25話 束の間の休息 前編
25話 束の間の休息 前編
「今日の報告で、我らが進むべき道は見え始めた。」
レオンハルトは、会議室に集まった者たちを静かに見渡した。
王家に伝わってきたものは、単なる古い伝承ではなかった。
四枚の石板も、知恵の祠も、確かに存在している。
そしてそれらは、王国各地で起こり始めた水源の異変と繋がっている可能性が高い。
残る石板を探し出す。
その目的は、ようやく明確になった。
だが、手掛かりが乏しいまま闇雲に動いても、いたずらに時間と人員を費やすだけだ。
「残る遺跡の捜索に入る前に、古文書と二枚の石板を改めて調べ直す必要がある。各地から届いている水源の報告についても、宰相とともに整理しよう。」
レオンハルトの言葉に、ダリウスが深く頭を垂れる。
「はっ。」
「今夜のうちに新たな命を下すつもりはない。次の方針が定まるまで、遠征へ参加した騎士たちには三日の休暇を与える。十分に身体を休めるよう伝えよ。」
「承知いたしました。」
ダリウスが一礼する。
続いて、レオンハルトはエレノアへ顔を向けた。
「エレノア・アシュフォード。」
突然名を呼ばれ、エレノアは背筋を伸ばす。
「はい。」
「此度の働き、見事であった。君がいなければ、我々は知恵の祠へ辿り着くことすらできなかっただろう。」
「もったいなきお言葉でございます。私は、古代の文字を読んだだけにすぎません。」
「その文字を読める者が、ほかにいないのだ。」
声音は穏やかだった。
しかし、自らの働きを軽んじることは許さないという強さがあった。
エレノアは恐縮しながら、もう一度深く頭を下げる。
「君にも三日の休息を命じる。調査を再開するまでは、王城内でゆっくり過ごすとよい。」
「ありがとうございます。」
久しぶりに、何も考えず書物を読んで過ごそう。
そう思った直後、レオンハルトはわずかに表情を曇らせた。
「ただし、完全な自由を与えてやることはできぬ。」
「……はい。」
「君はいま、王命による機密任務の只中にいる。二枚の石板と水源の異変について知り、なおかつ古代文字を読める君の身には、これまで以上に注意を払わねばならない。」
エレノアにも、その理由は十分に理解できた。
石板の存在を知る者は、まだごくわずかだ。
水源の異変についても、民には伏せられている。
何気なく口にした一言が、思わぬ形で広まる可能性もある。
「王都内に限り、数時間程度の外出は許可する。ただし、警護と機密保持のため、近衛騎士を最低一名同行させることを条件とする。」
「承知いたしました。」
「護衛の選定は、ダリウスに一任する。」
名を呼ばれたダリウスが、静かに頭を下げた。
「責任をもって手配いたします。」
レオンハルトは頷き、改めて全員へ休息を命じた。
こうして、知恵の祠への遠征はひとまずの区切りを迎えた。
◇◇◇
翌朝。
久しぶりに柔らかな寝台で眠ったエレノアは、王城の客室へ差し込む朝日の中で目を覚ました。
身体にはまだ遠征の疲れが残っている。
それでも、前日まで絶えず感じていた緊張は、ずいぶん薄れていた。
湯を使い、朝食を済ませたあと、エレノアは窓辺へ立った。
白亜の建物の間を、幾筋もの運河が流れている。
水面を行き交う小舟。
橋の上を歩く人々。
遠くから届く市場の賑わい。
見慣れた王都の景色だった。
けれど、その水がいつか失われるかもしれないと知った今では、以前と同じようには見えなかった。
(今日は、調べ物をしてはならないのよね。)
昨夜、休息も命令のうちだと国王から言い渡されたばかりだ。
それでも、何もせずに過ごすことには落ち着かなさを覚える。
しばらく考えた末、エレノアの脳裏へ家族の顔が浮かんだ。
遠征へ出る前、詳しい事情は何も伝えられなかった。
ただ王命を受け、しばらく家を離れるとだけ知らせている。
父も母も、妹のフローリアも、きっと心配しているだろう。
――せっかく外出を許していただいたのなら、少しだけ顔を見せに帰ろうかしら。
そう決めると、エレノアは近衛騎士団本部へ向かった。
◇
近衛騎士団本部にある団長執務室では、ダリウスとエリオットが机いっぱいに広げた書類を確認していた。
遠征隊は休暇に入っているものの、団長と補佐官に休みはないらしい。
「失礼いたします。」
声を掛けると、二人が同時に顔を上げた。
「アシュフォード嬢。どうした?」
ダリウスの問いに、エレノアは少し遠慮がちに答える。
「お休みをいただいている間に、実家へ顔を出したいと思いまして。王都南地区ですので、往復を含めても数時間ほどで戻れるかと存じます。」
「もちろん構わん。」
ダリウスはすぐに頷いた。
「ご家族も心配しているだろう。出発の時刻が決まれば、門衛にも伝えておこう。」
「ありがとうございます。」
「問題は護衛だな。」
ダリウスは机の端に置かれた勤務表を手に取る。
遠征に参加した騎士たちは、国王の命により休暇中だ。
ならば、本日の勤務に就いている者の中から選ぶことになる。
「午前の巡回を終えた者なら、午後から動かせるか。エリオット、今日の配置は――」
「俺が同行します。」
低く落ち着いた声が、団長室の入口から届いた。
エレノアが振り返る。
開け放たれた扉の前に、シリルが立っていた。
濃紺の近衛騎士団の制服を隙なく着こなし、腰には長剣を下げている。
どう見ても、休暇を過ごしている者の姿ではなかった。
「シリル様?」
驚いたのは、エレノアだけではない。
ダリウスは勤務表から顔を上げ、眉を寄せた。
「なぜお前がいる。」
「報告書を提出に参りました。」
シリルは手にしていた数枚の紙を、エリオットの前へ置いた。
エリオットが受け取り、素早く目を通す。
「祠内部の通路と、各試練の構造についてまとめられています。内容にも問題はありません。」
「提出期限は休暇明けで構わないと伝えたはずだが。」
「忘れないうちに記録すべきです。」
「お前は忘れんだろう。」
「記憶と記録は別物です。」
淀みのない返答に、ダリウスが一瞬黙り込む。
シリルはそのまま続けた。
「護衛は俺がします。」
「お前も休暇中だ。」
「承知しています。」
「ならば休め。」
「体調に問題はありません。」
「そういう話ではない。」
「本日の配置にも入っていません。俺が同行しても、通常任務の人員は減りません。」
シリルの声音は終始落ち着いている。
反抗する様子もない。
ただ、相手が否定しにくい事実を一つずつ並べていく。
「それに、俺は遠征へ同行しています。エレノア嬢が知り得ている機密情報の範囲も把握している。」
「ガレスたちも同じだ。」
「副団長を含め、全員が休暇中です。」
「お前もだ。」
「俺は自ら申し出ています。」
間を置かずに返された。
ダリウスの眉間へ、深い皺が刻まれる。
傍らでは、エリオットが手元の報告書へ視線を落としていた。
表情はいつもと変わらない。
けれど、その口元はわずかに緩んでいるように見えた。
「それに、」
シリルはダリウスを真っ直ぐ見据えた。
「任務の性質を考えても、新たに機密を共有する者を増やすべきではありません。すでに事情を知る者が護衛へ就く方が合理的です。」
正論だった。
あまりにも整然とした正論である。
エレノアは申し訳なさを覚え、口を挟んだ。
「ですが、シリル様もお疲れでしょうし……。」
「問題ない。」
即座に返ってくる。
「せっかくいただいたお休みですから、どうかご自分のために――」
「俺がどう使うかは、俺が決める。」
きっぱりと言い切ったあと、シリルは少しだけ声音を和らげた。
「護衛が必要なのだろう。」
「それは、そうなのですが……。」
「ならば俺が行く。」
迷いは微塵もなかった。
エレノアは、それ以上何を言えばよいのか分からなくなる。
ダリウスはしばらく、部下の顔を無言で見つめていた。
やがて深い息を吐き、勤務表を机へ戻す。
「今日は随分とよくしゃべるな。」
シリルは答えない。
「……分かった。好きにしろ。」
「ありがとうございます。」
「礼を言われる筋合いはない。少しでも疲労が見えたら、即座に戻れ。」
「承知しました。」
「それから、アシュフォード嬢を急かすな。寄り道を希望された場合も、王都内で危険がない場所なら対応しろ。」
「はい。」
「本当に分かっているのか。」
「団長。」
エリオットが静かに口を挟んだ。
「ヴァルモント卿ほど、アシュフォード嬢を急かさず、危険から遠ざけることへ徹する護衛も、そう多くはないかと。」
室内が静まり返った。
ダリウスが無言で補佐官を見る。
エリオットは何事もなかったかのように、報告書の端を揃えていた。
シリルも表情を変えない。
頬が熱くなったのは、エレノアだけだった。
「……出発時刻が決まったら、門衛へ知らせろ。」
ダリウスはそれだけ告げると、別の書類を手に取った。
話は終わりらしい。
「ありがとうございます、団長様。」
エレノアが頭を下げると、シリルはすでに扉のそばへ移動していた。
「行くぞ。」
「えっ、もうですか?」
「実家へ行くのだろう。」
「はい。ですが、まだ支度をしておりません。」
「待つ。」
あまりにも当然のように答えられ、エレノアは思わず瞬いた。
どうして、ここまでして護衛を引き受けてくれるのだろう。
職務に忠実だから。
少しでも危険を減らすため。
きっと、それだけなのだ。
そう解釈したエレノアは、急いで自分の客室へ戻った。
◇
一時間後。
二人は王城の船着き場から、小型の連絡船へ乗り込んだ。
王都には街の隅々まで運河が巡らされており、場所によっては馬車よりも舟の方が早い。
エレノアの実家がある南地区も、その一つだった。
船頭が櫂を操ると、舟は静かに岸を離れた。
穏やかな水面を切りながら、白亜の建物の間を進んでいく。
空はよく晴れていた。
淡い青空の下、運河沿いの木々が柔らかな風に揺れている。
エレノアは舟の縁へ視線を落とした。
水面には、建物と橋の影が揺らめいている。
昔から見慣れた景色だ。
それでも、長い遠征を終えたばかりだからか、今日はひどく懐かしく感じられた。
向かいに座るシリルは、周囲へ油断なく視線を配っている。
休暇中であることなど忘れているかのように、その姿勢には一分の隙もない。
「シリル様。」
「何だ。」
「本当に、よろしかったのでしょうか。」
「何がだ。」
「お休みでしたのに、私の護衛を引き受けていただいて。」
「問題ないと言った。」
「ですが……。」
シリルがエレノアへ視線を向ける。
青い瞳は、いつも通り静かだった。
「俺が行くと決めた。」
「……はい。」
「気にするな。」
短い言葉だった。
けれど、それ以上遠慮する必要はないのだと思わせる響きがあった。
エレノアは小さく微笑む。
「ありがとうございます。」
シリルはわずかに目を細めた。
「実家へ戻るのは久しぶりか。」
「そうですね。王城へ伺うようになってから、一度だけ着替えを取りに戻りましたが、ゆっくり家族と話す時間はありませんでした。」
「心配しているだろうな。」
「はい。父には王命を受けたことしか伝えておりませんし、母もきっと、私がきちんと食事をしているか気にしていると思います。」
「食べているのか。」
「え?」
「食事だ。」
思わぬ確認に、エレノアは目を瞬いた。
「もちろんです。」
「遠征中、半分残した日が二度あった。」
「よく覚えていらっしゃいますね……。」
「食べろ。」
「え?」
「疲れている時ほど。」
「そ、その日は、疲れていたからではなくて……。」
エレノアは少し言いづらそうに視線を逸らした。
「香辛料の利いた煮込みが、思っていたより辛かったのです。私、辛いものがあまり得意ではなくて。」
シリルの目が、わずかに細められる。
「苦手なのか。」
「はい。食べられないほどではありませんが、あの日のものは少し……。」
「そうか。」
それだけ答えると、シリルは何事もなかったように運河へ視線を戻した。
けれど、その胸には一つの事実が、確かに刻まれていた。
――エレノアは辛いものが苦手。
「それでも、できるだけ食べたのですよ?」
「無理をする必要はない。」
「ですが、残すのは申し訳なくて。」
「体調を崩す方が困る。」
「……はい。」
ひどく不器用で、けれど確かな気遣いだった。
自分でも気に留めていなかったようなことを、彼は覚えてくれている。
その事実に、エレノアの胸の奥がほんのりと温かくなった。
ふいに、舟が小さく揺れた。
すれ違った荷船の波が届いたのだ。
エレノアの身体がわずかに傾く。
その瞬間、シリルの手が伸びた。
エレノアが舟の縁を掴むより先に、その肩を支える。
「気をつけろ。」
「だ、大丈夫です。これくらいの揺れなら。」
「落ちてからでは遅い。」
「はい……。」
シリルの手は、すぐに離れた。
けれど肩へ残った感触だけは、なかなか消えてくれない。
エレノアはそれを誤魔化すように、流れていく白い街並みへ視線を向けた。
その横顔を、シリルが静かに見つめていたことには気づかないまま。




