15話 幻惑の森 後編
白い霧は、まるで生き物のように森を這っていた。
数歩先さえ見えない。
木々の輪郭は揺らぎ、風の音さえ遠く聞こえる。
エレノアは無意識にシリルの背中を見つめた。
広い背中が、霧の向こうへ続く道を塞ぐように立っている。
剣を構えた姿は微動だにしない。
その落ち着いた佇まいだけが、不安な心を静めてくれた。
「歩けるか。」
シリルが振り返らずに尋ねる。
「はい。」
「俺から離れるな。」
「……はい。」
二人は慎重に霧の中を歩き始めた。
やがて、木々の間から低いうなり声が響いた。
「──!」
茂みが大きく揺れる。
次の瞬間、灰色の魔物が飛び出してきた。
大熊にも似た姿。
だが、その瞳だけが不気味な紫色に光っている。
一頭ではない。
左右の茂みから、さらに三頭。
シリルは一歩前へ出た。
その瞬間、一頭目が飛びかかってくる。
鋭い牙が迫る。
しかし。
銀色の軌跡が閃いた。
一閃。
魔物は悲鳴を上げて地面へ転がる。
間髪入れず二頭目。
身体を捻り、その勢いを利用して剣を振り抜く。
木漏れ日を受けた刃が弧を描いた。
三頭目は背後から襲いかかる。
シリルは振り返ることなく身を沈めると、振り返りざまに剣を逆手へ持ち替えた。
突き上げた刃が、獣の急所を正確に貫く。
ほんの数息。
三頭の魔物は動かなくなった。
残る一頭だけが唸り声を上げながら後退する。
シリルは追わない。
エレノアの前から動かなかった。
ただ静かに剣先を一頭に向ける。
「帰れ。」
低く告げた。
魔物は怯えるように耳を伏せ、森の奥へ姿を消した。
静寂が戻る。
エレノアは思わず息を吐き、紺色の背中に声をかけた。
「お怪我は……。」
「ない。」
剣を払う。
血を振り落とし、静かに鞘へ納める。
まるで何事もなかったかのようだった。
「……さすがです。」
エレノアが素直に言うと、シリルは少しだけ困ったように目を伏せた。
「なんてことはない。」
その時だった。
一歩を踏み出そうとしたエレノアの、足元の苔が崩れる。
「きゃっ……!」
身体が傾いた。
転ぶ。
そう思った瞬間。
力強い腕が支えてくれた。
ほんの一瞬。
互いの距離が驚くほど近くなる。
エレノアは慌てて姿勢を立て直した。
「も、申し訳ありません。」
「謝る必要はない。」
シリルは静かに周囲を見回す。
「この森は足場まで惑わせる。」
そう言うと、自然な動作でエレノアの歩幅に合わせて歩き始めた。
木の根があれば先に踏み越え、
枝があれば払う。
ぬかるみでは必ず立ち止まり、安全を確かめる。
いつの間にか、エレノアは足元よりも、少し先を行く濃紺の背中を見て歩くようになっていた。
◇
しばらく歩いた頃。
エレノアがぽつりと呟く。
「皆さん……無事でしょうか。」
「無事だ。」
迷いのない返事だった。
「ガレス副団長も、クラウディアもいる。」
シリルは静かに続ける。
「必ず合流する。」
エレノアは少し安心したように微笑む。
「ありがとうございます。」
シリルはその笑顔を見て、小さく息を吐く。
そしてエレノアの半歩前へ立った。
霧の中で彼の背中だけが、進むべき方向を示しているように見えた。
◇
一方その頃。
霧の向こうではガレスたちも互いを見失っていた。
「リアナ!」
クラウディアが声を上げる。
「こちらです!」
霧の中から返事が返る。
ほどなくして数人が合流した。
「皆さん、ご無事でしたか。」
そこへエリオットも姿を現す。
「ああ。だが、シリルとアシュフォード嬢だけが見当たらん。」
ガレスが周囲を見回す。
「……シリルなら大丈夫でしょう。」
クラウディアは落ち着いた声で言った。
「ええ。……シリルなら、アシュフォード嬢を一人にはしません。」
オーウェンは霧の奥を睨んだまま、わずかに口元を緩めた。
「たぶん今頃、過保護なくらい守ってます。」
「過保護?」
リアナが首を傾げる。
「……何でもない。」
クラウディアはその横で微笑むだけだった。
◇
その頃。
シリルとエレノアは、再び双子杉へ戻っていた。
「……戻ってしまいました。」
エレノアが驚く。
確かに歩き続けたはずなのに。
目の前には、あの二本の大杉が立っていた。
そこへ霧の中から声がした。
「エレノア様!」
「リアナ様!」
全員が次々と姿を現す。
「よかった……。」
安堵の空気が流れる。
しかしエリオットだけは険しい表情で地面を見つめていた。
「分かりました。」
皆が振り向く。
「この森は、私たちを迷わせていたのではないのかもしれません。」
「どういうことだ?」
ガレスが尋ねる。
エリオットは静かに答えた。
「何度進んでも、必ずこの場所へ戻された。ということは、ここで答えを見つけるまで、知恵をしぼれ、ということなのではないでしょうか。」
「知恵……。」
エレノアは石版の言葉を思い返した。
――『知恵を求める者にのみ、道は開かれる。』
(ただ探すだけでは駄目なんだ……。)
「……そうです。」
小さくエレノアが呟く。
「私たちは、ずっと入口を探していました。」
エリオットも頷いた。
「ええ。」
「ですが石板は、入口を探せとは書いていません。」
エレノアの瞳が輝く。
「『双子杉のある丘』ではなく、『双子杉の影差す丘』……」
彼女は二本の杉を見上げた。
「祠の場所を示しているのではありません。二本の影が、入口を示す時を待てという意味なのではないでしょうか。」
「……なるほど。だから地図だけでは辿り着けなかったのですね。」
エレノアとエリオットの話を聞いて、ガレスが空を見上げる。
太陽はゆっくりと西へ傾き始めていた。
「待つしかないな。」
一行は双子杉の下で静かに時を待った。
やがて。
太陽がさらに傾く。
二本の杉が落とす影が、ゆっくりと地面を伸びていく。
そして──
二つの影が重なった。
その瞬間。
森を覆っていた白い霧が、風に溶けるように消え始める。
苔に覆われ、今まで見えなかった地面の文様が青白く輝き始めた。
木々が淡く青色に光り、空気が震える。
地面に刻まれていた古代文字も、共鳴するように青白い光を放つ。
「これは……!」
歴史学者のアルヴィンが息を呑む。
苔に覆われていた石畳が現れ、
その中央がゆっくりと左右へ開いていく。
重々しい石の音が森へ響いた。
地下へ続く長い石階段。
その先には、淡い蒼い光が静かに揺れている。
リアナは思わず息を呑んだ。
「見えた……。」
オーウェンも目を丸くする。
「今まで何もなかったのに……。」
クラウディアは静かに腰の剣へ手を添えた。
「森が、私たちを試していたのね。」
ガレスはゆっくり頷く。
「総員、警戒。」
「これより地下へ入る。」
エレノアは静かに階段を見つめた。
シリルは何も言わず、エレノアの隣へ立つ。そして、彼女を守るように半歩前へ出た。
ガレスを先頭に、一行は地下へ続く階段へ足を踏み入れていく。
エレノアもまた、その背中を追うように静かに歩き出した。
二千年以上前。
ヴァレシアの人々が、この場所へ何を残したのか。
知恵を求める者だけに開かれるという、第二の試練。
その答えは、この先にある。




