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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第二章 知恵の石板

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27話(端話)甘い香りの休日

27話(端話)甘い香りの休日




休暇二日目。


調べ物を禁じられたエレノアは、朝から落ち着かなかった。


机の前へ座ってみても、つい古代文字の辞書へ手が伸びる。


けれど先日、国王からはっきりと言い渡されていた。


――休息も、今の君に与えた役目だ。


「何もしないというのも、難しいものですね……。」


小さく息を吐いた時、窓辺の小卓に置かれた茶器が目に入った。


昨夜、実家から戻ったあと、侍女のマリエラが用意してくれたものだ。


傍らの皿には、小さな焼き菓子が一つ添えられている。


それを見た瞬間、エレノアの脳裏へ一つの考えが浮かんだ。


「……そうだわ。」


思わず声が弾む。


「お菓子を作ればいいのよ。」




没落してからというもの、アシュフォード家では使用人を雇う余裕がなかった。


そのため、料理や掃除も家族で分担するようになった。


初めは慣れないことばかりだったが、限られた材料で工夫しながら料理を作る時間は、思いのほか楽しかった。


中でも、お菓子作りは格別だった。


分量を量り、生地を練り、焼き加減を見極める。


一つひとつの工程を丁寧に積み重ねていく時間は、古代文字を読み解く時とはまた違う楽しさがある。


「久しぶりに作ってみましょう。」


そう決めると、エレノアはマリエラへ相談した。





団長ダリウスの許可を得て、エレノアは近衛騎士団詰所の厨房を借りることになった。


厨房には、ほどなく甘い香りが漂い始めた。


エレノアが作っているのは、花蜜と陽果を練り込んだ焼き菓子――月蜜の花輪焼き。


細長く伸ばした生地を輪の形へ整え、表面へ薄く花蜜を塗って焼き上げる。


焼き色が付き始めると、花蜜の芳醇な甘さと、陽果の爽やかな香りが厨房いっぱいに広がった。


「いい香りだなぁ……。」


入口から、ひょこりと一人の青年が顔を出す。


第一隊所属の近衛騎士、ノア・エヴァンスだった。


「あ、エレノア様!」


相変わらず明るい様子に、エレノアはくすりと笑う。


「こんにちは、エヴァンス様。」


「何を焼いていらっしゃるんですか?」


「月蜜の花輪焼きです。ちょうど焼き上がったところですよ。よろしければ召し上がりますか?」


ノアは目を輝かせたものの、すぐに背筋を伸ばした。


「皆さんへ配るために作ったものですよね?」


「多めに作りましたから大丈夫です。それに、焼きたてを食べていただける方が、私も嬉しいです。」


「いいんですか!?」


返事があまりにも早い。


ノアは一瞬照れたように口元を緩め、それから改めて頭を下げた。


「では、遠慮なくいただきます。」


エレノアは、まだ温かい花輪焼きを一つ小皿へ載せた。


「熱いので、気をつけてください。」


「はい。」


ノアは大切そうに両手で受け取り、一口かじる。


表面はさくりと軽く、中はしっとりとしている。


噛むほどに花蜜の優しい甘さが広がり、最後に陽果の香りが爽やかに残った。


ノアの目が、大きく見開かれる。


「美味しいです!」


「本当ですか?」


「はい。表面は香ばしいのに、中は柔らかくて……。甘いですけど、陽果の香りがあるので重くありません。」


予想以上に丁寧な感想だった。


エレノアは嬉しそうに笑う。


「お店に並んでいてもおかしくありませんよ。」


「それは褒めすぎです。」


「いいえ、本当に!」


あまりにも美味しそうに食べるため、作ったエレノアまで幸せな気持ちになった。


「よろしければ、もう一つどうぞ。」


「ありがとうございます!」


二人が話しているうちに、甘い香りに誘われた騎士たちが、次々と厨房へ顔を出した。


「美味そうだな。」


「一ついただいてもよろしいですか?」


「もちろんです。」


一つ。


また一つ。


皿の上の花輪焼きは、見る間に減っていった。





やがて厨房の入口へ、長い影が落ちた。


そこに立つ人物を見て、エレノアは目を瞬く。


「シリル様?」


昨日に続き、休暇中のはずのシリルが、濃紺の近衛騎士団の制服姿で立っていた。


片手には数枚の書類がある。


やはり今日も、完全に休むつもりはないらしい。


「あ、隊長!」


ノアが明るく声を上げた。


「今日は休暇と伺っていましたが、どうされたんですか?」


「報告書に追記があった。」


シリルは短く答え、厨房の中へ視線を巡らせた。


調理台。


甘い香り。


そして――空になった大皿。


その青い瞳が、ぴたりと止まった。


「焼き菓子を作っていたのです。」


エレノアが説明する。


「月蜜の花輪焼きというお菓子です。皆様に召し上がっていただきました。」


「そうか。」


いつもと変わらない、落ち着いた声だった。


けれど、視線は再び空の皿へ落ちる。


「……終わったのか。」


「はい。思っていた以上に皆様が喜んでくださって、全部召し上がっていただきました。」


「そうか。」


先ほどと同じ返事だった。


表情も、声も変わらない。


それでも、エレノアにはほんの少しだけ残念そうに見えた。


その時、ノアが屈託なく笑った。


「とても美味しかったですよ、隊長。外はさくっとしていて、中は柔らかくて。俺、三つもいただいちゃいました。」


シリルの視線が、ゆっくりとノアへ向く。


「三つ。」


「はい!」


悪意など欠片もない、爽やかな返事だった。


数秒の沈黙のあと、シリルが口を開く。


「ノア。」


「はい。」


「以前、稽古を見てほしいと言っていたな。」


ノアの表情が、ぱっと明るくなる。


「覚えていてくださったんですか?」


「ああ。」


「ぜひ、お願いします!」


「今から来い。」


「はい!」


憧れの第一隊長から直々に指導を受けられる。


ノアは喜々として、その後へついていった。


去り際、シリルはもう一度だけ空になった大皿を見た。


その視線に気づいたのは、エレノアだけだった。





「遅い。」


「はい!」


乾いた木剣の音が、鍛錬場へ響く。


「踏み込みが甘い。」


「はい!」


「右が空いている。」


「はい!」


シリルの木剣が、ノアの剣を鋭く弾く。


「もう一度。」


「はい!」


それからしばらくして。


ノアは肩で息をしながら、木剣を構えていた。


指導は的確だった。


普段気づけなかった癖を一つずつ指摘され、確実に身になっている。


けれど――。


(今日の隊長、)


(いつもより少し厳しくない!?)


「集中しろ。」


「はい!」


即座に姿勢を正す。


せっかく与えられた機会だ。


「もう一本、お願いします!」


「ああ。」


シリルは表情を変えず、再び木剣を構えた。




◇◇◇





休暇三日目。


エレノアは前日のシリルを思い出していた。


――終わったのか。


いつもと変わらない声だった。


けれど、空になった皿を見つめる姿が、なぜか頭から離れない。


(もしかして、召し上がってみたかったのかしら。)


考えてみれば、エレノアはシリルの好みをほとんど知らなかった。


自分が辛いものを苦手としていることは、彼に知られている。


遠征中に食事を残した回数まで覚えられていた。


けれどシリル自身は、自分の好き嫌いを滅多に語らない。


昨日も、一昨日も。


休暇中であるにもかかわらず、シリルは結局働いていた。


実家まで護衛してもらった礼も、まだきちんと返せていない。


「……もう一度、焼きましょう。」


今度は、大勢へ配るためではない。


エレノアは再び厨房を借りると、小さな包み一つ分だけ、月蜜の花輪焼きを丁寧に焼き上げた。





エレノアは近衛騎士団棟を訪れた。


案内された第一隊長室の扉の前で、小さく息を整える。


両手には、丁寧に包んだ焼き菓子。


控えめに扉を叩いた。


――コン、コン。


「入れ。」


落ち着いた低い声が返ってくる。


エレノアが扉を開けると、隊長室ではシリルが机へ向かい、書類へ目を通していた。


執務机には報告書が積まれ、窓から差し込む午後の光が濃紺の隊服を照らしている。


シリルは顔を上げると、驚いたように青い瞳を見開いた。


「エレノア嬢。」


「お仕事中に失礼いたします。」


「構わない。」


シリルは書類を机へ置き、立ち上がるとエレノアへ近く。


「どうした。」


エレノアは両手で持っていた小さな包みを、少し照れくさそうに差し出した。


「昨日、シリル様にお召し上がりいただけなかったので。」


「……。」


「月蜜の花輪焼きです。」


シリルは包みとエレノアを交互に見る。


「……俺に?」


「はい。」


エレノアは柔らかく微笑んだ。


「いつも護衛してくださるお礼です。お口に合うかは分かりませんが……。」


シリルは数秒、何も言わなかった。


やがて包みへ手を伸ばし、壊れ物でも受け取るかのように静かに持つ。


「……いただく。」


「はい。休憩の時にでも召し上がってください。」


エレノアは一礼し、近衛騎士団棟をあとにした。


その背中が見えなくなるまで、シリルはその場から動かなかった。


隊長室に戻り、念のため人気がないことを確かめると、包みの紐を解く。


中には、綺麗な花輪の形に焼かれた菓子が三つ並んでいた。


昨日、ノアが食べたのと同じ数。


けれどこれは、エレノアが自分のためだけに焼いたものだ。


一つを手に取り、口へ運ぶ。


表面は軽く香ばしく、中はしっとりと柔らかい。


花蜜の穏やかな甘さのあとから、陽果の爽やかな香りが広がった。


そして。


包みを閉じようとして、シリルの手が止まる。


もう一度だけ、焼き菓子へ視線を落とす。


ほんのわずかに。


シリルの口元が緩んだ。




午後の陽だまりの中、


室内には花蜜の甘い香りが、優しく漂っていた。



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