26話 束の間の休息 後編
26話 束の間の休息 後編
南地区の船着き場からエレノアの実家までは、歩いて十分ほどだった。
王都の中心部から離れたこの辺りには古い石造りの家々が軒を連ねている。
かつてアシュフォード伯爵家が所有していた屋敷は、とうに手放されていた。
現在、一家が暮らしているのは通りの奥に建つ小さな借家だ。
華美なところは何もない。
けれど窓辺には母が育てた季節の花が咲き、古びた木の扉も丁寧に磨かれている。
エレノアにとっては、何より大切な我が家だった。
◇
玄関前にある二段の階段へ足を掛けようとしたところで、隣から手が差し出された。
「段差だ。」
「見えていますよ、シリル様。」
「分かっている。」
「それなら――」
「使え。」
有無を言わせない口調だった。
たった二段。
しかも、何度も上り下りしている実家の階段だ。
手を借りる必要などないと思いながらも、エレノアは差し出された手へそっと自分の手を重ねた。
手袋越しにも、シリルの手が大きく力強いことが分かる。
エレノアが上り終えるまで、その手はしっかりと支えてくれていた。
「ありがとうございます。」
「ああ。」
エレノアが扉を叩こうとした、その時だった。
内側から勢いよく扉が開く。
「お姉様!」
淡い金色の髪を肩の辺りで揺らしながら、フローリアが飛び出してきた。
「フローリア。」
「本当にお姉様だわ! お帰りなさいませ!」
そのまま抱きつこうとしたフローリアは、エレノアの隣に立つ長身の騎士へ気づき、ぴたりと動きを止めた。
姉とよく似た翡翠色の瞳が、シリルを下から上まで見上げる。
「あっ。」
そして、ためらいもなく指を差した。
「あの時の無愛想な騎士!」
「フ、フローリア!」
エレノアは慌てて妹の手を下ろさせた。
「シリル様に失礼でしょう。」
「だって本当じゃない。前にお姉様を連れていった時、すごく怖い顔をしていた人でしょう?」
シリルは眉一つ動かさない。
「否定はしない。」
「シリル様まで認めないでください。」
そのやり取りを見たフローリアが、目を丸くした。
姉がこの騎士と、こんなふうに自然な言葉を交わすとは思っていなかったらしい。
「フローリア。こちらはシリル・ヴァルモント様。今回の任務で、ずっと私を護衛してくださっているの。」
「……お姉様を?」
「ええ。」
フローリアは疑うような目でシリルを見た。
それから、二人の間へ何度か視線を往復させる。
「さっきも、お姉様の手を取ってた。」
「段差があった。」
「二段しかないけど。」
「段数は関係ない。」
「お姉様、普通に上れるよ。」
「万一がある。」
シリルは至って真剣だった。
フローリアはしばらく黙り込み、やがて探るように目を細める。
「……何か、お姉様にだけ優しくない?」
「えっ、そうかしら?」
「そうだよ。それに、優しいというより――」
もう一度シリルを観察する。
「過保護すぎない?」
「護衛だからな。」
「護衛って、二段の階段でも手を出すの?」
「出す。」
即答だった。
エレノアは何とも言えない気持ちになり、そっと頬へ手を添えた。
そこへ、家の奥から母のマーガレットが姿を見せる。
「フローリア、玄関先で何を騒いで……エレノア!」
「お母様。ただいま戻りました。」
マーガレットは驚きに目を見開いたあと、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「お帰りなさい。無事でよかったわ。」
母の両手が、エレノアの頬を優しく包む。
その温かさへ触れた途端、ようやく本当に家へ帰ってきたのだという実感が湧いた。
「心配をおかけして、申し訳ありません。」
「いいのよ。詳しいことは聞けないのでしょう?」
「はい。ですが、任務は無事に一段落しました。」
「それなら十分よ。」
マーガレットは安堵したように微笑むと、改めてシリルへ顔を向けた。
「ご挨拶が遅れました。エレノアの母、マーガレット・アシュフォードと申します。」
スカートの裾を軽くつまみ、慎ましく腰を落とす。
かつて伯爵夫人だった頃の名残を感じさせる、無駄のない美しい礼だった。
「娘が大変お世話になっております。」
シリルも姿勢を正し、胸元へ手を添えて一礼する。
「シリル・ヴァルモントです。近衛騎士として、エレノア嬢の護衛を務めています。」
侯爵家の名を持ちながら、それを誇示するような響きはなかった。
あくまで自らの役目を告げる、簡潔な名乗りだった。
「ヴァルモント侯爵家の……。」
マーガレットの瞳へ一瞬だけ驚きが浮かぶ。
けれど、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「このようなところまで足をお運びいただき、ありがとうございます。どうぞ中へお入りください。」
「失礼します。」
シリルは礼儀正しく一礼した。
その様子を、フローリアが不思議そうに見つめる。
「ちゃんと挨拶できるんだ……。」
「フローリア。」
「だって、無愛想だったから。」
「聞こえている。」
「聞こえるように言ったの。」
フローリアはまったく怯まない。
シリルは言い返すことなく、ただ静かに少女を見下ろした。
その光景が可笑しくて、エレノアは思わず笑ってしまう。
その声に、シリルが振り返る。
彼の表情がほんのわずかに和らいだことを、フローリアは見逃さなかった。
――やっぱり。
お姉様を見る時だけ、全然違う。
フローリアはそう確信しながら、二人のあとへ続いて家の中へ入った。
◇
居間では、父のローレンスが椅子から立ち上がろうとしていた。
足元には杖が置かれている。
立ち上がった身体がわずかに揺れたのを見て、エレノアは急いで駆け寄った。
「お父様、そのままでいてください。」
「エレノア。よく戻ったね。」
「ただいま戻りました。」
ローレンスは娘の顔を確かめるように見つめ、ほっと息を吐いた。
それから、エレノアの後ろに立つ黒髪の騎士へ視線を移す。
「そちらの方が、今回エレノアを守ってくださった騎士様ですか。」
「はい。シリル・ヴァルモント様です。」
シリルが一歩進み出た。
「シリル・ヴァルモントです。近衛騎士として、エレノア嬢の護衛を務めています。」
「ローレンス・アシュフォードと申します。」
ローレンスは改めて立ち上がろうとしたが、シリルがすぐに制した。
「そのままで結構です。」
短い言葉だった。
けれど、拒絶ではなく、身体を気遣う響きがあった。
ローレンスは一瞬目を見開き、やがて穏やかに微笑む。
「では、お言葉に甘えて。娘が大変お世話になりました。」
「任務です。」
いつもの簡潔な返答だった。
隣で聞いていたフローリアが、小さく首を傾げる。
姉へ向ける声より、少しだけ硬い。
やはり、姉と話す時だけ何かが違う。
ローレンスもまた、そのわずかな差へ気づいたようだったが、何も言わずシリルへ椅子を勧めた。
「それにしても、エレノア。少し痩せたのではないかい?」
「そうでしょうか……。少し食欲がなかった時がありまして。大変申し訳ないのですが、食事を残してしまいました。」
エレノアが苦笑すると、シリルが静かに首を横へ振った。
「いい。」
短く否定する。
「理由があった。」
「シリル様……。」
それ以上は言わなかった。
香辛料の利いた煮込みが苦手だったことも。
辛いものを無理に食べようとしていたことも。
本人に代わり、家族の前で説明するつもりはないらしい。
二人を見ていたローレンスとマーガレットが、静かに顔を見合わせる。
フローリアは腕を組み、得意げに頷いた。
「ね? 過保護でしょう?」
マーガレットは思わず口元へ手を添えた。
「確かに……ずいぶん細やかに見てくださっているのですね。」
ローレンスも穏やかな眼差しをシリルへ向ける。
「娘は昔から周囲へ遠慮して、無理をしてしまうところがあります。気に掛けていただけるのは、ありがたいことです。」
「必要な管理です。」
シリルは表情一つ変えずに答えた。
「護衛対象が体調を崩せば、任務に支障が出ます。」
「そうですか。」
ローレンスは静かに微笑んだ。
その声は納得しているようでありながら、娘を見るシリルの視線の柔らかさまで見逃してはいなかった。
フローリアがじっとシリルを見上げる。
「ねえ、シリル様。」
先ほどまでの「あなた」ではなく、姉から教えられた名で呼ぶ。
「何だ。」
「お姉様以外の護衛対象にも、そんなに過保護なの?」
一瞬だけ、
部屋が静まり返った。
シリルは答えなかった。
フローリアは疑わしそうに目を細める。
(……やっぱり。)
答えないこと自体が、答えのようなものだった。
◇
小さな卓を囲み、マーガレットが淹れた茶と焼き菓子を口にしながら、家族はエレノアの話へ耳を傾けた。
もちろん、任務の詳細を口にすることはできない。
エレノアは古代ヴァレシア文字の解読に携わっているとだけ伝え、それ以外は旅先で見た森や、立ち寄った町の様子など、差し障りのない範囲で語った。
フローリアは特に楽しそうに聞いている。
「やっぱり、お姉様のお話は面白い!」
誇らしげに胸を張る妹へ、エレノアは恥ずかしそうに笑った。
その横でシリルは静かに紅茶を口へ運んでいる。
やがてローレンスが懐かしそうに目を細めた。
「古代ヴァレシア文字か……。私も若い頃には、随分調べたものだ。」
シリルが茶器を置く。
「ヴァレシア文明を?」
「はい。専門としていたのは歴史と水路技術でした。もっとも、当時見つかっていた資料は断片的なものばかりでしたが。」
エレノアが古代文字へ興味を持ったのも、父の蔵書がきっかけだった。
家が没落した際、多くの家具や美術品を手放した。
それでもローレンスは、歴史や古代文字に関する書物だけは、できる限り残していた。
「父の集めた本を読んで、私は古代文字を学び始めたのです。」
エレノアが説明すると、シリルは小さく頷いた。
「なるほど。」
ローレンスは、少し遠くを見るような目をする。
「私が調べていた頃から、ずっと気になっていたことがありました。」
「何でしょう。」
シリルが尋ねた。
「古代ヴァレシアの水路は、単に水を運ぶためだけに造られたものではなかったのではないか、ということです。」
エレノアも父へ顔を向ける。
その話を、ここまで詳しく聞くのは初めてだった。
「水を運ぶためだけではない?」
「もちろん、水路である以上、水を運ぶ役目はあったでしょう。しかし、各地に残る遺構の位置や構造を照らし合わせていくと、それぞれが独立して造られたとは思えなかった。」
ローレンスは卓の上へ指先で簡単な線を描く。
「川。貯水池。地上の水路。地下へ延びる排水路。それらが、まるで一つの大きな仕組みとして繋がっているように見えたのです。」
「一つの仕組み……。」
シリルが低く繰り返す。
「都市ごとではなく、国全体を巡る仕組みということですか?」
エレノアが尋ねると、ローレンスはゆっくり頷いた。
「そう考えていました。もっとも、証明できる遺構は見つからなかった。学会では根拠のない空想だと言われましたがね。」
穏やかな口調だった。
けれど、その奥に今も消えない悔しさがあることを、エレノアは知っていた。
「ですが、高度な技術を持っていたヴァレシア文明ならば、あり得るのではないでしょうか。」
エレノアの胸が静かに高鳴る。
知恵の祠で目にした、精巧な水の仕掛け。
水を守り、導き、等しく分け与えるという思想。
もし父の考察が正しいのなら、四枚の石板が関わる装置も、水路を巡らせるためのものなのかもしれない。
そこまで考え、エレノアは口を閉じた。
ここは家族の前だ。
機密に関わる推測を、それ以上口にすべきではない。
シリルも同じことを考えたらしい。
詳細へ踏み込むことなく、ローレンスへ尋ねた。
「その考察を記したものは残っていますか。」
「正式な論文として、一度学術院へ提出しました。赤茶色の革表紙へ綴じたものです。題は――」
ローレンスは記憶を辿るように目を閉じた。
「『古代ヴァレシア王国における地下水路網についての一考察』。」
シリルの青い瞳が、僅かに鋭くなる。
「現在も学術院に?」
ローレンスは静かに首を横へ振った。
「採用されなかった論文です。返却された記憶はありませんが、新しい学術院が建てられた際に、古い資料の多くが別の保管庫へ移されたと聞いています。」
「所在は不明ということですか。」
「残念ながら。」
ローレンスは部屋の隅にある本棚へ視線を向ける。
「手元には、その論文を書く前の覚え書きがいくらか残っていたはずです。ですが、屋敷を手放す際に多くが散逸しました。」
エレノアは父の話を胸へ刻んだ。
仮説にすぎない。学術院からは採用されなかった。
それでも、遠い過去と現在を結ぶ糸が、また一本現れたような気がした。
◇◇◇
帰りの舟が王城へ向けて動き始めた頃には、空は夕暮れ色に染まっていた。
西日を受けた水面が、細かな金色の光を散らしている。
エレノアは船着き場へ立つ家族に、何度も手を振った。
ローレンスとマーガレットも手を振り返し、その隣ではフローリアが大きな声を上げている。
「お姉様、ちゃんと食べてね!」
「分かっているわ!」
「シリル様も、お姉様をよろしく!」
シリルは舟の上から小さく頷いた。
「ああ。」
「やっぱり過保護!」
最後の一言が運河へ響き、エレノアは恥ずかしさに頬を赤らめる。
「申し訳ありません。妹が失礼なことばかり……。」
「気にしていない。」
家族の姿が見えなくなるまで見送ったあと、エレノアはゆっくりと座席へ腰を下ろした。
楽しい時間は、あっという間だった。
けれど家族の顔を見られたことで、胸の内へ溜まっていた疲れがずいぶん軽くなった気がする。
「……良い家族だな。」
向かいから聞こえた声に、エレノアは顔を上げた。
シリルは遠ざかっていく南地区の街並みを見つめていた。
「はい。」
エレノアは柔らかく微笑む。
「私の自慢の家族です。」
「そうか。」
シリルは静かに頷いた。
王国を守る。
それが、近衛騎士としての使命だった。
これまで、そのことへ迷いを抱いたことはない。
けれど今、彼の胸には、王国という大きな言葉だけでは括れないものが生まれていた。
穏やかに笑うエレノア。
彼女が何よりも大切にしている、小さく温かな家。
あの家族の笑顔も。
彼女が帰っていく場所も。
決して失わせたくない。
夕暮れの光を受けるエレノアの横顔を見つめながら、シリルは静かに思う。
彼女を守るということは。
きっと、彼女が大切にするものまで守るということなのだ。
その想いを、まだ何と呼ぶのかは分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――守りたいものが、また増えた。




