31話 誓約の回廊②―力か知か―
第31話 誓約の回廊②―力か知か―
反対側に置かれた書物の石像も、剣とほぼ同じ造りをしていた。
開かれた頁の中央へ向かって細い溝が伸びている。
しかし、水はやはり、その手前で途切れていた。
「左右とも、装置の構造はほとんど同じです。」
エレノアは二つの像を交互に見比べる。
「違うのは、象徴しているものだけ……。」
剣は力。
書物は知。
だが、どちらの像にも水は届いていない。
「何か見落としているのでしょうか。」
アルヴィンが二つの道の間を行き来しながら、周囲へ視線を巡らせる。
エレノアは少し考え、石像から離れた。
近くから見つめ続けても、細部しか見えない。
ならば一度、全体を見た方がいい。
一歩。
もう一歩。
二つの道を視界へ収めようと後ろへ下がった、その時だった。
「危ない。」
腰へ強い力が掛かった。
「えっ……!」
身体が後ろへ引かれ、背中が硬い胸元へ触れる。
直後、エレノアが足を置こうとしていた石畳が、かすかに沈んだ。
継ぎ目から水が溢れ、滑らかな石の表面を薄く覆っていく。
崩れるほどではなかった。
だが、踏み込んでいれば足を滑らせていただろう。
「足元を見ろと言った。」
耳元近くで、低い声が響く。
シリルの腕は、まだエレノアの腰を支えていた。
「ありがとうございます。助かりました。」
見上げると、普段よりもずっと近い場所に、深い青の瞳があった。
そこには、驚いた自分の顔が映っている。
胸の奥が落ち着かなくなり、エレノアは小さく視線を逸らした。
「あの……もう大丈夫です。」
「ああ。」
シリルはすぐに腕を解いた。
触れられていた感覚がしばらく残る。
エレノアは気持ちを切り替えるように、二つの道へ向き直った。
そして、目を見開いた。
シリルに引き寄せられたことで、立つ位置が変わっていた。
正面ではなく、二つの道を斜め後方から見渡す場所。
その角度から見ると、今まで継ぎ目にしか見えなかったものが、淡い光を帯びていた。
「……線?」
左右へ分かれた道の中央。
剣と書物の石像から、まったく同じ距離に一本の細い白線が伸びている。
その線の両脇には、一人ずつ進めるほどの幅を持つ、淡い色の石列が続いていた。
周囲の石畳とほぼ同じ色をしているため、正面からでは見分けがつかない。
だが、斜めから差し込む夕陽を受けると、その線だけがかすかに光を返していた。
エレノアは慎重に近づき、その場へ膝をつく。
白線の表面へ目を凝らすと、細かな文字が刻まれていた。
「古代文字があります。」
全員が集まる。
エレノアは表面を覆う水滴を布で拭い、一文字ずつ読み取った。
「――『いずれも欠いてはならぬ』。」
アルヴィンが息を呑む。
「やはり、二者択一ではなかったのですね。」
「はい。」
エレノアは立ち上がり、剣と書物を見比べた。
「国を守る力と、国を導く知。この二つは、どちらか一方を選べばよいものではありません。」
「この言葉を残した者たちは、どちらも必要だと考えていたのでしょう。」
ガレスは中央の白線へ目を落とした。
「だが、道は二つに分かれている。」
エレノアは白線の先を目で追った。
剣の石像へ続く溝。
書物の石像へ続く溝。
二本はそれぞれ別の方角から伸びながら、像へ至る手前で途切れている。
だが、よく見れば。
その途切れた先は、中央の白線へ向かっていた。
エレノアは再び膝をついた。
「いえ……。分かれているのではありません。」
指先で、左右の溝の先を示す。
「二つの流れは、中央の線へ繋がっています。」
アルヴィンが身を乗り出した。
「剣と書物の間を分ける境界ではなく、二つを結ぶための道……。」
「はい」
エレノアは白線を見つめた。
「おそらく、この中央を進むのが答えです。」
「ですが、進んだ先が安全かどうかまでは分かりません――」
その言葉が終わるより先に、シリルが中央線へ向かって歩き出した。
「待ってください。」
思わず、その外套を掴む。
シリルが足を止めた。
「俺が確かめる。」
短い言葉だった。
危険があるなら、自分が最初に立つ。
護衛として、彼にとっては当然の判断なのだろう。
けれどエレノアには、どうしても頷くことができなかった。
「シリル様お一人を、危険な場所へ進ませることはできません。」
「護衛の役目だ。」
「それでもです。」
エレノアは外套を掴んだまま、真っ直ぐ彼を見上げた。
「私は、シリル様に守っていただいています。」
「ですが、それは、シリル様なら危険な目に遭ってもよいという意味ではありません。」
シリルの瞳が、わずかに見開かれる。
「シリル様も、私たちと共にここまで歩いてきた大切な仲間です。」
静かな声だった。
けれど、その意思に迷いはない。
「どうか、一人で進まないでください。」
一瞬、周囲から水音さえ消えたように感じられた。
シリルはしばらくエレノアを見つめていた。
やがて、ほんのわずかに息を吐く。
「……分かった。」
エレノアの表情が和らいだ。
「ありがとうございます。」
シリルは外套を掴んでいた彼女の指を傷つけないよう、そっと布を引き抜いた。
それからガレスへ視線を向ける。
「ご指示を。」
ガレスは左右の道と、中央の白線を順に確認した。
「まず俺が進む。シリルは後ろにつけ。異変がなければ、ほかの者も続け。」
「はっ。」
ガレスが先頭に立ち、白線に沿った中央の石列へ足を乗せる。
そのすぐ後ろへ、シリルが続いた。
石が沈むことも。
水が噴き出すこともない。
だが、装置にも何の変化も起きなかった。
「二人だけでは、足りない……?」
リアナが呟く。
「エレノア嬢。来られるか。」
ガレスが振り返ってエレノアへ呼びかけた。
「はい。」
ガレスを先頭に、シリル、エレノアの順で中央の道へ並ぶ。
その後ろへリアナ、アルヴィン、オーウェンが続き、クラウディアが最後尾へ立った。
全員が白線に沿う中央の道へ並んだ、その瞬間。
澄んだ水音が、足元から響いた。
左右の溝で止まっていた水が、ゆっくりと向きを変える。
赤い石の道から、一筋。
青白い石の道から、一筋。
二つの流れは中央へ集まり、白線に刻まれた細い溝の中で、一つの透明な流れとなった。
「動きます。」
クラウディアの声に、全員が左右へ注意を向ける。
剣の石像が、重い音を立てながらゆっくりと傾いた。
切っ先が、開かれた書物へ向けられる。
同時に、書物の頁が一枚だけ持ち上がった。
石でできているとは思えないほど滑らかに動き、剣の柄へ重なる。
剣が書物を貫くのではない。
書物が剣を押さえ込むのでもない。
互いを支え、補うように、二つの象徴が一つへ結ばれていく。
――力と知。
そのどちらも、もう一方を欠いては成り立たない。
低い振動が回廊を伝った。
左右へ分かれていた石畳が、ゆっくりと中央へ動き始める。
二本の道が近づき。
間の隙間が塞がれ。
やがて、一つの広い道へ戻っていった。
二つだった水の流れも、その中央を並んで進み、一本の大きな流れへ変わっていく。
「私たち全員が、証だったのですね……。」
エレノアが小さく呟く。
剣を携え、危険へ立ち向かう者たち。
文字を読み、進むべき道を示す者たち。
力だけでも。
知だけでも。
道は開かなかった。
異なる役目を持つ者たちが、どちらも欠けることなく同じ道を選んだ。
民を守るため、力と知の双方を携えて進む。
その選択こそが、彼らの示した証だったのだ。
先ほどまでの碑文へ、新たな文字が姿を現した。
光ではない。
細い文字の溝へ透明な水が流れ込み、夕陽を反射することで、隠されていた言葉を描き出している。
エレノアはゆっくりと読み上げた。
「――『力なき知は、民を守れず』」
静かな声が、白い回廊へ響く。
「――『知なき力は、民を傷つける』」
騎士たちは、それぞれの剣へ一瞬だけ視線を落とした。
アルヴィンは、胸元に抱えた記録帳を見つめる。
そしてエレノアは、最後の一文を読んだ。
「――『守る者よ。二つを携え、なお進め』」
読み終えた瞬間。
止まっていた左右の水路が、再び流れ始めた。
澄んだせせらぎが回廊へ戻り、張り詰めていた空気がわずかに和らぐ。
オーウェンは、書物と重なった剣の像を振り返った。
「危うく、迷わず剣の道を選ぶところだった。」
「あなたは間違いなく選んでいたでしょうね。」
リアナが呆れたように言う。
「騎士なんだから、剣を選ぶのは当然だろ。」
「だからこそ、知も携えろと言われたのでは?」
「耳が痛いな。」
肩をすくめるオーウェンに、皆の間へ僅かな笑いが生まれる。
アルヴィンは碑文を書き写しながら、感嘆したように目を細めていた。
「実に興味深い思想です。」
「力と知識を対立するものではなく、互いを律し、補うものとして考えていた。」
「国を背負う者は、どちらか一方だけではならないということですね。」
エレノアが言うと、アルヴィンは頷いた。
「ええ。力だけでは暴力となり、知識だけでは民を守れない。」
「少なくともヴァレシア王国の時代には、この教えが国を担う者たちへ受け継がれていたのでしょう。」
ガレスは、一つとなった回廊の先へ目を向けた。
「ひとまず、最初の問いには応えられたようだな。」
「最初の……。」
クラウディアがわずかに眉を寄せる。
「まだ先があるということですね。」
その言葉に応えるように、回廊の奥から風が吹いた。
冷たい風ではない。
澄んだ水と、草木の香りを含んだ柔らかな風だった。
それまで霞に包まれていた回廊の先が、少しずつ姿を現す。
遠くに見えたのは、白い柱に囲まれた円形の広場。
その中央には、細い橋が架けられていた。
橋の下には、空の色を映した深い水面が広がっている。
そして向こう岸には、さらに先へ続く白い道。
広場の入口には、新たな石碑が立っていた。
まだ距離があり、文字までは読めない。
けれどそこに、次の問いが待っていることだけは分かった。
◇
一行は、再び白い回廊を進んだ。
夕陽はさらに傾き、石畳を淡い金色へ染めている。
近づくにつれ、円形の広場と橋の姿が明らかになっていった。
橋の幅は、人の肩幅ほどの細さだろうか。
欄干はなく、その下には底の見えない水が広がっている。
迂回できる道はない。
先へ進むには、この橋を渡るほかなかった。
やがて石碑の文字が、エレノアにも読める距離へ入る。
一行が足を止める。
エレノアはそこへ刻まれた、たった一つの文章を読み上げた。
「――『独りでは、成し得ぬ』」
風が、細い橋の上を渡っていく。
第一の問いは、力と知を一つにすることだった。
ならば次に問われるものは何なのか。
ガレスは橋と、その下に広がる水面を慎重に見渡した。
シリルはエレノアの半歩前へ立ち、細い道の先を見据える。
誓約の回廊は、まだ彼らの勇気を認めてはいない。
次なる問いは、静かに一行を待ち受けていた。




