20話 知恵の祠⑤―地に置け―
20話 知恵の祠⑤―地に置け―
巨大な黒い影は、湖の底を円を描くようにゆっくりと進んでいた。
青い水の奥深くに沈んでいるため、その輪郭までは見えない。
ただ、長い尾のようなものが揺れるたび、水面へ幾重もの波紋が静かに広がっていく。
リアナが小さく息を呑んだ。
「……何か、生き物がいるのでしょうか。」
「分からん。」
ガレスは剣を構えたまま、湖から目を離さずに答えた。
騎士たちの間へ、一瞬で緊張が走る。
シリルもまた、エレノアを庇うように半歩前へ出た。
剣の柄へ添えた右手には、いつでも抜き放てるだけの力が込められている。
エレノアはその背に守られながらも、湖の中央から目を離さなかった。
黒い影は一行の存在に気づいているのか、祭壇へ続く石道の周囲を何度も巡っている。
しかし、水面へ浮かび上がろうとはしない。
こちらへ向かってくる様子もなかった。
「動きに規則性があります。」
エリオットが静かに呟いた。
恐れよりも先に、影の軌道を見極めようとしている。
「祭壇を中心に、ほぼ一定の距離を保っています。生き物なら、もう少し動きに揺らぎがあってもよいはずです。」
「では、あれも遺跡の仕掛けだと?」
ガレスが尋ねる。
「その可能性があります。」
エリオットは湖の縁へ一歩近づこうとした。
だが、その前へシリルの腕が伸びる。
「近づくな。」
「承知しています。ここから確認します。」
エリオットは素直に足を止めると、手帳を取り出し、湖と影の位置関係を描き始めた。
その傍らで、アルヴィンは地下空間全体を見回していた。
「この湖そのものも、自然にできたものではないのでしょう。」
壁面には、一定の間隔で四角い水口が穿たれている。
そこから絶え間なく流れ落ちる水は、細い滝となって湖へ注いでいた。
水位は湖の縁ぎりぎりまで達している。
それほど大量の水が流れ込んでいるにもかかわらず、溢れた跡はどこにもない。
「流れ込む量と同じだけの水が、どこかから排出されているはずです。」
アルヴィンの言葉を受け、エレノアは湖の周囲へ目を凝らした。
岸辺には、人の手で築かれた低い石壁が巡らされている。
その表面には波を象った文様とともに、いくつもの古代文字が刻まれていた。
「文字があります。」
エレノアが指し示すと、全員の視線が集まった。
だが、石壁へ近づくには、亀裂の入った床を進まなければならない。
シリルが先に足を踏み出した。
剣の鞘で石床を一つずつ軽く叩き、内部が空洞になっていないことを確かめる。
数歩先まで調べ終えると、彼はエレノアを振り返った。
「歩けるか。」
「はい。」
「足元を見ろ。」
短く告げ、右手を差し出す。
エレノアは、その手を見つめた。
これまでにも腕を支えられたことはある。
危険な場所で助けてもらうことも、今では珍しくなくなっていた。
けれど。
こうして正面から差し出された手へ、自分の手を重ねるのは初めてだった。
なぜか、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「……失礼します。」
そっと手を重ねる。
厚い革手袋越しでも、シリルの手が大きく、力強いことが分かった。
彼は何も言わず、エレノアの歩調に合わせて進み始めた。
一歩。
また一歩。
足を置く場所を示しながら、彼女の身体が傾けばすぐ支えられる距離を保っている。
ほんの数歩の道のりだった。
それなのに岸へ辿り着き、手が離れた瞬間。
エレノアは、指先にわずかな寂しさが残ったように感じた。
けれど、その理由を考えるより先に、目の前の古代文字へ意識を戻した。
アルヴィンとエリオットも、騎士たちに足場を確認してもらいながら岸辺へ近づいてくる。
碑文は、湖を囲む石壁に沿って長く続いていた。
一部は水に濡れ、文字の縁が摩耗している。
それでも、読むことはできる。
エレノアは最初の一文を目で追った。
「『知を求める者よ』」
静かな地下空間へ、澄んだ声が響く。
「『黒き石を望むならば、水を越えよ』」
オーウェンが祭壇へ続く石道を見た。
「見たままだな。あの道を渡れってことだろう?」
「まだ続きがあります。」
エレノアは次の行へ視線を移した。
「『されど、己が重みを知らぬ者に、道は応えない』」
「重み?」
リアナが首を傾げる。
「身体の重さを量るのでしょうか。」
「それだけではないと思います。」
アルヴィンが碑文を見つめながら答えた。
「古代語における『重み』は、実際の重量だけでなく、責任や地位、あるいは人の価値を表すこともあります。」
エレノアも頷き、その先を読み進める。
「『王も、賢者も、民も、水の前では一人の人である』」
全員の脳裏へ、先ほどの広間に並んでいた三体の像が浮かぶ。
王。
学者。
民。
この湖でもまた、同じ三者が示されていた。
エレノアは次の一文を読む。
「『冠を置け。名を置け。誇りを捨てよ』」
その言葉が響いた瞬間、場の空気がわずかに変わった。
しかしエレノアは、刻まれた文字を見つめたまま黙っている。
「どうした。」
すぐそばからシリルが尋ねた。
「……この訳では、少し違う気がします。」
エレノアは文字の輪郭を視線でなぞる。
「『捨てる』という意味にも使われる文字です。ですが、さらに古い用法では――」
一度言葉を切る。
「『地へ置く』という意味になります。」
アルヴィンが僅かに身を乗り出した。
「地へ置く……。」
「はい。」
エレノアは改めて碑文へ目を向け、正確な意味を確かめるように読み上げた。
「『冠を地に置け』」
「『名を地に置け』」
「『誇りを地に置け』」
水音だけが響く。
「ここでいう『名』は、単なる姓名や家名ではありません。」
エレノアは説明を続けた。
「称号や身分、これまで築いてきた名声まで含む言葉です。」
エリオットは祭壇へ続く石道を見た。
「道を渡る前に、己の身分を示すものを置け、ということでしょうか。」
「おそらくは。」
その言葉を受け、全員が石道の入口へ目を向けた。
そこには、低い台座が置かれていた。
湖と中央の祭壇へ目を奪われ、これまで誰も気づかなかったのだ。
台座の表面には、三つの浅い窪みが並んでいる。
一つは、円形。
一つは、細長い形。
最後の一つは形が定まらず、何を収めるためのものか判然としない。
ガレスが窪みを覗き込んだ。
「冠と、名と、誇り。」
低く呟く。
「だが、ここには冠を持つ者はいない。」
「おそらく、碑文どおりの品を求めているわけではありません。」
エリオットが台座の周囲を調べながら答える。
「円形の窪みは、徽章や印章を置く場所に見えます。」
指先で触れないように形を確かめる。
「細長い窪みは……剣、あるいは杖でしょうか。」
その言葉に、騎士たちの表情が引き締まった。
剣を置く。
それは、武器を手放すことを意味する。
まして、正体の分からない黒い影が潜む湖を渡る前に。
オーウェンが苦笑した。
「なるほど。騎士にとっての誇りは剣、というわけか。」
「間違ってはいないでしょうね。」
クラウディアは静かに答えた。
けれど、その手はまだ剣の柄から離れていない。
ガレスは、湖の奥を巡る黒い影を見据えた。
「武器を置いて進めば、あれに襲われたとき対処できない。」
「ですが、剣を持ったままでは道が開かない可能性があります。」
エリオットが石道を指し示す。
よく見れば、祭壇へ続く道は完全には繋がっていなかった。
湖の中央へ至るまでに、石が大きく欠けている箇所がいくつもある。
飛び越えられる距離ではない。
祭壇へ辿り着くためには、何らかの仕掛けを動かし、失われた道を浮かび上がらせる必要があるのだろう。
エレノアは、もう一度碑文を見た。
――王も、賢者も、民も、水の前では一人の人である。
――冠を地に置け。
――名を地に置け。
――誇りを地に置け。
この問いは、知識だけを試しているのではない。
自分を何者だと考えているのか。
その立場へ固執せず、一人の人間として石板の前へ立てるかどうかを問うている。
「この祠は、石板を持ち出そうとする者へ問いかけているのだと思います。」
エレノアの言葉に、一同が振り返った。
「石板を得た者は、大きな知識を手にすることになります。」
湖の中央に置かれた、黒い石板へ目を向ける。
「その知識を、自らの地位や名誉のために利用しないと示さなければならないのではないでしょうか。」
アルヴィンが静かに頷いた。
「ヴァレシアの人々が恐れていたのは、知識そのものではない。」
「それを一部の者が独占し、自らの力とすることだったのでしょう。」
「先ほどの試練とも繋がっていますね。」
エレノアは湖の水面を見つめた。
「水を誰か一人のものにしてはいけない。」
「王も、学者も、民も、それぞれ異なる役割を持っています。けれど、その恵みを独占する権利は誰にもない。」
「今回も、知識を得ようとする者へ同じ覚悟を求めている。」
エリオットが言葉を引き取る。
「身分も。」
「名声も。」
「武力も持ち込まず。」
静かに台座へ目を向ける。
「ただ一人の人間として、石板の前へ立てということなのでしょう。」
リアナも三つの窪みを見つめた。
円形の窪み。
細長い窪み。
そして、何を置くべきか分からない最後の窪み。
「意味は分かりました。」
彼女は小さく息を吐く。
「でも――」
全員が、沈黙したまま台座を見つめる。
「私たちは、ここへ何を置けばいいのでしょう。」
その問いに答える者は、まだいなかった。
湖の底では、巨大な黒い影が変わらず祭壇の周囲を巡り続けている。
まるで。
一行が何を差し出すのかを、静かに待っているかのように。




