32話 誓約の回廊③―独りでは、成し得ぬ―
第32話 誓約の回廊③―独りでは、成し得ぬ―
――『独りでは、成し得ぬ』
石碑に刻まれた一文を読み上げると、エレノアの声は広場を巡る水音の中へ静かに溶けていった。
その先に架かる白い橋は、あまりにも細い。
幅は人の肩幅ほどしかなく、欄干もない。
磨き上げられた一枚の白い石が、円形の広場を分かつ深い水面の上へ、真っ直ぐ伸びている。
距離にすれば五十歩ほどだろう。
だが、その下に広がる水は、これまで見てきたものとは明らかに違っていた。
左右の水路を流れてきた水は、底まで見通せるほど澄んでいた。
それに対し、橋の下の水面は深い青を湛え、どれほど目を凝らしても底が見えない。
暮れかけた空を映しているはずなのに、茜色も、雲の形も浮かんでいなかった。
ただ、すべての光を呑み込むような青黒い色が、波一つ立てずに広がっている。
エレノアは石碑の前に立ったまま、橋の向こうへ目を凝らした。
対岸には再び白い回廊が続いている。
そのさらに奥。
薄い霞の向こうに、鮮やかな緑が見えた。
木々だろうか。
ここまでの遺構には、草一本生えていなかった。
白い石と水だけで造られた世界の中で、その緑はひどく鮮明に見える。
あそこへ辿り着けば、この回廊を抜けられるのかもしれない。
だが、そのためには目の前の橋を渡らなければならなかった。
「独りでは成し得ぬ、か。」
ガレスが碑文を見つめたまま呟く。
「橋の幅を見る限り、横へ並んで歩くのは難しそうだな。」
「二人で同時に渡れ、という意味とは限りません。」
アルヴィンが眼鏡を押し上げる。
「誰かの助けを借りなければならない。あるいは、何らかの道具を用いる必要があるという可能性もあります。」
オーウェンは橋の入口へしゃがみ込み、白い石の表面を慎重に確かめた。
「見たところは、普通の石橋だな。ひびもないし、脆くもなさそうだ。」
「見たところは、でしょう。」
リアナは橋そのものではなく、その下に広がる水面を警戒していた。
「第一の問いも、二つの道から一つを選ぶように見せかけていたもの。何か仕掛けがあると思った方がいいわ。」
クラウディアは、広場を取り囲む白い柱を見上げた。
円形に並んだ柱には、これまでのものとは異なる彫刻が刻まれている。
二人が手を取り合う姿。
倒れかけた者を、もう一人が支える姿。
背中を預け合い、それぞれ別の方向へ目を向ける姿。
片方だけが一方的に助けるのではない。
互いに足りないものを補う人々の姿が、いくつも刻まれていた。
「柱の彫刻も、この碑文と関係がありそうですね。」
クラウディアの言葉を受け、エレノアも一つずつ目で追う。
「誰かを頼り、同時に自分も誰かを支えることを示しているのでしょうか。」
「国を背負う者の勇気を試す場所で、他者を頼ることを求める……。」
アルヴィンは興味深そうに彫刻を見つめた。
「ヴァレシアにとって、他者の力を借りることは、弱さではなかったのかもしれません。」
「先ほどの問いとも繋がるな。」
ガレスが低く言った。
「力だけでも、知だけでも、国は守れない。」
石碑には、それ以上の文字はない。
橋の入口にも、装置を動かすための目立った仕掛けは見当たらなかった。
一行は広場の周囲を調べたが、新たな手掛かりは見つからない。
やがてオーウェンが立ち上がった。
「いつまでも眺めていても仕方ありません。俺が試します。」
オーウェンが一歩前へ出ようとした、その時だった。
「ちょっと待って。」
リアナが鋭い声で呼び止める。
「第一の問いだって、一見安全そうに見えて罠があったじゃない。一人で行くなんて危険すぎるわ。」
「だから試すんだ。」
「だからって、あなた一人が行く必要はないでしょう。」
リアナは眉を寄せたまま橋を睨む。
「橋が崩れるかもしれない。床が抜けるかもしれない。何が起きるか分からないのよ。」
「私も同意見です。」
クラウディアも静かに頷いた。
「情報がない以上、不用意に進むべきではないわ。」
それでもオーウェンは橋を見据えたまま、小さく肩をすくめる。
「でも、誰かが最初の一歩を踏み出さなきゃ始まらないだろ。」
広場に短い沈黙が落ちる。
やがてガレスが低く息を吐いた。
「……危険は承知だな。」
「もちろんです。」
「ならば最低限の備えをしろ。」
ガレスは広場の柱を指した。
「縄を柱へ回せ。異変があれば、即座に引き戻す。」
「了解。」
オーウェンは腰へ縄を固く結び、もう一端を手近な白い柱へ二重に回した。
柱を支点にして、クラウディアとガレスが縄の端を握り、リアナもその後ろへ続く。
シリルはすぐに加われる位置へ立ち、エレノアを自分の近くへ留めた。
「異変があれば即座に戻れ。」
ガレスが命じる。
「承知しました。」
オーウェンは白い橋へ向き直った。
まず右足を乗せる。
何も起こらない。
石が沈むことも、水面が揺れることもなかった。
続いて左足を移す。
両足が橋の上へ乗っても、変化はない。
オーウェンは足元を確かめながら、慎重に進んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
その瞬間。
――ゴォン
地の底で巨大な鐘を打ち鳴らしたような音が、円形の広場へ響き渡った。
オーウェンが足を止める。
「今のは……」
「戻れ。」
ガレスの指示が飛ぶ。
だが、オーウェンが振り返ろうとした瞬間、白い橋の輪郭が揺らいだ。
石の表面が、霞へ変わるように透けていく。
「オーウェン!」
リアナが叫ぶ。
次の瞬間、橋が霞のように消えた。
「っ!」
オーウェンの身体が、支えを失って宙へ投げ出される。
足元には、底の見えない青黒い水。
見守る全員の息が止まった。
腰へ結ばれた縄が鋭く張る。
柱へ回した縄が軋み、クラウディアとガレスの腕へ強い衝撃が走った。
「引け!」
ガレスの号令と同時に、リアナとシリルも縄へ加わる。
四人の力で、一気にオーウェンを引き戻した。
水面へ落ちる寸前だった身体が広場側へ引かれ、石畳の上へ転がり込む。
リアナがすぐに駆け寄り、その腕を掴んだ。
「怪我は!?」
「ない。どこも打ってない。」
オーウェンは荒い息を吐きながら、先ほどまで立っていた場所を振り返った。
橋の上から人の姿が消えると、白い石橋は何事もなかったかのように再び現れていた。
「本当に、一人では渡れないらしいな。」
「感心している場合?」
リアナは険しい顔のまま、彼の腕や肩を確かめる。
「もし落ちていたら、どうなっていたと思っているの。」
「だから縄をつけただろ。」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「二人とも、あとにしろ。」
ガレスの一言で、言い合いが止まる。
オーウェンに怪我がないことを確かめると、一行は再び橋の前へ集まった。
「二人以上が同時に橋へ乗ればよいのでしょうか。」
クラウディアが白い橋へ目を向けた。
「……その可能性はあります。」
エレノアは細い橋を見つめた。
横に並んで歩くことはできない。
だが、前後へ続くなら、二人で同時に渡ることはできる。
シリルは橋の長さと、水面までの距離を確かめたあと、低く告げた。
「俺が行く。」
エレノアはすぐに彼を見上げた。
先ほどの問いで、一人で進まないと約束したばかりだった。
その視線に気づいたシリルは、わずかに言葉を付け加える。
「二人でだ。」
エレノアの表情から、ほんの少し緊張が抜ける。
「誰と組む。」
ガレスが尋ねる。
シリルは答えるより先に、エレノアへ視線を向けた。
その眼差しの意味を悟り、彼女は目を瞬く。
「エレノア嬢と行きます。」
迷いのない声だった。
「待て。」
ガレスが即座に制する。
「まずは騎士同士で試すべきだ。解読者を、まだ仕組みが分からない橋へ向かわせる理由はない。」
当然の判断だった。
だが、シリルは橋の向こうへ続く白い回廊を見据えたまま答える。
「渡ったあと、橋が残る保証はありません。」
ガレスの目が僅かに細められる。
「対岸に新たな碑文や仕掛けがあれば、エレノア嬢の力が必要になります。」
シリルはエレノアへ視線を戻した。
「俺だけが渡り、彼女をここへ残せば、道が閉じた時に守れない。」
それは護衛として当然の判断だった。
そけれど、シリルはそこで言葉を終えなかった。
青い瞳が、真っ直ぐエレノアへ向けられる。
「君を、俺が守れない場所へ残すつもりはない。」
きっぱりと告げられ、言葉を失った。
それでも、自分を選ばれたことに、胸の奥がかすかに温かくなった。
「……分かりました。」
エレノアが頷き、ガレスへ向き直った。
「私も行きます。」
ガレスはエレノアを見る。
「行けるか。無理をする必要はない。」
「はい。大丈夫です。」
橋の下に広がる暗い水を見れば、怖くないとは言えなかった。
先ほど、オーウェンの足元から橋が消えた光景も、鮮明に目へ焼きついている。
それでも。
「橋の先に文字があれば、私が読まなければ先へ進めません。」
自分だけが安全な場所へ残り、騎士たちに危険を負わせるつもりはなかった。
「私も、この場所へ来た一員ですから。」
ガレスは彼女の顔をしばらく見つめ、やがて頷いた。
「分かった。ただし、少しでも異変を感じたら、すぐに戻れ。」
「はい。」
「シリル。必ず守れ。」
「はっ。」
短い返答に、揺らぎはなかった。
シリルは自分の腰へ縄を結ぶと、もう一端を手に取った。
エレノアの腰へ回そうとしたところで、動きを止める。
「……触れる。」
「はい。」
一言断ってから、シリルは淡いクリーム色の外套の上へ縄を回した。
外套越しに指先が触れるたび、エレノアの身体へ余計な力が入る。
縄を結ぶだけ。
危険へ備えるために必要な作業だ。
そう分かっているのに、意識すればするほど、彼の手の位置が気になってしまう。
シリルは手早く縄を結び、緩まないよう結び目を引いて確かめた。
軽く引かれた拍子に、エレノアの身体がわずかに彼の方へ寄る。
「苦しくないか。」
「だ、大丈夫です。」
シリルが顔を上げた。
「顔が赤い。」
「夕陽のせいです!」
思わず早口で答える。
シリルは一度、暮れかけた空へ目を向けた。
太陽はすでに山の端へ沈みかけ、茜色だった空も紫へ変わり始めている。
「……そうか。」
納得したのかどうか分からない声だった。




