18話 知恵の祠③―受け継がれた想い―
18話 知恵の祠③―受け継がれた想い―
新たに現れた回廊は、これまで進んできた通路とは明らかに造りが異なっていた。
人が二人並んで歩けるほどだった道幅は、騎士たちが余裕をもって剣を振るえるほどに広がっている。
高い天井からは細い鍾乳石のような岩が垂れ、その先に溜まった水滴が、時折音もなく床へ落ちていた。
「これは……。」
足を止めかけたエレノアの前で、シリルも歩みを緩めた。
壁には、長い石の浮き彫りが続いていた。
王の戴冠や戦の勝利を描いたものではない。
水路を掘る人々。
壺を抱えて水を運ぶ女性。
畑に種をまく者と、実った穀物を刈り取る者。
小さな子どもの手を引きながら、石造りの橋を渡る老人。
そこに刻まれているのは、名も残らなかったであろう人々の日々の暮らしだった。
「王や貴族ではなく、民の姿ばかりですね。」
リアナが壁を見上げ、感心したように呟いた。
アルヴィンは浮き彫りの前へ歩み寄った。
いつもは穏やかな彼の表情に、隠しきれない興奮が浮かんでいる。
「これほど大規模に庶民の生活を記録した遺構は、ほとんど発見されていません。ヴァレシア王国に関する現存資料の多くは、後世の歴史家が書き残したものですから。」
「後世の歴史家が書いた記録と、当時の人々が直接残したものでは、意味が違うということですね。」
エレノアが尋ねると、アルヴィンは深く頷いた。
「ええ。歴史書には、ヴァレシアは一人の偉大な王によって建国され、繁栄した国だと記されています。
しかし、この浮き彫りには王の姿が一つもない。」
エリオットが手帳へ簡素な図を描きながら、壁の並びを目で追った。
「水路を造る者の次に、それを管理する者。さらに水を使って作物を育てる者が続いている。先ほどの試練と同じ思想が表されていますね。」
守る者。
導く者。
育む者。
どれか一つだけでは、人の暮らしは成り立たない。
偉大な王一人の力で国が栄えたのではなく、数え切れないほどの人々がそれぞれの役目を果たした。
だからこそ、ヴァレシアは繁栄したのだ。
「この祠を造った人たちは、それを後世へ伝えたかったのでしょうか。」
エレノアは、石に刻まれた人々を見つめた。
名は分からない。
声を聞くこともできない。
それでも、彼らが何を大切にし、どのように生きていたのかは、
三千年という時を越えて確かに伝わってくる。
「おそらくは。」
アルヴィンは静かに答えた。
「歴史は、ともすれば王や英雄だけのものになってしまいます。」
「けれど、本来そこに生きたすべての人間のものです。」
エレノアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
幼い頃、父とともに古びた書物を開いた日のことを思い出す。
文字を読めるようになったばかりのエレノアに、父は何度も教えてくれた。
――書かれている言葉だけを見るのではなく、その言葉を残した人が何を思っていたのかを考えなさい。
――古代文字を読むということは、記号を別の言葉へ置き換えるだけではない。
――その向こうにいた人々の思いを、もう一度この世界へ呼び戻すことなのだ。
浮き彫りに見入っていたエレノアの耳へ、低い声が届く。
「遅れるな。」
振り向くと、エレノアより二歩ほど先で、シリルが立ち止まっていた。
叱るような口調ではない。
一行から離れすぎないよう、彼女を待っていたのだと気づき、エレノアは慌てた。
「申し訳ありません。つい夢中になってしまって。」
「謝る必要はない。」
シリルはそう言うと再び歩き始めた。
先ほどよりも、わずかにゆっくりとした足取りで。
エレノアはその隣を歩きながら、壁へ目を向けた。
「ヴァルモント様は、こういった遺跡にはご興味がおありですか?」
「詳しくはない。」
やはり返ってきたのは短い言葉だった。
「そうですか。」
「だが。」
一度言葉を切り、シリルは浮き彫りへ視線を向けた。
「ここにいた者たちが、守ろうとしたものには興味がある。」
意外な答えに、エレノアは瞬いた。
シリルは騎士だ。
王と国を守るために剣を取る彼にとって、この場所を造った者たちの思いは、決して無関係なものではないのかもしれない。
「……私もです。」
エレノアが微笑むと、シリルは一瞬だけ彼女を見た。
青い瞳が、苔の光を映してわずかに和らぐ。
けれど何も言わず、すぐに前方へ向けられた。
少し後ろを歩いていたリアナが、後方のクラウディアへそっと顔を寄せる。
「今の、聞きました?」
「前を見なさい。」
クラウディアは素っ気なく返したが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
◇
回廊を進むにつれ、壁の浮き彫りは少しずつ変化していった。
水によって栄える街。
大きな貯水池。
幾重にも張り巡らされた水路。
やがて、豊かな実りを喜ぶ人々の姿が途切れ、空を見上げる者たちが増えていく。
雲のない空。
底が見えるほど水位の下がった水路。
枯れた穀物を手に立ち尽くす人々。
明るかった暮らしの情景に、少しずつ影が差していた。
「干ばつでしょうか。」
エレノアの声が自然と低くなる。
アルヴィンは浮き彫りの一部を確認し、難しい表情を浮かべた。
「ヴァレシアの衰退期には、大規模な水不足が起きたのではという説があります。ただし、記録によって内容が異なる。自然災害だったというものもあれば、敵国によって水源を断たれたという記述もある。」
「どれが正しいか分かっていないのですね。」
「はい。その時代の一次資料は、ほとんど残っていませんから。」
エリオットが足を止めた。
「こちらを。」
彼が示した壁には、巨大な円形の装置らしきものが刻まれていた。
装置の中心から幾本もの線が伸び、街の各所へ繋がっている。
水路だろうか。
その前には、長い衣をまとった数人の人物が立っていた。
一人は黒い石板のようなものを掲げている。
「石板……。」
エレノアが呟く。
四つの黒い石板。
その一つが、この祠の奥にあるはずだった。
「この装置と石板には深い関わりがあるのでしょう。」
アルヴィンが言った。
「石板が単なる記録ではなく、装置を動かすための重要な部品であった可能性は高いですね。」
エリオットは浮き彫りの配置を確かめる。
「ですが、装置の周囲に描かれている石板は一枚ではありません。」
目を凝らすと、円形の装置の四方に、黒く塗られた長方形が一つずつ刻まれていた。
四つ。
「四枚すべてが揃わなければ、本来の働きをしない……?」
エレノアの胸に、得体の知れない緊張が走る。
これまで見つかった石板に刻まれていた言葉は、断片的なものだった。
それらが一つの装置に関わっているのなら、ヴァレシアが滅びた理由も、石板の中に隠されているのかもしれない。
「先へ進めば分かる。」
シリルの言葉が思考を遮った。
エレノアが顔を上げると、回廊の終わりが見えていた。
「そうですね。」
今は推測を重ねるより、残されたものを一つずつ確かめるべきだ。
◇
回廊の先には、半円形の広間があった。
一行が足を踏み入れた瞬間、壁際に張り巡らされた細い水路へ次々と水が流れ込む。
それと同時に苔の光を映して淡く輝き始める。
広間の中央には、腰ほどの高さの石台が置かれていた。
その上には、透明な水を湛えた大きな石の器がある。
水は縁のぎりぎりまで満ちていたが、流れ込む水路も、外へ流れ出す穴も見当たらない。
正面の壁には、一枚の巨大な石扉。
その左右には、人の背丈を超える三体の像が立っていた。
一体目は、冠を戴き、杖を持つ王。
二体目は、書物を抱えた学者。
三体目は、穀物の籠を持つ民。
三つの像の足元には、それぞれ浅い水盤が設けられているが、どの水盤も乾いていた。
「次の仕掛けか。」
ガレスが低く言い、周囲へ目を配る。
エリオットは中央の石台へ近づいた。
「器の水を、三つの水盤へ分けるのでしょうか。」
「それなら、なぜ像が三つに分かれているのでしょう。」
エレノアも石台の前へ立つ。
器の側面には古代文字が刻まれていた。
アルヴィンが隣へ並ぶ。
「この三つの像には、ヴァレシアの身分制度が表れているのでしょう。王は国を統べる者。学者は知識を蓄え、伝える者。そして民は、その国を支える者です。」
「どの者へ水を与えるべきか、選ばせる試練でしょうか。」
クラウディアが尋ねた。
「その可能性はあります。」
エリオットは三つの水盤を見比べた。
「ですが、器に入っている水の量を見る限り、すべてを満たすには足りないかもしれません。」
石台の脇には、小さな石の杯が一つ置かれていた。
水を汲み、像の足元へ注ぐためのものだろう。
オーウェンが顔をしかめる。
「また選べ、か。今度は王と学者と民のどれが一番大切かを決めろってことか?」
「そのような単純な問いではないと思います。」
エレノアは器の文字へ指を近づけた。
触れずに形をなぞり、一文字ずつ読み取っていく。
「最初の部分は……『知を望む者よ』」
掠れた箇所で一度言葉を止める。
「『己が何者であるかを示せ』」
その場にいる全員が、石の器と三体の像を見た。
さらに下には、もう一つ文章が続いている。
『王は国を治める』
『賢者は知を導く』
『民は大地を育む』
ここまでは、像が表す役割を記したものに過ぎない。
だが、その下に刻まれた最後の一文を読んだとき、エレノアの表情が変わった。
「何と書いてある?」
ガレスに促され、エレノアはゆっくりと読み上げた。
「『ただ一人のみを潤す者に、真なる知恵は与えられない』」
広間に沈黙が落ちた。
オーウェンが腕を組む。
「一人だけを選ぶな、ということか。だが、水が足りないんだろ?」
エリオットは石の杯を持ち上げ、内側の容量を確かめた。
三つの水盤はいずれも中央の器とほぼ同じ容量に見える。
器一杯の水を三つへ均等に分けても、底を浅く濡らす程度にしかならない。
「器の水を正確に量らなければ断言できませんが、少なくとも三つの水盤を同じ深さまで満たす量はありません。」
「均等に分けるだけでは、足りない……。」
リアナが不安げに呟く。
エレノアは器の中を覗き込んだ。
澄んだ水面に、青白い光と自分の顔が映っている。
王。
学者。
民。
誰か一人を選べば、残る二人は乾いたままになる。
けれど、全員を満たそうとしても水は足りない。
先ほどの試練とは違う。
今度は、仕組みだけを読み解けばよいのではない。
何を正しいと考え、どのように行動するのか。
それを見られている。
「水を注ぐ前に、石台の構造を調べましょう。」
エリオットが言った。
「器の底や像の水盤に、隠された水路があるかもしれません。」
ガレスが頷き、騎士たちへ周囲を確認するよう指示する。
エレノアも器の側面へ回ろうとした。
その足元で、石床がわずかに濡れていることに気づく。
「……水?」
身を屈めようとした瞬間、肩を掴まれた。
「動くな。」
シリルの鋭い声が響いた。
エレノアの足元の石だけ、他より僅かに沈んでいた。
シリルはエレノアを自分の側へ引き寄せると、剣の鞘で床を軽く押した。
次の瞬間、さきほど立っていた石がさらに沈む。
小さな音を立て、石床の一部が傾く。
下には、細い水路が隠されていた。
「踏めば足を取られていたかもしれないわね。」
クラウディアが厳しい顔で言った。
「す、すみません。」
「謝る必要はない。」
シリルはエレノアの肩から手を離した。
だが、そのまま彼女と水路の間へ立つ。
エレノアは気持ちを落ち着かせ、現れた水路へ目を向けた。
細い溝は、中央の器の真下へ続いている。
そこから三方向へ分かれ、像の水盤へ繋がっていた。
「やはり、すべては一つに繋がっています。」




