22話 知恵の祠⑦―未来へ託す知―
22話 知恵の祠⑦―未来へ託す知―
湖の中央に浮かぶ小島へ辿り着くと、エレノアとシリルは繋いでいた手を離した。
石造りの祭壇は、四本の柱に囲まれている。
柱の表面には無数の古代文字が刻まれ、青白い苔の光を受けて静かに浮かび上がっていた。
長い年月を経ているはずなのに、欠けも摩耗もほとんど見られない。
まるで、この場所だけが時の流れから切り離されているかのようだった。
黒い祭壇の中央には、一枚の石板が横たえられている。
黒曜石を思わせる、深い黒。
光を吸い込むような滑らかな表面には、細かな古代ヴァレシア文字が刻まれていた。
これまで見つかったものと同じく、両腕で抱えられるほどの大きさだった。
エレノアは、すぐには手を伸ばさなかった。
祭壇の手前で足を止め、石板の周囲に刻まれた文字へ目を凝らす。
四本の柱。
祭壇の縁。
そして、黒い石板の下へ続く碑文。
一つずつ順に読み取り、言葉を繋いでいく。
やがて、その意味を理解したエレノアは、小さく息を呑んだ。
「これは……石板を持ち出す者へ向けた言葉です。」
祭壇の正面へ刻まれていた文字を、ゆっくりと読み上げる。
「――『知を得る者よ』」
「――『それを己のものと思うな』」
「――『知は過去より預かり、未来へ渡すもの』」
静かな水音が、言葉の余韻を運んでいく。
シリルは黒い石板へ視線を向けた。
「借りる、ということか。」
「はい。」
エレノアは静かに頷いた。
「この石板は、誰かが所有するために残されたものではありません。必要なときに持ち出し、その役目を終えたなら、再びここへ返すことを求めているのだと思います。」
四枚の石板。
知恵の祠に残されていた円形の装置。
壁画に描かれた、国中を巡る水の流れ。
すべての石板を集めた先に、何らかの役目が待っているのだろう。
そのためには、この石板を王都へ持ち帰らなければならない。
けれど、それは古代の遺物を奪うことではない。
遠い過去から託され、しばしの間預かるのだ。
エレノアは祭壇の前へ進んだ。
両手を胸の前で重ね、静かに頭を下げる。
ここに眠る者たちの姿は見えない。
名前も知らない。
それでも、この祠を築き、知識を残し、三千年もの間石板を守ってきた人々は、確かに存在していた。
厳かな静寂の中、エレノアは口を開いた。
「遠い時を生きた、ヴァレシアの方々へ――」
澄んだ声が、地下空間へ静かに響く。
湖を流れる水さえも、耳を澄ませているようだった。
「私たちは、この石板を必要としています。」
エレノアは顔を上げ、黒い石板を真っ直ぐに見つめる。
「皆様が遺された知識を、私たちだけのものにするつもりはありません。」
「今を生きる人々のために役立て、未来へ繋ぐために――」
一度、言葉を切る。
そして、祈るようにもう一度頭を下げた。
「この石板を、しばしお借りいたします。」
静かな声に、揺るぎない決意が宿る。
「必ず、ここへお返しします。」
その瞬間だった。
祭壇を囲む柱へ刻まれていた文字が、淡い青色に輝き始めた。
一つ。
また一つ。
光は古代文字の輪郭をなぞるように柱を駆け上がり、やがて湖を囲む壁面へ広がっていく。
水路の縁。
石道の側面。
遥か上方の天井。
祠の至るところに刻まれていた無数の文字が、静かな青い光を宿した。
まるでエレノアの誓いに応え、遠い時代の人々が了承を示しているかのようだった。
「これは……。」
エレノアは息を呑み、辺りを見回す。
湖の水面には青い文字が映り込み、揺らめく光となって幾重にも重なっている。
遠い時代の声が、言葉ではなく光となって、祠全体を満たしていた。
「応えている……。」
岸に残っていたアルヴィンが、感極まったように呟く。
エリオットも手帳へ記録することを忘れ、ただ目の前の光景を見つめていた。
ガレスたち騎士もまた、剣を携えた者としてではなく、古代の知識を前にした一人の人間として、静かに頭を垂れている。
エレノアの隣で、シリルは青い光に包まれた彼女を見つめていた。
祠へ入ってから、彼女は何度も危険へ足を踏み入れた。
恐れを知らないわけではない。
それでも、残された言葉を正しく理解するために、震える足で前へ進んだ。
彼女が大切にしているのは、文字そのものだけではない。
その文字を残した者の思いも。
その知識によって救われるかもしれない、今を生きる人々も。
そして、それを受け継ぐ未来の者たちも。
すべてを等しく見ようとしている。
それは無謀さではなかった。
危険を理解した上で、なお過去の願いを正しく受け取ろうとする、彼女なりの誠実さだった。
シリルは、胸の奥に生じた感情へ、わずかに眉を寄せた。
なぜ、彼女が危険へ近づくたびに、これほど心が乱れるのか。
なぜ無事に笑っている姿を見ると、肩の力が抜けるのか。
なぜ今、古代の人々へ語りかける横顔から、目を離せないのか。
分からない。
誰か一人を、これほど気に掛けたことはなかった。
護衛対象だから。
王命を受けているから。
そう考えるのが、もっとも自然だった。
けれど。
それだけではない何かが、胸の奥へ静かに根を張り始めている。
その感情に、まだ名を与えることはできなかった。
ただ一つ分かるのは。
彼女が傷つくことだけは、どうしても許容できないということだった――
祠を満たしていた青い光は、やがてゆっくりと薄れていった。
最後に祭壇の文字が一度だけ強く輝き、静かに元の黒い石へ戻る。
エレノアは石板の前へ歩み寄った。
「触れます。」
「ああ。」
シリルはすぐ隣へ立ち、いつでも彼女を支えられるよう身構えた。
エレノアが両手を石板の縁へ掛ける。
ひやりとした感触が、指先へ伝わった。
ゆっくりと持ち上げる。
その瞬間。
祭壇の下から、ゴトリ、と低い音が響いた。
「……っ。」
驚いたエレノアの身体が、わずかに揺れる。
すぐにシリルの腕が背を支えた。
もう片方の手で石板の縁を掴み、その重みをほとんど引き受ける。
「すみません。」
「預かる約束をしたのは君だ。」
シリルは石板を支えたまま、淡々と続ける。
「運ぶのは俺の役目だ。」
「ですが、私がお借りするとお約束したものですから。」
「君が持つ必要はない。」
「それでは、少し違う気がします。」
エレノアが譲るつもりがないと悟ったのか、シリルは短く息を吐いた。
「なら、端だけ持て。」
「はい。」
二人で一枚の石板を支える。
とはいえ、その重さの大部分をシリルが引き受けていることは明らかだった。
けれどエレノアは、あえて何も言わなかった。
口にすれば、すべて一人で持ってしまうに違いない。
二人が石道を戻り始める。
湖から浮かび上がった円形の石は、二人が通り過ぎるたび、静かに水中へ沈んでいった。
一つ。
また一つ。
最後の一歩を岸へ移すと、背後の道は完全に青い水の下へ消える。
台座に宿っていた光も静かに薄れた。
シリルはエレノアを安全な場所へ下ろしてから、台座へ向う。
自らの徽章と剣を手に取り、身につけ直す。
エレノアも身分章と羽根ペンを回収し、二人の名を伏せていた石片をそっと手にした。
刻まれた二つの名を一度だけ見つめたあと、元の場所へ戻す。
名を持ち帰らない。
この場所で成したことを、己の功績として刻ませないために。
祭壇だけが、再び湖の中央へ静かに取り残された。
◇
「ご無事でよかったです!」
リアナが駆け寄ってくる。
黒い石板へ瞳を輝かせたものの、すぐにエレノアの顔や身体へ視線を巡らせた。
「お怪我はありませんか?」
「はい。ヴァルモント様が支えてくださいましたから。」
エレノアがそう答えると、リアナは二人を見比べ、どこか意味ありげに微笑んだ。
「そうですか。」
シリルが僅かに眉を寄せる。
「……何だ。」
「いいえ、何も。」
リアナは楽しそうに首を横へ振った。
クラウディアが小さく咳払いをする。
「戻る準備をしましょう。いつ仕掛けが変化するか分かりません。」
「ああ。」
ガレスも頷いた。
エレノアは、名残惜しそうに湖の中央へ振り返る。
青い光は、もう消えている。
それでも、自分たちは古代の人々に拒まれなかった。
石板を託されたのだ。
エレノアは、誰にも聞こえないほど小さな声でもう一度誓った。
「必ず、お返しします。」
◇
帰路では、祠の仕掛けが再び作動することはなかった。
長い回廊の壁に刻まれた人々の暮らしも、来たときと同じように青白い苔へ照らされている。
けれど今のエレノアには、その一つ一つが以前より鮮明に見えた。
水路を掘る男。
子どもへ水を渡す女性。
収穫を分け合う人々。
彼らが守ろうとしたものを、今度は自分たちが預かったのだ。
かつて迷路のように入り組んでいた通路では、壁へ刻まれた印が淡く輝き、出口へ続く道を示していた。
「入った者を迷わせ、認めた者を送り出す仕組みなのかもしれませんね。」
エリオットが光る印を見つめる。
「先ほどの誓いによって、私たちは石板を預かる者として認められたのでしょう。」
「持ち出す者を拒むのではなく、目的を見極めていたのですね。」
アルヴィンが感慨深そうに答えた。
「知識を独占する者か。未来へ繋ぐ者か。」
エレノアは胸の前で手を重ねる。
腕の中には、黒い石板がある。
その重みが、先ほどよりもずっと大きく感じられた。
◇
やがて前方に、自然の光が見え始めた。
木々の間から差し込む白い光が、長く暗い祠の出口を照らしている。
「外だ!」
オーウェンの明るい声に、一行を包んでいた緊張が僅かに緩んだ。
先頭のガレスとオーウェンが先に外へ出て、周囲の安全を確認する。
「問題ない。」
その報告を受け、残る者たちも順に出口へ向かった。
長い間地下にいたため、外の光は眩しかった。
エレノアが目を細めながら出口へ足を掛ける。
その瞬間、靴の下にあった石が僅かに崩れた。
身体が傾くより早く、腕を掴まれる。
「足元を見ろ。」
シリルだった。
「申し訳ありません。」
「謝る必要はない。」
彼はエレノアが地面へ両足を着けるまで、腕を離さなかった。
森の空気が頬を撫でる。
湿った土と草木の香り。
枝の隙間から差し込む日の光。
祠へ入る前と同じ森であるはずなのに、何もかもが新しく感じられた。
一行が全員外へ出ると、背後で低い音が響いた。
双子杉の根元に開いていた入口が、ゆっくりと閉じ始める。
石壁が左右から重なり、古代文字の刻まれた扉を覆っていく。
最後に、細い隙間から青い光が一度だけ漏れた。
やがて入口は完全に閉ざされる。
注意して見なければ、誰もその奥に祠が存在するとは思わないだろう。
エレノアは胸の前で手を重ね、深く一礼した。
アルヴィンも帽子を取り、静かに頭を下げる。
騎士たちもまた、それぞれ古の祠へ敬意を示した。
やがてガレスが、回収した黒い石板と一行の状態を確認する。
「目的は果たした。日が落ちる前に森を出る。」
「はっ。」
一行は再び隊列を整えた。
◇
エレノアとシリルは、並んで森の中を歩いていた。
シリルの歩調は、意識しているようには見えない。
それでも、エレノアが無理なく歩ける速さへ合わせられている。
エレノアは隣を歩く彼を見上げ、そっと声を掛けた。
「ヴァルモント様。」
「何だ。」
「先ほど、祭壇までご一緒してくださったこと……とても心強かったです。」
シリルは前を向いたまま答える。
「任務だ。気にするな。」
いつもと変わらない、短い言葉。
エレノアは小さく微笑んだ。
「はい。それでも、ありがとうございます。」
「……ああ。」
それきり、しばらく会話は途切れた。
聞こえるのは、落ち葉を踏む音と、木々を渡る風だけだった。
やがてシリルが、唐突に口を開く。
「それと。」
「?」
「シリルでいい。」
エレノアは足を止めかけた。
「……え?」
シリルは前を向いたまま、淡々と続ける。
「ヴァルモントは父だ。」
短い説明だった。
「俺を呼ぶなら、シリルでいい。」
エレノアはしばらく言葉を失った。
今までの彼は、必要以上に他者を近づけようとはしなかった。
まして、自ら呼び方を変えるよう求めるとは思っていなかった。
湖の前で、身分も家名も地へ置いた。
石片へ刻んだのは、ただ一つの名。
――Cyril
あの時、肩書きを持たない一人の人間として並んだことを、彼も覚えているのだろうか。
そう考えた途端、胸の奥がふわりと温かくなる。
「では……。その……、」
少しためらいながら、小さく口を開く。
「シリル様。」
自分の声で呼んだその名は、想像していたよりも近く感じられた。
頬が、ほんのりと熱を持つ。
シリルは僅かに視線を向ける。
「……ああ。」
返事は、いつもと同じ短さだった。
けれど、その青い瞳はどこか穏やかに見えた。
シリルは再び前へ向き直り、何事もなかったように歩き続ける。
その歩調は変わらず、エレノアの速さに合わせられている。
エレノアもその隣へ並び、小さく微笑んだ。
黒い石板を未来へ運ぶ二人の足音が、
静かな森の奥へ、重なるように続いていった。




