30話 誓約の回廊①―分かたれた道―
第30話 誓約の回廊①―分かたれた道―
白い階段は、麓から見上げたときよりも遥かに長かった。
一段ごとの高さは低く、造りも均整が取れている。
けれど、途切れることなく続く石段を登るうちに、岩山の麓は次第に遠ざかり、眼下に広がる森も小さくなっていった。
階段の両端を流れる水は、どれほど高い場所へ来ても絶えることがない。
澄んだせせらぎが、一行の足音へ寄り添うように響いていた。
どこから水が湧いているのか。
誰が、これほど巨大な階段を造ったのか。
そしてなぜ、少なくとも三千年もの歳月を経てもひび一つ入らず残されているのか。
考え始めれば、疑問は尽きなかった。
◇
エレノアは足元へ注意を払いながら、一段ずつ登っていた。
石の表面には、苔も土もほとんど付着していない。
それでも、脇を流れる水がわずかに溢れ、階段の一部を濡らしている場所があった。
濡れた石を避けようと、足を横へずらした、その時だった。
「足元を見ろ。」
すぐそばから、低い声が落ちてくる。
顔を上げると、少し先を歩いていたはずのシリルが、いつの間にかエレノアの隣へ戻ってきていた。
「申し訳ありません。少し考え事をしていました。」
「見れば分かる。」
相変わらず、言葉はそっけない。
けれどシリルは前へ戻らず、エレノアより一段低い場所を歩き始めた。
もし足を滑らせても、すぐに身体を支えられる位置だった。
それに気づき、エレノアは少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「私に歩調を合わせていただいてしまって……。」
「護衛だ。気にするな。」
即答だった。
その間も、青い瞳は濡れた石段とエレノアの足元を交互に確認している。
数段下を歩いていたリアナが、隣のクラウディアへそっと顔を寄せた。
「……護衛だから、だそうです。」
「聞こえている。」
振り返ることなく、シリルが告げる。
リアナは口元を押さえ、何事もなかったように空を見上げた。
◇
やがて、長く続いた石段の終わりが見え始めた。
最後の一段を登ったガレスが、その場で足を止める。
続いて上がってきた一行も、その先に広がる光景を前に、思わず息を呑んだ。
山頂には、広大な白い空間が広がっていた。
山そのものを削り、平らに整えたのだろうか。
それとも、かつては別の地形だったのか。
見渡す限り、滑らかな白い石が敷き詰められている。
中央には、霞の向こうへ消えてしまいそうなほど長い石畳が伸びていた。
回廊といっても、屋根も壁もない。
左右には一定の間隔で白亜の柱が並び、その外側を二本の水路が走っている。
水路の底には、白や淡い青の小石が敷き詰められ、澄み切った水が静かに流れていた。
木々も。
建物も。
人の気配もない。
あるのは、空と、石と、水だけ。
余計なものをすべて削ぎ落としたような、厳かで静かな景色だった。
「……これが、西方の遺構。」
エレノアの唇から、自然と声が零れた。
アルヴィンも、眼鏡の奥の瞳を見開いている。
「これほど巨大な遺構だったとは……。」
古代ヴァレシア史を研究してきた彼でさえ、その姿を示す記録を見たことがないのだろう。
回廊の先には、薄い霞が漂っていた。
傾き始めた陽光と、水路から立ち上るわずかな水気が重なり、道の先を覆い隠している。
終着点に何があるのか、ここからは見えなかった。
ガレスはしばらく周囲を確認したあと、一行へ向き直る。
「ここから先も、全員で動く」
低く、簡潔な指示が飛ぶ。
「オーウェンとリアナは左右の水路を確認。クラウディアは後方を警戒。シリルは引き続き、エレノア嬢から離れるな。」
「はっ。」
「了解。」
一行はガレスを先頭に、回廊の入口へ向かった。
入口には、左右に並ぶものより一回り大きな二本の石柱が立っている。
その間には低い石碑が置かれ、表面へ古代ヴァレシア文字が刻まれていた。
長く風雨に晒されてきたはずなのに、文字は昨日刻まれたかのように鮮明だった。
シリルが石碑の周囲と足元を先に確認する。
危険がないことを確かめると、エレノアへわずかに顎を引いた。
「いい。」
「ありがとうございます。」
エレノアは石碑の前へ膝をつき、文字の並びを慎重に追った。
刻まれていたのは、わずか一文。
難解な暗号ではない。
複雑な言い回しでもない。
けれど、その意味を理解した瞬間、胸の奥へ重いものが落ちた。
「何と書いてある。」
シリルの声に促され、エレノアはゆっくりと立ち上がった。
そして、石碑へ刻まれた言葉を読み上げる。
「――『恐れなき者を、我らは求めない』」
静かな声が水路の上を渡り、長い回廊の奥へ吸い込まれていく。
勇気を試す場所ならば、恐れを知らない者こそふさわしい。
そう考えるのが自然だろう。
だが、ここに刻まれているのは、その逆だった。
「恐れない者を、求めない……?」
リアナが小さく繰り返す。
エレノアは再び石碑へ目を落とした。
「下に、もう一つ小さな文字があります。」
石碑の下部へ刻まれた細い一文を確かめ、読み上げる。
「『この回廊を歩み終えし者は、泉の御前にて、民を守ると誓え』」
アルヴィンが息を呑んだ。
「では、この回廊は誓約の儀式に用いられていたのでしょうか。」
「はい。おそらく。」
エレノアは静かに頷く。
「古代ヴァレシア王国では、王や将軍、高官たちが、この道を歩いたのかもしれません。」
「そして、その先にある泉の前で、民を守ると誓ったのでしょう。」
ガレスは、果てしなく続く白い回廊へ目を向けた。
「国を背負う者に、恐れと向き合わせるための場所か。」
「恐れを持たない者ではなく、恐れを知った上で進める者を求めたのかもしれません。」
エレノアの言葉に、誰もすぐには答えなかった。
一行は改めて、霞の向こうへ続く回廊を見つめる。
ここは、ただ目的地へ通じる道ではない。
国を担う覚悟を持つ者へ、自らの心を問いかけるための誓約の道だった。
◇
その直後だった。
左右の水路を流れていた水が、ふいに止まった。
風は吹いている。
それなのに、水面にはさざ波一つ立たない。
まるで透明な硝子を流し込んだかのように、二本の水路が静まり返った。
リアナとクラウディアが同時に剣の柄へ手を掛ける。
シリルもすぐに半歩前へ出て、エレノアを背後へ庇った。
広い背中に視界の一部を遮られながら、エレノアは水路の変化を見守る。
やがて、石畳の下で巨大な何かが動くような振動が、足裏へ伝わってきた。
回廊の両側に並んでいた白亜の柱が、入口に近いものから順に沈み始める。
一対目。
二対目。
三対目。
奥へ向かって連鎖するように、それぞれが一定の深さまで沈んでいった。
それに合わせて、柱の頂へ埋め込まれていた透明な石へ夕陽が差し込む。
光は石の内部で屈折し、次の柱へ届いた。
さらに、その先へ。
一筋だった光が幾重にも分かれ、白い石畳の上へ複雑な線を描いていく。
「光を利用した装置……。」
アルヴィンが驚きに息を呑む。
「麓で入口を開いた仕掛けと、同じ技術なのでしょうか」
「おそらく。」
エレノアは、石畳へ浮かび上がった光の軌跡を見つめた。
「ですが、こちらの方が遥かに複雑です。」
光は回廊の中央で二つに分かれ、左右へ伸びている。
直後。
止まっていた二本の水路から、水が静かに溢れ出した。
流れ出した水は石畳へ刻まれた細い溝を通り、光の線を追うように進んでいく。
低い音が響いた。
一行の目の前で、一本だった石畳がゆっくりと左右へ分かれていく。
床の下に隠されていた石がせり上がり、二本の異なる道を形作った。
左側の入口には、一振りの剣を象った石像。
右側には、開かれた書物を象った石像。
二本の道の間には、新たな碑文が姿を現していた。
エレノアが近づこうとすると、シリルがすぐに隣へ並ぶ。
彼は周囲へ視線を巡らせながら、彼女が文字を追う横顔を見下ろした。
夕暮れの光を受けた蜂蜜色の髪。
古代文字を見つめる翡翠色の瞳。
好奇心に満ちた表情の奥に、わずかな緊張がある。
「シリル様?」
視線に気づき、エレノアが顔を上げる。
目が合うと、シリルはすぐ石碑へ視線を戻した。
「何か感じるか。」
「……少しだけ、嫌な予感がします。」
エレノアは正直に答えた。
「二つの道が、あまりにも分かりやすく示されているので。」
「俺もだ。」
短い答えだった。
単純にどちらかを選ぶだけなら、これほど大がかりな仕掛けを用意する必要はない。
シリルも、そう感じているのだろう。
エレノアは碑文へ向き直り、一文字ずつ読み上げた。
「『国を守る力を選ぶか』」
左側を見る。
剣を象った石像の先には、赤みを帯びた石が敷かれている。
「『国を導く知を選ぶか』」
右側には青白い石が並び、その先は薄暗い柱の間へ続いていた。
そして最後の一文。
「『守るべきものを選び、その証を示せ』」
「どちらかを選べということか。」
ガレスが二本の道を見比べる。
オーウェンは剣の石像へ近づき、触れない距離から造りを確認した。
「王や将軍が歩いた道なら、剣を選ぶのが正解じゃないのか?」
クラウディアは書物の像へ目を向ける。
「けれど、国を守る者がすべて剣を振るうわけではないわ。」
「立場によって、進む道が分けられていたのでしょうか。」
リアナが尋ねる。
ガレスはすぐには答えず、エレノアとアルヴィンを見る。
「二人はどう考える。」
アルヴィンは二つの石像を見比べながら、顎へ手を添えた。
「古代ヴァレシアでは、武官と文官の役割が明確に分かれていたという記録があります。」
「剣が武官を、書物が文官を表しているのならば、それぞれに異なる道を歩ませた可能性はあります。」
「ですが……。」
エレノアは二本の道を見つめたまま、静かに呟いた。
「それでは、この問いの意味がありません。」
アルヴィンが振り返る。
「意味がない?」
「はい。」
エレノアは石碑へ刻まれた言葉を、もう一度確かめる。
――国を守る力。
――国を導く知。
――守るべきものを選べ。
「武官が剣を、文官が書物を選ぶだけなら、それは役職を確認しているにすぎません。」
「勇気を試していることにはならない……。」
クラウディアが静かに言葉を引き取った。
エレノアは頷いた。
「それに、剣だけで国を守ることはできません。」
「知識だけでも、民を危険から守り切ることはできないでしょう。」
剣は、迫る危険を退ける。
知は、国が進むべき道を示す。
どちらも必要だ。
だからこそ。
片方だけを選べという問いには、何か決定的な違和感があった。
エレノアはまず、左側に置かれた剣の石像へ近づいた。
像は実物の剣より遥かに大きく、切っ先を地面へ向けた形で造られている。
柄には、ヴァレシア王国で用いられていた意匠に似た文様が刻まれていた。
足元には、水路から引き込まれた細い溝がある。
けれど、水は途中で止まり、剣の根元まで届いていない。
エレノアは次に、右側の書物の像へ視線を向けた。
そちらにも同じような溝があった。
そしてやはり、水は途中で途切れている。
二つの像。
二つの道。
どちらにも、水は届いていない。
その事実に気づいた瞬間、エレノアの表情が変わった。
「……何かが、足りません。」
「分かるか。」
ガレスが尋ねる。
エレノアはしばらく二本の溝を見つめたあと、ゆっくりと首を横へ振った。
「いいえ。まだ、そこまでは。」
剣か。
書物か。
力か。
知か。
どちらを選ぶべきなのか。
あるいは。
最初から、その問い方そのものが間違っているのか。
誰にも、まだ答えは分からなかった。
茜色の光が、剣と書物を等しく照らしている。
分かたれた二本の道は、訪れた者の心を量るように。
ただ静かに、選択の時を待っていた。




