表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第二章 知恵の石板

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/23

21話 知恵の祠⑥―ただ一人の―


21話 知恵の祠⑥―ただ一人の―




エレノアは、台座に並ぶ三つの窪みを一つずつ見つめた。


冠。


名。


誇り。


冠は、身分を表すもの。


名は、自分が何者であるかを示すもの。


そして誇りは、自らが頼り、力としてきたものを象徴している。


「円形の窪みには、身分を示す徽章を置くのだと思います。」


騎士たちの胸元には、近衛騎士団の徽章がある。


アルヴィンとエリオット、そしてエレノアにも、王命を受けた者であることを示す身分章が与えられていた。


「細長い窪みは、やはり剣か杖を置くためのものでしょう。」


エレノアは、最後に残った不規則な窪みへ目を向ける。


「残る一つは……名を示すもの。」


「署名ではないでしょうか。」


アルヴィンが言った。


「古代の祭祀では、粘土板や石板へ自らの名を刻み、神や祖先の前で己を示す慣習がありました。」


その言葉を聞いたエリオットが、台座の側面へ目を凝らす。


「……ここに、動く部分があります。」


薄い石の縁へ指を掛け、慎重に引き出す。


中から現れたのは、手のひらほどの小さな石片だった。


その傍らには、文字を刻むための細い石筆も収められている。


「この石へ名を記し、窪みへ納めるのでしょう。」


「ですが……。」


エレノアは、もう一度碑文を振り返った。


「『名を地に置け』とは、自らの名を掲げよという意味ではないはずです。」


「名を刻んだあと、伏せて置くのではありませんか。」


エリオットの提案に、アルヴィンが静かに頷く。


「なるほど。文字を下へ向ければ、誰がここを訪れたのかは後世に残らない。」


石板を得た功績を、己の名声にはしない。


誰が手に入れたかではなく、何のために知識を求めるのか。


祠が問うているのは、そこなのだ。


エレノアは胸の奥に、静かな感動を覚えた。


この場所を造った者たちは、何千年も後に訪れる人間の欲まで見抜いていたのだろうか。


石板を発見した者として、歴史に名を残したい。


王から褒賞を得たい。


学者として、功績を認められたい。


そのような思いを捨てられない者へ、知恵を託すことはできない。




「では、誰が渡る?」


オーウェンが尋ねた。


その言葉に、皆の視線が自然とエレノアへ向けられた。


古代文字を読めるのは彼女だけだ。


石板の前に新たな碑文があれば、エレノアが祭壇へ辿り着かなければならない。


だが、湖の底には正体の分からない黒い影がいる。


道が現れたとしても、安全とは限らなかった。



「俺が行く。」



シリルが即座に告げた。


「ですが、剣を置かなければならないかもしれません。」


エレノアが慌てて言う。


シリルは彼女へ視線を向けた。


「問題ない。」


迷いのない声だった。


武器がなくとも、自分が先に進み、危険を確かめる。


そのつもりなのだろう。


「けれど、ヴァルモント様では石板の文字を読めません。」


「持ち帰ればいい。」


「それが許されるか分かりません。」


エレノアは、湖の中央へ目を向けた。


これまでの試練は、ただ目的地へ到達すればよいものではなかった。


問いの意味を理解し、答えを示した者だけが先へ進めた。


祭壇にも新たな碑文や仕掛けがある可能性は高い。


「私が行きます。」


そう告げた瞬間、シリルの表情が固くなった。


「駄目だ。」


「ですが――」


「駄目だ。」


短い言葉。


けれど、そこにはいつも以上に強い響きがあった。


エレノアは驚き、彼を見上げる。


シリルは一度、湖の中を巡る黒い影へ視線を向けた。


「あれの正体が分からない。」


「だからこそ、仕掛けの意味を確かめなければなりません。」


「危険だ。」


「分かっています。」


「分かっていない。」


冷たくも聞こえる言葉だった。


だが、その青い瞳に浮かんでいるのは苛立ちではない。


抑えきれないほどの心配だった。


エレノアは小さく息を止める。


「ヴァルモント様。」


「この祠は、知恵を得る者自身に選ばせています。」


できる限り穏やかに、彼の名を呼んだ。


「誰かに危険を引き受けていただき、私は安全な場所で答えだけを受け取る。それでは、この試練が知恵を託そうとしている者にはなれません。」


シリルの眉が僅かに寄る。


「守られることが悪いと言っているわけではありません。」


エレノアは静かに続けた。


「ここまで来られたのは、皆様が守ってくださったからです。ヴァルモント様にも、何度も助けていただきました。」


森で幻に囚われかけた時も。


魔物に襲われた道でも。


先ほど、仕掛けのある床へ足を踏み出しかけた時も。


シリルがいなければ、自分はここに立っていない。


「ですが――」


エレノアは、真っ直ぐ彼を見つめた。



「私にしかできないことまで、代わっていただくわけにはいきません。」





静かな声だった。


それでも、そこに迷いはなかった。


シリルは何も答えない。


長い沈黙のあと、湖の中央へ視線を向ける。


「必ず戻れるのか。」


低い声で尋ねられた。


「……分かりません。」


エレノアは誤魔化さずに答えた。


シリルの表情が、さらに険しくなる。


それでもエレノアは、小さく微笑んだ。


「けれど、戻るために全力を尽くします。」


「……それでは足りない。」


呟くような声だった。


その一言に、エレノアの胸が強く打たれる。


任務だから、危険へ向かわせたくないのではない。


なぜか、そう感じた。


シリルは固く拳を握ったまま、しばらく動かなかった。


やがて決意したように、胸元の騎士団徽章へ手を掛ける。


「俺も行く。」


「ですが、一人しか進めない可能性も……。」


「道が拒むなら戻る。」


それだけ告げると、シリルは銀色の徽章を外した。


円形の窪みへ納める。


近衛騎士団の紋章が、湖の青い光を受けて淡く輝いた。


次に腰から剣帯を外す。


剣を手放すことに、躊躇はなかった。


鞘へ納めたまま、細長い窪みへ静かに置く。




シリル・ヴァルモントが、


近衛騎士としての証を、


騎士の誇りである剣を、地へ置いた。


残ったのは、


何者の称号も持たない、一人の青年だった。




シリルは最後に石片を手に取る。


石筆を持ち、名を刻みかけたところで動きを止めた。


「……どうされましたか?」


エレノアが尋ねる。


「家名は必要ない。」


石へ刻まれたのは、ただ一つの名だった。



――Cyril



侯爵家の名も。


近衛騎士としての階級もない。


ただ、一人の人間としての名だけ。


だが、シリルはまだ石片を窪みへ置かなかった。


石筆を持ったまま、エレノアへ差し出す。


「君も書け。」


「私も……?」


「ああ。」


エレノアは石片を見つめた。


二人で祭壇へ進むのなら、名を地に置くのはシリルだけではない。


自分もまた、アシュフォード元伯爵家の娘でも、王命を受けた学者でもない。


一人の人間として進まなければならないのだ。


エレノアは胸元に付けていた身分章を外した。


それをシリルの徽章へ重ねるように、円形の窪みへ置く。


次いで、腰の革袋から羽根ペンを取り出した。


幼い頃から知識を求めるために使ってきたもの。


古代文字を読み解く者として、自分の力を象徴する品だった。


エレノアはそれを、剣の隣へ静かに置いた。


そしてシリルから石筆を受け取る。


彼の名の下へ、自分の名だけを刻んだ。



――Eleanor



家名も。


元伯爵令嬢という身分も。


古代文字の解読者という役目もない。


ただのエレノアとして。


二人の名を刻んだ面を下へ向け、最後の窪みへ伏せて置く。




三つの窪みが、淡い青い光を放った。


ゴトリ、と。


石道の奥から、重い音が響く。


途切れていた場所の水面が盛り上がった。


湖の中から、円形の白い石が一つずつ浮かび上がる。


一枚。


また一枚。


やがて祭壇へ至る道が、完全に繋がった。


同時に、湖底を巡っていた黒い影が動きを止めた。


ゆっくりと水面へ近づいてくる。


騎士たちが一斉に身構えた。


だが、青い水の中から姿を現したものは、生き物ではなかった。


巨大な魚を象った、黒い石造りの装置だった。


表面には細かな継ぎ目が走り、尾やひれは内部の仕掛けによってゆっくりと動いている。


両目には青く輝く石が嵌め込まれていた。


「水流を調整する装置……。」


エリオットが驚きの声を漏らす。


「湖の中を移動しながら、底にある水門を開閉していたのでしょう。」


「では、あの影は祭壇を守る魔物ではなかったのですね。」


リアナが息を吐く。


アルヴィンも静かに頷いた。


「恐れた者が剣を抜くかどうか、それを見極める仕掛けでもあったのかもしれません。」


未知のものを、ただ敵と決めつけるのか。


力で排除しようとするのか。


それとも恐れを抑え、意味を理解しようとするのか。


剣を抜き、水の守り手を敵と見なした者へ、道は開かれなかったのだろう。


「そして、『一人の人』とは、人数を意味していたわけではない。」


エリオットが碑文を振り返る。


「王も、学者も、騎士も、民も。」


「身分を地へ置けば、誰もが等しく一人の人間になる。」


アルヴィンが言葉を引き継いだ。


「だから、二人で進むことも禁じてはいないのでしょう。」


シリルは現れた石道を見つめる。


足場に異常がないことを目で確かめたあと、エレノアへ手を差し出した。


「行くぞ。」


「はい。」


今度は迷わなかった。


エレノアは、その大きな手へ自分の手を重ねる。


二人が同時に石道へ足を踏み出した。


その瞬間。


台座に置かれた二つの徽章。


剣と羽根ペン。


そして二人の名を伏せた石片が、ひときわ強く輝いた。


だが、道は沈まない。


拒まれることもなかった。


答えは、間違っていなかったのだ。


青い湖面へ、二人の姿が並んで映る。




身分も。


家名も。


誇りも地へ置いた二人。


没落伯爵家の令嬢でも。


侯爵家に生まれた近衛騎士でもない。


古代文字を読む者でも。


剣を振るう者でもない。




ただのエレノアと。


ただのシリルとして。


二人は手を取り合い、黒い石板の待つ祭壇へ歩き始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ