27話(端話)甘い香りの休日
27話(端話)甘い香りの休日
休暇二日目。
調べ物を禁じられたエレノアは、朝から落ち着かなかった。
机の前へ座ってみても、つい古代文字の辞書へ手が伸びる。
けれど先日、国王からはっきりと言い渡されていた。
――休息も、今の君に与えた役目だ。
「何もしないというのも、難しいものですね……。」
小さく息を吐いた時、窓辺の小卓に置かれた茶器が目に入った。
昨夜、実家から戻ったあと、侍女のマリエラが用意してくれたものだ。
傍らの皿には、小さな焼き菓子が一つ添えられている。
それを見た瞬間、エレノアの脳裏へ一つの考えが浮かんだ。
「……そうだわ。」
思わず声が弾む。
「お菓子を作ればいいのよ。」
没落してからというもの、アシュフォード家では使用人を雇う余裕がなかった。
そのため、料理や掃除も家族で分担するようになった。
初めは慣れないことばかりだったが、限られた材料で工夫しながら料理を作る時間は、思いのほか楽しかった。
中でも、お菓子作りは格別だった。
分量を量り、生地を練り、焼き加減を見極める。
一つひとつの工程を丁寧に積み重ねていく時間は、古代文字を読み解く時とはまた違う楽しさがある。
「久しぶりに作ってみましょう。」
そう決めると、エレノアはマリエラへ相談した。
◇
団長ダリウスの許可を得て、エレノアは近衛騎士団詰所の厨房を借りることになった。
厨房には、ほどなく甘い香りが漂い始めた。
エレノアが作っているのは、花蜜と陽果を練り込んだ焼き菓子――月蜜の花輪焼き。
細長く伸ばした生地を輪の形へ整え、表面へ薄く花蜜を塗って焼き上げる。
焼き色が付き始めると、花蜜の芳醇な甘さと、陽果の爽やかな香りが厨房いっぱいに広がった。
「いい香りだなぁ……。」
入口から、ひょこりと一人の青年が顔を出す。
第一隊所属の近衛騎士、ノア・エヴァンスだった。
「あ、エレノア様!」
相変わらず明るい様子に、エレノアはくすりと笑う。
「こんにちは、エヴァンス様。」
「何を焼いていらっしゃるんですか?」
「月蜜の花輪焼きです。ちょうど焼き上がったところですよ。よろしければ召し上がりますか?」
ノアは目を輝かせたものの、すぐに背筋を伸ばした。
「皆さんへ配るために作ったものですよね?」
「多めに作りましたから大丈夫です。それに、焼きたてを食べていただける方が、私も嬉しいです。」
「いいんですか!?」
返事があまりにも早い。
ノアは一瞬照れたように口元を緩め、それから改めて頭を下げた。
「では、遠慮なくいただきます。」
エレノアは、まだ温かい花輪焼きを一つ小皿へ載せた。
「熱いので、気をつけてください。」
「はい。」
ノアは大切そうに両手で受け取り、一口かじる。
表面はさくりと軽く、中はしっとりとしている。
噛むほどに花蜜の優しい甘さが広がり、最後に陽果の香りが爽やかに残った。
ノアの目が、大きく見開かれる。
「美味しいです!」
「本当ですか?」
「はい。表面は香ばしいのに、中は柔らかくて……。甘いですけど、陽果の香りがあるので重くありません。」
予想以上に丁寧な感想だった。
エレノアは嬉しそうに笑う。
「お店に並んでいてもおかしくありませんよ。」
「それは褒めすぎです。」
「いいえ、本当に!」
あまりにも美味しそうに食べるため、作ったエレノアまで幸せな気持ちになった。
「よろしければ、もう一つどうぞ。」
「ありがとうございます!」
二人が話しているうちに、甘い香りに誘われた騎士たちが、次々と厨房へ顔を出した。
「美味そうだな。」
「一ついただいてもよろしいですか?」
「もちろんです。」
一つ。
また一つ。
皿の上の花輪焼きは、見る間に減っていった。
◇
やがて厨房の入口へ、長い影が落ちた。
そこに立つ人物を見て、エレノアは目を瞬く。
「シリル様?」
昨日に続き、休暇中のはずのシリルが、濃紺の近衛騎士団の制服姿で立っていた。
片手には数枚の書類がある。
やはり今日も、完全に休むつもりはないらしい。
「あ、隊長!」
ノアが明るく声を上げた。
「今日は休暇と伺っていましたが、どうされたんですか?」
「報告書に追記があった。」
シリルは短く答え、厨房の中へ視線を巡らせた。
調理台。
甘い香り。
そして――空になった大皿。
その青い瞳が、ぴたりと止まった。
「焼き菓子を作っていたのです。」
エレノアが説明する。
「月蜜の花輪焼きというお菓子です。皆様に召し上がっていただきました。」
「そうか。」
いつもと変わらない、落ち着いた声だった。
けれど、視線は再び空の皿へ落ちる。
「……終わったのか。」
「はい。思っていた以上に皆様が喜んでくださって、全部召し上がっていただきました。」
「そうか。」
先ほどと同じ返事だった。
表情も、声も変わらない。
それでも、エレノアにはほんの少しだけ残念そうに見えた。
その時、ノアが屈託なく笑った。
「とても美味しかったですよ、隊長。外はさくっとしていて、中は柔らかくて。俺、三つもいただいちゃいました。」
シリルの視線が、ゆっくりとノアへ向く。
「三つ。」
「はい!」
悪意など欠片もない、爽やかな返事だった。
数秒の沈黙のあと、シリルが口を開く。
「ノア。」
「はい。」
「以前、稽古を見てほしいと言っていたな。」
ノアの表情が、ぱっと明るくなる。
「覚えていてくださったんですか?」
「ああ。」
「ぜひ、お願いします!」
「今から来い。」
「はい!」
憧れの第一隊長から直々に指導を受けられる。
ノアは喜々として、その後へついていった。
去り際、シリルはもう一度だけ空になった大皿を見た。
その視線に気づいたのは、エレノアだけだった。
◇
「遅い。」
「はい!」
乾いた木剣の音が、鍛錬場へ響く。
「踏み込みが甘い。」
「はい!」
「右が空いている。」
「はい!」
シリルの木剣が、ノアの剣を鋭く弾く。
「もう一度。」
「はい!」
それからしばらくして。
ノアは肩で息をしながら、木剣を構えていた。
指導は的確だった。
普段気づけなかった癖を一つずつ指摘され、確実に身になっている。
けれど――。
(今日の隊長、)
(いつもより少し厳しくない!?)
「集中しろ。」
「はい!」
即座に姿勢を正す。
せっかく与えられた機会だ。
「もう一本、お願いします!」
「ああ。」
シリルは表情を変えず、再び木剣を構えた。
◇◇◇
休暇三日目。
エレノアは前日のシリルを思い出していた。
――終わったのか。
いつもと変わらない声だった。
けれど、空になった皿を見つめる姿が、なぜか頭から離れない。
(もしかして、召し上がってみたかったのかしら。)
考えてみれば、エレノアはシリルの好みをほとんど知らなかった。
自分が辛いものを苦手としていることは、彼に知られている。
遠征中に食事を残した回数まで覚えられていた。
けれどシリル自身は、自分の好き嫌いを滅多に語らない。
昨日も、一昨日も。
休暇中であるにもかかわらず、シリルは結局働いていた。
実家まで護衛してもらった礼も、まだきちんと返せていない。
「……もう一度、焼きましょう。」
今度は、大勢へ配るためではない。
エレノアは再び厨房を借りると、小さな包み一つ分だけ、月蜜の花輪焼きを丁寧に焼き上げた。
◇
エレノアは近衛騎士団棟を訪れた。
案内された第一隊長室の扉の前で、小さく息を整える。
両手には、丁寧に包んだ焼き菓子。
控えめに扉を叩いた。
――コン、コン。
「入れ。」
落ち着いた低い声が返ってくる。
エレノアが扉を開けると、隊長室ではシリルが机へ向かい、書類へ目を通していた。
執務机には報告書が積まれ、窓から差し込む午後の光が濃紺の隊服を照らしている。
シリルは顔を上げると、驚いたように青い瞳を見開いた。
「エレノア嬢。」
「お仕事中に失礼いたします。」
「構わない。」
シリルは書類を机へ置き、立ち上がるとエレノアへ近く。
「どうした。」
エレノアは両手で持っていた小さな包みを、少し照れくさそうに差し出した。
「昨日、シリル様にお召し上がりいただけなかったので。」
「……。」
「月蜜の花輪焼きです。」
シリルは包みとエレノアを交互に見る。
「……俺に?」
「はい。」
エレノアは柔らかく微笑んだ。
「いつも護衛してくださるお礼です。お口に合うかは分かりませんが……。」
シリルは数秒、何も言わなかった。
やがて包みへ手を伸ばし、壊れ物でも受け取るかのように静かに持つ。
「……いただく。」
「はい。休憩の時にでも召し上がってください。」
エレノアは一礼し、近衛騎士団棟をあとにした。
その背中が見えなくなるまで、シリルはその場から動かなかった。
隊長室に戻り、念のため人気がないことを確かめると、包みの紐を解く。
中には、綺麗な花輪の形に焼かれた菓子が三つ並んでいた。
昨日、ノアが食べたのと同じ数。
けれどこれは、エレノアが自分のためだけに焼いたものだ。
一つを手に取り、口へ運ぶ。
表面は軽く香ばしく、中はしっとりと柔らかい。
花蜜の穏やかな甘さのあとから、陽果の爽やかな香りが広がった。
そして。
包みを閉じようとして、シリルの手が止まる。
もう一度だけ、焼き菓子へ視線を落とす。
ほんのわずかに。
シリルの口元が緩んだ。
午後の陽だまりの中、
室内には花蜜の甘い香りが、優しく漂っていた。




