12話 新たな王命
12話 新たな王命
翌日。
王城からの使者に伴われ、エレノアは再び王都へ向かう船に乗っていた。
王命を受けた以上、しばらくベイル伯爵家での家庭教師は続けられない。
そのことは昨日のうちに手紙で伝えてあった。
そして今朝、伯爵家から返事が届いた。
『王命とは、なんと名誉なことでしょう。すべてが終わりましたら、ぜひまた戻ってきていただける日を、ベイル伯爵家一同楽しみにしております。』
美しい文字で綴られたその一文に、エレノアは思わず頬を緩める。
(……よかった。)
胸につかえていた小さな不安が、ほどけていくのを感じた。
◇◇◇
リーヴェル王国は、豊かな水に恵まれた「水の都」として知られている。
王都には、街中を縫うように運河が張り巡らされ、人々は船を日常の足として使い、水とともに暮らしていた。
穏やかな水面を、小舟がゆっくりと行き交う。
白亜の石橋には人々が行き交い、水辺では子どもたちの楽しげな笑い声が響く。
街のあちこちでは噴水が陽光を受けてきらめき、水路沿いに咲く花々が優しく風に揺れていた。
この豊かな水こそが、リーヴェル王国の誇り。
王都は今日も変わらず、美しく穏やかな時を刻んでいる。
エレノアは船の窓からその景色を眺め、小さく微笑んだ。
(本当に……美しい国。)
◇◇◇
案内されたのは、王城の最奥にある謁見の間だった。
天井は見上げるほど高く、白い大理石の柱が左右に整然と並んでいる。
床には深紅の絨毯が玉座まで真っすぐ伸び、その両脇には濃紺の甲冑をまとった近衛騎士たちが静かに控えていた。
高窓から差し込む朝の陽光が、白亜の壁と青いステンドグラスを照らし、謁見の間を厳かに包み込んでいる。
エレノアは玉座の前まで進み、跪いて深く頭を垂れた。
「面を上げよ。」
国王レオンハルトの落ち着いた声が、静かな謁見の間に響いた。
玉座に座しているのは、リーヴェル国王レオンハルト・リーヴェル。
四十代半ばほどの精悍な顔立ちに、深い藍色の瞳。
威厳を漂わせながらも、その眼差しには民を思う穏やかな温かさが宿っていた。
エレノアがゆっくり顔を上げると、国王は優しく微笑む。
「エレノア・アシュフォード。古文書を解読し、神殿での石版発見に大きく貢献したこと、この国を代表して礼を述べよう。」
「そなたの知識がなければ、あの古文書はただの古い遺物のままだった。まことに見事であった。」
思いもよらぬ言葉に、エレノアは胸が熱くなる。
「……身に余るお言葉にございます。」
それでも緊張は消えない。
王を前にしているのだ。
手のひらがじんわりと汗ばんでいるのを感じた。
ふと視線を動かす。
玉座の脇には、数名の近衛騎士が整列していた。
ダリウス。
リアナ。
そして——
シリル。
見慣れた三人の姿を見つけた瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
シリルは表情を変えないまま、小さく頷く。
その仕草だけで、「大丈夫だ」と言われた気がした。
エレノアもそっと会釈を返す。
国王は静かに続ける。
「本日、そなたに新たな王命を下す。」
謁見の間の空気が引き締まる。
「神殿より持ち帰った石版の暗号文。あれを、最後まで読み解いてほしい。」
一人の男性が前へ進み出た。
三十代半ばほどの、穏やかな雰囲気を纏う学者だった。
「王立歴史研究院所属、アルヴィン・ベルナールと申します。今後は私も、ご一緒させていただきます。」
「エレノア・アシュフォードです。よろしくお願いいたします。」
互いに一礼する。
国王は頷いた。
「解読には数日を要するだろう。その間、石版の件は王国最高機密として扱う。内容が外部へ漏れることは、決してあってはならぬ。」
その声には、先ほどまでとは違う重みがあった。
「ゆえに任務完了まで、そなたには王城内で生活してもらう。部屋も用意してある。」
エレノアは驚きながらも、静かに頭を下げる。
「承知いたしました。」
「またご一緒ですね、エレノア様!」
「リアナ様。よろしくお願いいたします。」
謁見が終わると、リアナが笑顔で近づいてきた。
その後ろにはシリルが立っている。
「護衛は俺が務める。」
短い言葉だった。
けれど、その一言がどこか心強い。
「よろしくお願いいたします、ヴァルモント様。」
シリルが頷く。
いつも無表情な彼の眼差しが、その一瞬だけわずかに柔らいだ。
その中、一人の侍女が恭しく一礼して、エレノアに声をかける。
「エレノア様、お部屋へご案内いたします。」
「ありがとうございます。」
王城の長い回廊を歩き、案内されたのは、静かな中庭に面した客室だった。
扉が開かれた瞬間、エレノアは思わず目を見開く。
「……まあ。」
柔らかな陽光が大きな窓から差し込み、白を基調とした室内を優しく照らしている。
淡い青と金糸で織られた上質な絨毯。
繊細な彫刻が施された調度品。
壁際には大きな本棚と書き物机が置かれ、その上には上質な羊皮紙や羽根ペン、インク壺まで整えられていた。
窓辺には季節の花が飾られ、小さな応接用のテーブルと二脚の椅子も用意されている。
奥には天蓋付きの寝台が静かに佇み、淡い生成り色のカーテンが柔らかな風に揺れていた。
「こちらが、任務の間お使いいただくお部屋でございます。」
侍女は穏やかに微笑む。
「お隣には浴室をご用意しております。お食事はお部屋へお運びすることもできますし、食堂をご利用いただくことも可能です。」
「それから――」
侍女は書き物机へ目を向けた。
「陛下より、研究に不自由がないようにとの仰せで、必要な文具や書物は随時ご用意いたします。何かございましたら、どうぞ遠慮なくお申し付けください。」
エレノアは驚きに言葉を失った。
(こんな立派なお部屋を……。)
没落してから暮らしてきた屋敷とは比べものにならないほど広く、美しい部屋だった。
けれど豪華さ以上に心を打たれたのは、自分が研究しやすいよう細やかな心配りがされていることだった。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます。」
侍女は満足そうに一礼すると、静かに部屋を後にした。
部屋が静けさを取り戻して間もなく――
コンコン、と扉が控えめに叩かれる。
「エレノア様。」
聞き慣れた明るい声だった。
「はい。」
扉を開けると、リアナが笑顔で立っていた。
その隣には、いつものようにシリルが静かに控えている。
「お部屋はいかがですか?」
「とても素敵なお部屋で……少し落ち着かないくらいです。」
エレノアが苦笑すると、リアナもくすりと笑った。
「それだけ陛下もエレノア様を大切な方だと思っていらっしゃるんですよ。」
シリルは部屋の中へ視線を巡らせる。
机の位置。
窓。
出入口。
危険になるものがないことを静かに確認すると、小さく頷いた。
「問題ない。」
その一言に、エレノアは思わず微笑む。
リアナはそんな二人を見比べながら、
「研究室へご案内しますね。」
と明るく声を掛けた。
シリルは静かに扉の横へ立つ。
エレノアは部屋をもう一度だけ振り返り、小さく頷いた。
「はい。」
三人は並んで、王城地下の研究室へと向かった。
◇
シリルとリアナに連れられ、
王城地下の研究室へ案内されると、先ほど国王レオンハルトから紹介された男性が待っていた。
年の頃は三十代半ば。
飾り気のない学者服を身にまとい、優しげな笑みを浮かべている。
男性はエレノアを見ると、一歩前へ進み、丁寧に一礼した。
「アシュフォード嬢、ようこそお越しくださいました。改めて、私はアルヴィン・ベルナールと申します。王立歴史研究院で古代史を研究しております。」
穏やかな口調だった。
「陛下より、アシュフォード嬢と共に石版の暗号文の解読に当たるよう命を受けました。どうぞよろしくお願いいたします。」
エレノアも頭を下げる。
「先ほどはありがとうございました。エレノア・アシュフォードです。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
二人が挨拶を交わすと、研究室の中央の机に置かれた石版へ自然と視線が向く。
王城地下の研究室。
シリルとリアナは部屋の隅に控えている。
机の上には、神殿から運び出された石板が静かに置かれていた。
その漆黒の石版は、長い年月を経てもなお傷はなく、作られてから数千年の時が経っているとは思えないほど美しい。
アルヴィンが慎重に石板を見つめる。
「この石版が、王国最高機密……。」
エレノアは頷き、ゆっくりと古代ヴァレシアの文字を追っていく。
一文字。
また一文字。
そして、しばらく石版の裏を見たところで、思わず手が止まった。
「……これは。」
「もう何かわかったのですか?」
アルヴィンが身を乗り出す。
エレノアは静かに息を呑み、石版を見つめたまま読み上げた。
「表の暗号文は複雑で、まだ全体は分かりません。ですが、」
エレノアは石版を裏返して机に置く。
そこには、明るいところで目を凝らさないと分からないくらい、薄くなった文字が掘られていた。
「なんと書いてあるのですか?」
「――『980』と読めます。ただ、この数字に使われている字体は、ヴァレシア建国初期のものです。」
エレノアは眉をひそめた。
「もしヴァレシア歴980年に刻まれた年号なら、その時代に一般的だった後期の字体が使われるはずです。ところが、これは建国初期の字体で刻まれている」
アルヴィンが首を傾げる。
「つまり、980という年号を、あえて古い文字で刻んだということですか?」
「その可能性があります。あるいは、この数字が年号ではないのかもしれません。」
「ヴァレシア歴980年……。」
彼は顎に手を当て、記憶をたどるように目を細めた。
「現存する文献によれば、その頃のヴァレシア王国は、まだ繁栄を保っていたとされています。大きな戦や飢饉の記録も見当たりません。」
「だからこそ、その時代の石版に後から文字が刻まれている理由が分からないのです。」
エレノアは石版の表と裏を何度も見比べた。
「……不思議です。」
「何がですか?」
「この裏面の文字は、表の文字とは筆跡……いえ、刻み方が微妙に違います。」
言葉を探すように、石版へ視線を落とす。
「少なくとも、この裏面は表とは異なる時代に刻まれたものだと思われます。」
アルヴィンは息を呑む。
「つまり……長い年月にわたって使われ続けていた、と?」
エレノアは静かに頷いた。
「それに……。」
エレノアは少し考え込むように目を伏せた。
「神殿に納められるほど大切な石板です。後から文字を刻むことが許されたということは、それだけ重要な出来事だったのかもしれません。」
「重要な出来事……。」
アルヴィンが思わず呟く。
「誰かが、どうしても後世へ伝えなければならないと考えた記録だったのでしょう。」
研究室に静かな沈黙が落ちた。
誰にも、その答えはまだ分からない。




