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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第二章 知恵の石板

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19話 知恵の祠④―巡る恵み―

19話 知恵の祠④―巡る恵み―



エリオットがしゃがみ込み、溝の構造を観察する。


「今は三本とも石の栓で塞がれている。

仕掛けを正しく作動させれば、器の水が三体の像へ流れるのでしょう。」


「では、杯を使って注ぐ必要はないのですか?」


リアナが尋ねた。


「それなら、なぜ杯が置かれているのでしょう。」


アルヴィンの問いに、エレノアは石台の上を見た。


たった一つの杯。


人の手で一人を選び、その者だけへ水を与えることもできる。


けれど床の下には、三者すべてへ水を送るための仕組みが隠されていた。


目に見える方法を選ぶか。


見えない繋がりを探すか。


「この杯は……試すために置かれているのかもしれません。」


エレノアは呟いた。


「水が足りないと思わせて、誰か一人だけを選ばせるために。選ばなければ、何も起きない可能性もあります。」


エリオットが慎重に答える。


「ですが、一度注いだ水を戻せるとは限りません。先に構造を完全に把握すべきでしょう。」


「ええ。」


エレノアは三体の像を順に見上げた。


偉大な王。


知識を持つ学者。


大地を耕す民。


これまで残された歴史の中では、王と学者の名ばかりが語られてきた。


けれど、この祠の壁に刻まれていたのは、日々を生きる人々の姿だった。


ヴァレシアの人々が本当に伝えたかった答えは、どこにあるのだろう。


そのとき、アルヴィンが王の像の足元に屈み込んだ。


「エレノアさん、こちらにも文字があります。」


王の水盤の縁には、目立たぬほど小さく古代文字が彫られていた。


学者と民の水盤にも、同じように一文ずつ刻まれている。


エレノアは順番に読み取った。



王の足元には――『我なくば、国は乱れる』


学者の足元には――『我なくば、知は失われる』


民の足元には――『我らなくば、国が崩れる』



三者とも、自らの必要性を訴えていた。


だが、一つだけ奇妙な点がある。


エレノアは民の像の前で、もう一度文字を見直した。


「この文章だけ、言葉の形が違います」


「どう違うのです?」


アルヴィンが隣へ来る。


「王と学者は、自分自身について語っています。『我なくば』と」


エレノアは、穀物の籠を抱える民の像を見上げた。


「けれど民の言葉は、正確には『我らなくば』です」


一人ではない。


名もなき多くの人々。


王も学者も、その人々の働きによって生かされている。


エリオットが立ち上がった。


「つまり、三者は同じ立場ではない」 


「民だけが最も重要だという意味でしょうか」


リアナが尋ねる。


エレノアはすぐには頷かなかった。


誰か一人だけを潤す者に、真なる知恵は与えられない。


民だけを選ぶこともまた、碑文の教えに反してしまう。


「違うと思います。」


静かに答える。


「これは、誰が最も上に立つかを決める問いではありません。」


エレノアは中央の器へ戻った。


水面には三体の像が揺らいで映っている。


「王は国を治め、学者は知を導き、民は大地を育む。それぞれの役割は違います。けれど、どれか一つが他を独占してはならない。」


アルヴィンが、はっと息を呑んだ。


「ヴァレシアの水利制度……」


「先生、何かご存じなのですか?」


「古い文献に、わずかな記述があります。ヴァレシアでは、水源は王の所有物ではなく、すべてから預かったものとされていた、と。」


アルヴィンの声に熱が籠もる。


「王は水を所有するのではなく守る。学者は知識を独占するのではなく、正しく導く。そして民は与えられた恵みを使い、次代へ繋ぐ。三者は上下ではなく、一つの循環だったのです。」


「循環……。」


エレノアはその言葉を繰り返した。


壁に刻まれていた人々の暮らし。


円を描いて並んでいた石柱。


交差したあと、一つに合流して再び三方へ分かれた水。


この祠では、初めから同じ考えが何度も示されている。


恵みは誰か一人のものではない。


受け取り、使い、そして次へ返すもの。 


エレノアは器を見つめた。


「……この水を、像へ直接与えるのではありません。」


「じゃあ、どこへ?」


オーウェンが尋ねる。


エレノアは石の杯へ手を伸ばした。


杯を持ち上げると、その下に小さな窪みが現れた。


円の中に、三本の波線。


迷路の壁や行き止まりで何度も見た、水を表す印だった。


「ここです。」


エリオットがすぐに窪みを覗き込む。


「杯で水を汲み、この窪みへ戻す?」


「おそらく。」


エレノアは頷いた。


「水を誰か一人へ与えるのではなく、水源へ返すんです。そうすれば床下の水路を通り、三者へ分け与えられる。」


「受け取る前に、まず返すということですね。」


アルヴィンが微笑んだ。


それは、この場所が求める者の品位を試す行為でもあった。


知識を得るために、目の前の恵みを奪うのか。


それとも、それが皆のものであると理解し、正しい場所へ返すのか。


「やってみましょう。」


エレノアは石の杯で、器の水を一杯だけ汲んだ。


澄んだ水が、杯の中で青白く揺れる。


窪みへ注ごうとしたところで、シリルが低く告げた。


「待て。」


エレノアは動きを止めた。


シリルは周囲を見回し、騎士たちが安全な位置へ下がったことを確認する。


それから、彼女の隣へ立った。


「何かあったら、すぐ下がれ。」


「はい。」


「…俺がやるか?」


エレノアは少し驚いて彼を見上げた。


代わりに危険を引き受けようとしているのだ。


けれど、この問いに答えるべきなのは、古代文字を読み、ここまで考えを繋いできた自分なのだと思った。


「ありがとうございます。でも、私にさせてください。」


シリルは何も言わず、エレノアを見つめた。


やがて短く息を吐く。


「分かった。」


それでも彼は離れず、エレノアのすぐ横へ立ったままだった。


背中を押されるように、杯を傾けた。


透明な水が、石台の窪みへ流れ込んでいく。


最後の一滴が落ちる。


エレノアは静かに窪みを見つめた。


「……還したから。」


その小さな呟きだけが、広間に静かに溶けていく。


誰も言葉を発しなかった。


水の音だけが響く。


リアナが不安そうにエレノアを見つめる。


「……違ったのでしょうか。」


その声が漏れかけた――


コトン。


石台の奥で、小さな音が鳴った。


続いて、床の下から水の流れる音が響き始める。


最初はかすかだった音が、次第に大きくなる。


三本の細い水路を水が走り、王、学者、民、それぞれの像の足元へ辿り着いた。


乾いていた水盤が、同時に潤っていく。


けれど、器から汲んだのはわずか一杯だけだった。


「水の量が増えている……?」


リアナが目を見張る。


エリオットは器の下部を見つめた。


「外部の水路と繋がったのでしょう。最初の一杯が栓を開く鍵になっていた。」


やがて、水盤が満ちると、三体の像の輪郭をなぞるように、古代文字が淡く輝き始めた。


王の持つ杖。


学者の抱える書物。


民の籠に入った穀物。


三つの光は像の頭上で交わり、一つの円を描く。


そして正面の石扉へ、光の筋となって伸びていった。


 ゴゴゴゴゴ――


広間を揺らす重い音とともに、石扉がゆっくりと上がり始めた。


冷たい空気が、開いた隙間から流れ込んでくる。


その奥には、暗闇の中へ続く階段があった。


階段の両脇には、これまでよりも強い青い光が灯っている。


試練を越えた者を招くように、祠の最深部へ向かって続いていた。


「正解だったのですね」


リアナが安堵の息をつく。


「見事です、エレノアさん。」


アルヴィンの顔には、研究者としての喜びと、研究仲間を誇るような温かな笑みが浮かんでいた。


「私一人では分かりませんでした。」


エレノアは首を横へ振る。


「アルヴィン様が歴史を教えてくださって、エリオット様が仕組みを確かめてくださったからです」


「ですが、最後にすべてを繋いだのはあなたです。」


エリオットが穏やかに答えた。


「古代の人々が残した言葉を、ただ訳すのではなく、その考えまで読み取った。それは私にはできません。」


エレノアは返す言葉を失った。


特別な才能があるとは思っていない。


父と積み重ねてきた時間があり、読めない文字を一つずつ調べ、何度も間違えながら学んできただけだ。


それでも今、その知識が三千年前の人々の思いへ届いたのだとしたら。




学び続けてきた日々は、決して無駄ではなかった。






「行くぞ。」


隣からシリルの声がした。


彼は開いた石扉の先、暗い階段の奥を見据えている。


そして、ごく自然な動作でエレノアの前へ立った。


危険があれば、真っ先にその身で受け止めるつもりなのだろう。


エレノアは、その広い背中を見つめた。


祠へ入ってから、彼は何度も何も言わずに彼女を守ってくれた。


目立つ言葉も、優しい微笑みもない。


けれど彼の行動は、言葉よりもずっと真っ直ぐだった。


エレノアの胸に、柔らかな温かさが広がる。


「はい」


小さく微笑み、彼のあとを追った。






一行が階段を下り始めると、背後で石扉がゆっくりと閉じていく。


先ほどまでの広間の光が細くなり、やがて完全に途切れた。


代わりに、階段の先から青い光が強く差し込んでくる。


降りるほど、水の流れる音が大きくなった。


地下深くを流れる、大きな川のような響きだった。




長い階段の終わりへ辿り着いたとき、エレノアの前を歩いていたシリルが足を止める。


「これは……」


普段ほとんど表情を変えない彼が、わずかに目を見開いた。


エレノアもその隣から、奥を覗き込む。


そして、息を呑んだ。


目の前には、巨大な地下空間が広がっていた。


暗い天井から幾筋もの水が滝となって流れ落ち、その水を受ける円形の湖が青く輝いている。


湖の中央には、石造りの細い道が一本だけ伸びていた。


その先にあるのは、小さな島。


島の中央には、四本の柱に囲まれた黒い祭壇が立っている。


黒い祭壇の上には、周囲の青い光を一切映さない、黒い石板が置かれていた。


探し求めていたものが、ついに目の前に現れる。


だが、エレノアは喜びより先に、強い違和感を覚えた。


祭壇へ続く石の道には、いくつもの亀裂が走っている。



そして湖の水面には、




何か巨大なものが沈んでいるような、




黒い影がゆっくりと動いていた。



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