄を外すより先に、石碑へ近づこうとする。
だが、繋いだ手に引き止められた。
「待て。」
シリルは、橋の向こう、元の岸に残る仲間たちを見ていた。
「全員が渡り終えるまで、動くな。」
橋を渡り切ったあとも、安全が確かになるまでは手を離すつもりがないらしい。
エレノアは少し考え、素直に頷いた。
「分かりました。」
元の岸では、二人が無事に辿り着いたことを確認した五人が、橋の変化を見守っている。
その時。
橋の入口と、エレノアたちの傍らにある二つの石碑へ、同時に淡い光が灯った。
「文字が現れました!」
アルヴィンの声が響く。
エレノアもこちら側の石碑へ目を凝らした。
「――『渡りし者は、残る者へ道を開く』」
読み上げた言葉が、水面の上を渡っていく。
ガレスが橋を見据えた。
「お前たちが越えたことで、橋が安定したということか。」
「おそらくは。」
エレノアは、両端に灯った光へ目を向ける。
「ただし、『独りでは成し得ぬ』という最初の言葉は変わっていません。橋が消えなくなっても、渡る者は二人で支え合う必要があるのだと思います。」
元の岸に残っているのは五人。
リアナとクラウディア。
ガレスとアルヴィン。
そう分かれれば、オーウェンだけが残る。
ガレスが配置を変えようとした時、シリルが口を開いた。
「俺が戻る。」
エレノアが彼を見る。
「お一人で戻っても、橋は消えないのでしょうか。」
シリルは橋の両端へ灯った光を確かめた。
先ほどオーウェンが一人で踏み込んだ時とは違い、橋の輪郭は少しも揺らいでいない。
「道は、すでに開かれている。」
確証があるわけではない。
それでも、その声には迷いがなかった。
「クラウディアとリアナが渡ったら、ここで二人と待て。」
「ですが――」
「必ず戻る。」
深い青の瞳が、真っ直ぐにエレノアを見つめる。
霧の中で、自分が口にした言葉が胸へ蘇った。
一人ですべてを抱え込まないこと。
相手の力を信じること。
今度は、エレノアが彼の言葉を受け取る番だった。
「……分かりました。」
小さく頷く。
「必ず戻ってきてください。」
「ああ。」
◇
次に、リアナとクラウディアが橋へ進んだ。
二人は最初から互いの手を取り、歩調を合わせて渡っていく。
やがて霧が二人を包んだ。
中で何を見て、何を問われたのかは分からない。
ほどなく霧が晴れ、二人は揃ってエレノアたちの待つ岸へ辿り着いた。
リアナの表情には、僅かな険しさが残っている。
クラウディアも普段より口数が少なかった。
けれど二人は何も語らず、ただ一度、互いへ確かめるように頷いた。
「エレノア様。」
リアナがすぐに彼女の傍らへ立つ。
「ここからは私たちがお守りします。」
シリルはクラウディアとリアナを見た。
二人が頷く。
それを確認してから、ようやくエレノアと繋いでいた手を離した。
シリルはエレノアと結んでいた腰の縄を外し、橋へ足を乗せた。
今度は一人だった。
だが、橋は消えない。
両端に灯る光が、彼の進む道を支えるように輝いていた。
霧も現れなかった。
一度試練を越えた者には、もう同じ問いを投げかけないのだろう。
シリルは迷いなく元の岸へ戻ると、オーウェンの前へ立ち、手を差し出した。
「行くぞ。」
「まさか、お前に導かれることになるとはな。」
「不満なら残れ。」
「冗談だ。」
オーウェンは差し出された手を見て、わずかに眉を上げる。
「手まで繋ぐ必要はないだろ。どこか触れていれば十分じゃないか?」
「また落ちたいなら好きにしろ。」
「……手を貸してくれ。」
二人は互いの腰を縄で繋ぎ、しっかりと手を取った。
橋は、今度も二人を受け入れた。
淡い霧が立ち上がり、その姿を覆い隠す。
対岸で待つエレノアは、胸元で手を重ねた。
必ず戻る。
シリルの言葉を信じ、白い霧を見つめ続ける。
やがて。
霧の向こうから、二つの人影が現れた。
シリルとオーウェンが、並んでこちらへ歩いてくる。
その姿を認めた瞬間。
エレノアの胸へ、静かな安堵が広がった。




