16話 知恵の祠①―古代の試練―
16話 知恵の祠①―古代の試練―
地下へ続く石段は、想像していたよりも深かった。
一段、また一段と足を進めるたび、森の気配が遠ざかっていく。
背後から差し込んでいた夕暮れの光も、やがて細い筋となり、最後には完全に見えなくなった。
それでも、暗闇にはならなかった。
石段の両脇に生えた苔が、淡い青緑色の光を放っている。
無数の小さな光が岩肌に沿って連なり、深い水の底へ降りていくように、一行の足元を静かに照らしていた。
「綺麗……。」
リアナが小さく息を漏らす。
普段なら明るく響く声も、ここでは自然と囁くようなものになっていた。
光る苔は一つ一つが星のように瞬き、濡れた石壁にその光を反射させている。
天井から落ちた水滴が石段へ触れるたび、澄んだ音が響いた。
その音は幾重にも重なり、祠の奥へと吸い込まれていく。
エレノアは足を止めないまま、目を凝らした。
「この苔は……自然に生えたものでしょうか。」
「分かりません。」
歴史学者のアルヴィンが壁を見つめながら答える。
「少なくとも、私はこのような苔を文献で読んだことがありません。太陽の光が届かない場所で、これほど強く発光するものは珍しいでしょうね。」
「祠を築いた者たちが、育つように手を加えた可能性もあります。」
エリオットが苔へ顔を近づけた。
触れることはせず、一定の距離を保ったまま観察している。
「水分は豊富です。壁の内側に水が通っているのかもしれません。」
エレノアは耳を澄ませた。
水滴の音とは別に、低く絶え間なく流れる音がする。
石壁の向こうを、細い水路が走っているかのようだった。
「ヴァレシア文明は、水を扱う技術に優れた文明だったと伝わっています。」
エレノアが呟く。
「この光も、水の流れを利用して維持されているのでしょうか。」
「あり得ますね。」
アルヴィンの声には、研究者らしい興奮が滲んでいた。
先頭を歩くガレスが片手を上げた。
一行は足を止める。
「ここから先は広くなっている。」
ガレスの声が、石壁へ反響した。
オーウェンが先に進み、周囲を確認する。
「異常ありません。」
その言葉を受け、一行は最後の数段を下りる。
そこには、広い円形の空間が広がっていた。
エレノアは思わず立ち止まる。
天井は高く、闇の中へ溶け込んでいる。
壁一面を覆う光る苔が、空間全体を青白く照らしていた。
中央には浅い水盤があり、どこから流れ込んでいるのか、澄んだ水が静かに満ちている。
水盤の周囲には、等間隔に八本の石柱が立っている。
どれも長い年月を経たはずなのに、大きく崩れた様子はない。
表面には人や動物ではなく、波や雲、木々、穀物の穂などが細やかに彫られていた。
「神像がありませんね。」
リアナが周囲を見回す。
「祠というから、神様を祀っているのかと思っていました。」
「私もそう考えていました。」
エレノアは石柱へ近づいた。
「けれど、ここに刻まれているのは、人々の暮らしに関わるものばかりです。」
水。
雨。
森。
大地。
実り。
人が生きるために必要なものが、円を描くように並んでいる。
アルヴィンも静かに頷いた。
「ヴァレシアの人々にとって、神聖なものとは特定の神ではなかったのかもしれません。」
「では、何を祀っていたんだ?」
オーウェンが尋ねる。
アルヴィンは少し考えてから、水盤を見た。
「自然の恵みと、それを正しく扱うための知恵……でしょうか。」
その言葉に、エレノアは石板の一文を思い出した。
――知恵を求める者にのみ、道は開かれる。
ここは祈りを捧げるためだけの場所ではない。
知恵を受け継ぐ者が、その資格を示すための場所なのだ。
水盤の向こうには、三つの通路が口を開けていた。
どれも同じ大きさで、同じ形をしている。
左右の壁に生えた苔の量まで似ており、遠目には違いが分からない。
ガレスが眉を寄せた。
「三方向か。」
「どれが正しい道でしょう。」
クラウディアが各通路へ視線を向ける。
エリオットは鞄から紙と炭筆を取り出した。
「まず、この広間を記録します。」
迷いのない手つきで、空間の形と石柱の位置を書き写していく。
シリルはエレノアの近くに立ったまま、三つの通路を順に見据えていた。
「何か分かるか。」
突然声をかけられ、エレノアは驚いて顔を上げた。
「まだ、はっきりとは。」
そう答えてから、改めて三つの通路を見比べる。
「ですが……違和感があります。」
「どこだ。」
シリルの問いに、エレノアは中央の通路を指した。
「あの入り口だけ、上部の石が少し黒ずんでいます。」
言われてみれば、中央の通路の天井近くには、薄い煤のような跡が残っている。
リアナが目を細めた。
「松明の跡でしょうか。」
「可能性はあります。ただ、この祠へ近年人が入った形跡はありません。」
エリオットが記録の手を止める。
「古い時代に、中央の道だけ頻繁に使われていた?」
オーウェンが中央の通路へ一歩近づく。
剣の柄へ手を添えながら、入口の奥を見据えた。
「風はない。」
次に左の通路へ移る。
「こちらも同じだ。」
右の通路も確認したが、音も空気の流れもほとんど変わらない。
「分かれて進むのは避けるべきでしょう。」
クラウディアが言った。
「この人数であれば、全員で一つずつ確かめる方が安全です。」
ガレスは頷いた。
「まず中央だ。痕跡がある以上、何かが残されている可能性が高い。」
隊列を整え、一行は中央の通路へ進んだ。
通路は人が二人並んで歩けるほどの幅だった。
床も壁も平らな石で組まれており、地上の遺跡よりはるかに保存状態が良い。
光る苔は壁の割れ目に沿って生え、細い線となって奥へ続いている。
その光の中を、エレノアは慎重に歩いた。
先頭はオーウェンとガレス。
その後ろをリアナとアルヴィンが進み、中央にシリル、エレノア。
最後尾はエリオットと、クラウディアたちが固めていた。
歩き始めて間もなく、通路は二つに分かれた。
さらに進むと、また二つに分かれる。
最初は簡単に記録できていたが、曲がり角が増えるにつれ、構造は急速に複雑になっていった。
右へ曲がったはずなのに、しばらくすると左側から水盤の広間に似た水音が聞こえる。
壁の模様も似通っていた。
「まるで迷路ですね。」
リアナが声を潜める。
「それも、侵入者を惑わせるために作られた迷路です。」
エリオットは紙へ線を書き加えながら答えた。
「通常の建物なら、ここまで非効率な構造にする理由がありません。」
「正しい道を知る者だけが進めるようにしていたのでしょうか。」
エレノアは苔に照らされた壁を見た。
ところどころに、同じ印が刻まれている。
円の中に三本の波線。
ヴァレシアの古い水の記号だった。
「エレノアさん。」
アルヴィンが少し先の壁を指した。
「こちらにも文字があります。」
苔の陰に隠れて、短い古代文字が刻まれていた。
エレノアは近づき、手袋をした指で苔を傷つけないよう周囲を払う。
「『戻る』……です。」
「戻る?」
オーウェンが振り返る。
「この先は行き止まりという意味か?」
「その可能性もありますが……。」
エレノアは文字の形を見つめた。
「この文字には、単に引き返すという意味だけでなく、『原点を思い出す』という使われ方もあります。」
「原点。」
エリオットが呟く。
「先ほどの円形広間を指しているのでしょうか。」
「まだ分かりません。」
一行はその道を進んだ。
やがて正面に石壁が現れ、本当に行き止まりとなっていた。
「言葉通りだったか。」
ガレスが周囲を確認する。
危険な仕掛けはない。
ただ、壁の中央に円形の窪みが一つあるだけだった。
エリオットが窪みの大きさを測る。
「何かを嵌め込む場所でしょうか。」
「今は何も持っていませんね。」
アルヴィンが答える。
エレノアは窪みの内側を覗いた。
そこにも小さな波の印が刻まれている。
「この場所は覚えておきましょう。」
一行は来た道を引き返した。
しかし、最初の分岐へ戻ったところでエリオットが立ち止まった。
「おかしいですね。」
紙と周囲を見比べる。
「どうした。」
ガレスが尋ねる。
「先ほど曲がった場所と、壁の形が違います。」
エリオットの記録では、この角の右側には細い亀裂があるはずだった。
だが、実際の壁には何もない。
代わりに、反対側の壁に円と波の印が刻まれている。
「道が変わったのか?」
オーウェンの表情が強張る。
「石壁が動いた音はしなかった。」
シリルが低く答えた。
全員が周囲を警戒する。
エレノアも息を詰めたが、森で感じたような幻惑の気配はなかった。
視界が揺れることも、誰かの声が聞こえることもない。
もっと静かで、意図的な仕掛けだ。
エリオットが壁を軽く叩くと鈍い音が返る。
「壁そのものが動いたのではなく、同じ形の通路を歩かされている可能性があります。」
「同じ形の通路がいくつもあると?」
「ええ。曲がった回数や距離の感覚だけでは、現在地を把握できないよう設計されている。」
エレノアは背後を振り返った。
どこまでも似た景色が続いている。
青白い苔。
灰色の石。
一定の間隔で刻まれた水の印。
美しい。
けれど、同時に不気味でもあった。
「目印を残しますか?」
リアナが尋ねる。
「壁や床を傷つけるのは避けたいですね。」
アルヴィンが困ったように眉を下げる。
「古代の遺構ですから。」
オーウェンが腰の袋から細い縄を取り出した。
「では、これを使おう。分岐ごとに短く切って置いていけばいい。」
「いや。」
シリルが止める。
「床にも仕掛けがある可能性がある。置いたものが移動するかもしれない。」
「では、人が持っているものだけで記録するしかありませんね。」
エリオットは紙へ新たな記号を書き込んだ。
進んだ距離。
曲がった方向。
壁の印。
足元の傾斜。
水音の強さ。
一つ一つを丁寧に残していく。
エレノアも自分の手帳を取り出し、見つけた古代文字と水の印を写した。
アルヴィンは建築の特徴を記録する。
三人は歩きながら、それぞれ異なる視点で迷路を読み取ろうとしていた。
[今回登場した近衛騎士たち]
シリル・ヴァルモント
近衛騎士。寡黙で冷静な王国指折りの実力者。エレノアの護衛を務める。本人は無自覚だが最近過保護気味。
オーウェン・アークライト
近衛騎士。明るく社交的。シリルの同期で親友。観察眼が鋭く、場の空気をよく読める人物。得意武器は大剣。
リアナ・フェルディス
明るく元気な女性騎士で、エレノアにとっては友人の様な存在。
クラウディア・エーレンベルク
背が高く、凛とした振る舞いの気高き女性騎士。剣の腕前は団員からも一目置かれるほど。シリルたちの先輩。
ガレス・オルディン
副団長。大柄な体格とは裏腹に親しみやすく部下からの信頼も厚い、頼れる兄貴分。
エリオット・ハーヴレイブ
近衛騎士団の補佐官。冷静で几帳面な仕事人で、団長ダリウスの右腕として騎士団を支えている。情報整理や事務処理はお手のもの。
アルヴィン・ベルナール
古代歴史学者。穏やかで謙虚な性格だが、古代文明への知識は王国随一。エレノアとは学者同士として互いに認め合っている。




