14話 幻惑の森 前編
14話 幻惑の森 前編
北の森へ向かう途中、一行は街道沿いの小さな宿で一夜を過ごした。
王都から遠く離れた宿は質素ではあったが、手入れが行き届いている。
夕食には温かな野菜のスープと焼きたてのパンが並び、長時間馬車に揺られていたエレノアの身体を優しく温めてくれた。
早めに休むようガレスから言われ、エレノアは用意された部屋へ戻る。
(古代の祠、誰にも発見されたことのない場所…。)
(そこへ、明日は足を踏み入れるのですね……。)
エレノアの胸の奥には期待と不安が入り混じっていたが、旅の疲れの方が勝ったらしい。
翌朝、窓から差し込む柔らかな光に目を覚ました時には、久しぶりに身体が軽く感じられた。
◇
朝食を終えた一行は、日の出とともに宿を出発した。
街道を進むにつれ、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
人家は減り、畑の代わりに緑深い丘が広がる。
やがて遠くに、空を覆うような森が見え始めた。
「あれが北の森のようですよ!」
馬車に同乗していたリアナが、窓の外を指差す。
エレノアはその先を見つめ、思わず息を呑んだ。
森の木々はどれも驚くほど背が高かった。
淡い銀色の幹を持つ木々の間に、深い緑の葉が幾重にも重なっている。
朝露を含んだ葉は陽光を受けて輝き、風が吹くたび、森全体が静かに光を揺らしていた。
遠目には深く閉ざされた場所に見える。
けれど、暗く恐ろしい印象はなかった。
むしろ、長い年月を誰にも乱されずに過ごしてきた、神聖な場所のようだった。
「綺麗ですね……。」
リアナの口から、自然と言葉がこぼれる。
エレノアも窓の外を眺めながら、静かに頷いた。
「……この森には、昔から不思議な言い伝えがあるんです。」
「そうなんですか?」
「はい。森の奥では木を切ってはいけないとか、大声を出してはいけないとか。近くの村には、いろいろな言い伝えが残っていると昔読んだ本にありました。」
「どのような言い伝えなんですか?」
リアナが尋ねると、エレノアは少し考えるように目を上げた。
「森に認められた者だけが、最奥へ辿り着ける……というものです。もしかしたらその言い伝えは探している祠と関係があるのかもしれません。」
「認められた者、ですか。」
その言葉をリアナは小さく繰り返した。
――『知恵を求める者にのみ、道は開かれる。』
エレノアの脳裏に、石板に刻まれていた言葉がよぎる。
(知恵を求める者……。)
(この森は、知識を求める者だけを最奥へ導くということなのかもしれない。)
ただの言い伝えというだけではない可能性がある。
そう考えているうちに、馬車はゆっくりと速度を落とした。
やがて、先頭を進んでいたガレスが片手を上げる。
「ここから先は馬車では進めん。全員、降りろ。」
エレノアとリアナは馬車を降りた。
目の前には、森の入口が広がっている。
木々の間を縫うように細い道が続いていたが、その先は淡い霧に包まれ、どこまで続いているのか見通すことができない。
森から流れてくる空気はひんやりとしていた。
湿った土と草木の香り。
どこか甘い花の匂いも混じっている。
騎士たちは馬を森の手前へ繋ぎ、必要な荷物だけを背負った。
ガレスは地図を開き、一行を見渡す。
「ここからは徒歩で進む。」
いつもの豪快さを抑えた、低く落ち着いた声だった。
「この森には獣もいるが、最も警戒すべきは地形だ。地図に記された道が、現在も残っているとは限らん。隊形を崩すな。」
「はっ。」
騎士たちが一斉に返事をする。
補佐官のエリオットはガレスの隣で地図を確認していた。
「過去にも何度か調査隊が入った記録があります。しかし、森の深部まで進めた隊はほとんどありません。」
「理由は分かっているのですか?」
エレノアが尋ねる。
エリオットは静かに首を横に振った。
「記録には、同じ場所へ何度も戻ってしまった、方角が分からなくなった、とあります。ただし、森を出た後は正常に戻ったそうです。」
「方位磁針は?」
シリルが尋ねると、エリオットは腰の小さな革袋から器具を取り出した。
「既に確認しました。今のところは正常です。」
細い針は、確かに北を示している。
「今のところは、か。」
オーウェンが苦笑混じりに呟いた。
隣にいたシリルが、森の奥へ目を向ける。
「進めば分かる。」
短い言葉だった。
ガレスは頷き、地図を畳んだ。
「その通りだ。出発する。」
一行は静かに森へ足を踏み入れた。
◇
森の中は、外から見た以上に美しかった。
頭上では大樹の枝が幾重にも重なり、葉の隙間から差し込む光が細い柱となって地面へ落ちている。
その光の中を、小さな白い綿毛のようなものがゆっくりと漂っていた。
地面には柔らかな苔が広がり、所々に青や白の小さな花が咲いている。
澄んだ小川が木々の間を流れ、水音だけが静かな森に響いていた。
鳥の声も聞こえる。
けれど、不思議なことに、その姿はどこにも見えなかった。
「まるで……神殿の中にいるようです。」
エレノアが小さく呟く。
「神殿?」
近くを歩いていたリアナが振り返る。
「はい。静かで、清らかで……。誰かに見守られているような気がします。」
その言葉を聞き、クラウディアも周囲を見渡した。
「確かに。美しいけれど、どこか気が抜けない森ね。」
彼女の手は、いつでも腰の剣を抜ける位置に置かれていた。
隊列の先頭をガレスとエリオットが進み、その後ろを数名の騎士が固める。
中央にはエレノア、アルヴィン、リアナ。
クラウディアとオーウェンが左右を守り、シリルはエレノアのすぐ後ろを歩いていた。
時折、低い枝が道を塞いでいる。
そのたびにシリルが黙って枝を持ち上げ、エレノアが通り過ぎるまで支えた。
「ありがとうございます。」
エレノアが振り返って礼を言うと、シリルは短く頷く。
「足元に気をつけろ。」
「はい。」
倒木を越える時には手を差し出し、ぬかるんだ場所は避けさせる。
どれも護衛として当然の行動だった。
少なくとも、シリル自身はそう考えていた。
その後ろを歩くオーウェンが、何か言いたげに口元を緩める。
だが、クラウディアに視線だけで止められ、肩をすくめるに留めた。
◇
森へ入って一刻ほどが過ぎた。
エリオットが立ち止まり、地図と周囲の地形を見比べる。
「この先に、小高い丘があるはずです。」
木々の間を抜けると、確かに緩やかな斜面が現れた。
丘の上には、よく似た二本の大杉が並んで立っている。
太い幹。
空へ向かって真っすぐ伸びた枝。
二本の杉は寄り添うように並び、その根元には古い石がいくつも埋もれていた。
「双子杉……。」
アルヴィンが息を呑む。
エレノアも石板の文言を思い出す。
北の森、双子杉の影差す丘。
「間違いありません。」
エレノアは静かに頷いた。
「この場所です。」
一行の間に、わずかな緊張が走る。
騎士たちはすぐさま周囲の捜索を始めた。
地面に埋まった石。
不自然に盛り上がった土。
木の根の隙間。
祠へ続く入口がないか、一つずつ慎重に確認する。
しかし――。
「何もありません。」
リアナが土を払って立ち上がる。
「こちらにも入口らしきものはないわ。」
クラウディアも首を横に振った。
ガレスは双子杉の周囲を一周し、険しい表情で丘を見渡した。
「範囲を広げる。ただし、互いの姿が見える距離を保て。」
一行は丘の周辺へ捜索範囲を広げた。
けれど、どれほど探しても祠は見つからない。
地下へ続く階段も、扉も、古代文字の刻まれた石もない。
あるのは美しい木々と、苔むした地面だけだった。
陽は少しずつ高くなっている。
エレノアは双子杉の根元へ膝をつき、地面を覆う苔を傷つけないよう、そっと指先で払った。
下から現れたのは、ただの灰色の岩だった。
「おかしいですね……。」
隣にしゃがんだアルヴィンも、困惑した表情を浮かべる。
「石板の解読に間違いがあったのでしょうか。」
「いいえ。」
エレノアはすぐに首を横に振った。
「少なくとも『北の森』『双子杉』『丘』の文字に誤りはありません。」
「では、入口が崩落した可能性は?」
エリオットが尋ねる。
「それも考えられます。ただ……。」
エレノアは辺りを見渡した。
神殿の地下遺跡で見た、古代ヴァレシアの建造技術。
二千年以上の時を経てもなお残っていた石壁。
王が守ろうとした大切な石板。
「石板を守るための祠であれば、簡単に崩れてしまうようには造られていないと思います。」
「つまり、まだ見えていないだけだと?」
「その可能性があります。」
エリオットは顎へ手を当てた。
「見えていない……。」
彼は周囲へ視線を巡らせ、木々の位置や地面の傾斜を慎重に確認する。
「地図上の位置は正しい。地形も石板の記述と一致しています。祠だけがないというのは不自然です。」
その時だった。
遠くから、澄んだ鈴のような音が聞こえた。
エレノアは顔を上げる。
「今の音は……?」
「音?」
リアナが首を傾げる。
「何か聞こえましたか?」
「鈴のような音が……。」
しかし、他の者には聞こえていないらしい。
森は相変わらず静かだった。
風が枝葉を揺らし、木漏れ日が地面の上で形を変えている。
その美しさの中に、今までとは違う何かが混じったような気がした。
シリルがすぐにエレノアの傍へ寄る。
「どこから聞こえた。」
「向こうの方からだと思います。」
エレノアは森の奥を指した。
そこには、細い獣道のようなものが続いている。
ガレスは険しい目でその先を見つめた。
「全員で確認する。単独では動くな。」
一行は再び隊列を整え、音がしたという方向へ進み始めた。
◇
しばらく歩いたところで、オーウェンが足を止めた。
「……おかしくないか?」
「何がだ。」
シリルが尋ねる。
オーウェンは近くの木の幹を指差した。
そこには、剣先で付けたような小さな傷があった。
「これ、俺がさっき付けた印だ。」
リアナが目を丸くする。
「さっき?」
「ああ。双子杉を探していた時、この横を通った。」
一同の間に沈黙が落ちた。
エリオットが地図を開き、方角を確認する。
「あり得ません。私たちは双子杉から東へ進んでいたはずです。この木は、その反対側にあったものです。」
「道を間違えたのでは?」
アルヴィンが尋ねる。
エリオットは首を横に振る。
「隊列の先頭で方角を確認し続けていました。」
彼は方位磁針を取り出す。
針は細かく震え、北を示そうとしては違う方向へ揺れていた。
「……狂っています。」
森を渡る風が、急に冷たくなる。
木々の葉が一斉にざわめいた。
さきほどまで澄んでいた空気の中に、白い霧がゆっくりと流れ込んでくる。
「隊形を詰めろ!」
ガレスの声が響いた。
騎士たちはすぐに武器へ手を掛け、中央にいるエレノアとアルヴィンを囲む。
霧は瞬く間に濃くなった。
数歩先を歩く者の姿さえ、輪郭が霞んで見える。
「エレノア様、こちらへ。」
リアナが手を伸ばす。
エレノアもその手を取ろうとした。
その瞬間――。
また、鈴の音が聞こえた。
今度は一度ではない。
涼やかな音が、森のあちらこちらから重なって響く。
エレノアの視界が、僅かに揺らいだ。
霧の向こうに、誰かの姿が見える。
くすんだ金色の髪。
机へ向かい、古い書物を読む父の背中。
「お父様……?」
思わず声がこぼれた。
「エレノア。」
父ローレンスの声がする。
いつもの優しい声だった。
「こちらへおいで。」
エレノアの足が、無意識に一歩前へ出る。
だが、次の瞬間。
強い力で腕を引かれた。
「行くな。」
低い声が、すぐ近くで響く。
身体が引き寄せられ、エレノアはシリルの胸元へぶつかりそうになる。
「ヴァルモント様……。」
シリルはエレノアを背後へ庇い、霧の向こうを鋭く睨んでいた。
「今のは父君ではない。」
その言葉と同時に、父の姿が霧の中で歪んだ。
優しく笑っていた顔が、白い靄へ溶けるように消えていく。
エレノアは息を呑んだ。
「幻……。」
「おそらくな。」
シリルはエレノアの腕を離さず、周囲を見渡す。
「ガレス副団長!」
返事はない。
「クラウディア!」
「リアナ!」
「オーウェン!」
どれほど呼んでも、声は霧へ吸い込まれていく。
つい先ほどまで近くにいたはずの仲間たちの姿は、どこにもなかった。
「皆さん……。」
エレノアの声に不安が滲む。
シリルは剣を抜いた。
澄んだ金属音が、静かな森に響く。
「俺から離れるな。」
短く告げ、エレノアを自分の背後へ置く。
白い霧の中で、青い瞳だけが鋭く周囲を見据えていた。
「必ず合流する。」
迷いのない声だった。
「必ず守る。」
エレノアは目を見開いた。
護衛としての言葉。
そう分かっているはずなのに。
その声は不思議なほど真っすぐで、胸の奥へ静かに届いた。
「……はい。」
小さく頷く。
霧に閉ざされた神聖な森の中。
二人はいつの間にか、一行から完全にはぐれていた。
●シリル・ヴァルモント
寡黙で無愛想だが、責任感は人一倍強い。リーヴェル王国屈指の剣の腕を持ち、エレノアの護衛を務める。
●オーウェン・アークライト
シリルとは親友で良きライバル。 明るく気さくな性格で、隊のムードメーカー。仲間思いの頼れる騎士。
●リアナ・フェルディス
打ち解けてくると本来の明るく元気な一面がでてくる。エレノアの友人のような存在。
●クラウディア・エーレンベルク
シリルたちの先輩騎士。 凛とした実力派の女性騎士で、面倒見の良い姉のような存在。
●ガレス・オルディン
豊富な経験を持つ歴戦の騎士。冷静な判断力で部隊をまとめる。探索隊の指揮官を務める。
●エリオット
近衛騎士団補佐官。 主に王城で近衛騎士団を支える文官。遠征では探索任務の後方支援を行う。
●アルヴィン・ベルナール
王国の歴史学者。 古代文明や歴史に精通し、豊富な知識で探索隊を支える。穏やかで誠実な人柄だが、研究となると周囲が見えなくなる一面も。




