第98話 結ばれる日
聖樹の前に花が飾られた。
野の花、薬草園の花、山から摘んできた花。ロッテが指揮を取り、マルタが手配し、村人たちが朝から手分けして運んだ。聖樹の根元に敷かれた白い布の上に、色とりどりの花弁が敷き詰められていく。
「花はこっちに。ここに台を置いて、果実はあっちの棚に並べて」
マルタが早口で指示を飛ばした。温泉宿の女将の采配は見事で、あっという間に聖樹の周囲が祝いの場に変わった。
「マルタ、落ち着きな。あんたが一番はしゃいでるよ」
「当たり前でしょ! グリュンハイムで精霊の誓いが行われるのは何年ぶりだと思ってるの!」
マルタの声が谷間に響いた。
「水瓶はそこ。椀は二つ、根元に伏せて置いといて」
ロッテが素焼きの水瓶を据え、木の椀を二つ並べた。マルタが白い布の端を引いて皺を伸ばす。
「祝詞は誰が読むんだい」
「読まないわよ。手を取って、名前を呼んで、水を掛け合うの」
ロッテは鼻を鳴らし、水瓶を抱えて源泉のほうへ歩いていった。
* * *
マルタの温泉宿の二階、客間の一つ。
ミーリアは鏡の前に座っていた。
ロッテが後ろに立ち、栗色の髪を丁寧に梳いている。いつもはふわふわと好き勝手に跳ねている髪を、ゆっくりと編み込んでいった。
「あんた、よく食べてよく眠れるようになったね。ここに来たばかりの頃は、頬がこけてたのに」
「ロッテおばさんのごはんが美味しいからです」
「それもあるが、あの山守のおかげだろう」
ミーリアの頬が赤くなった。ロッテの手が止まった。鏡越しに目が合った。
「綺麗だよ、あんた」
ロッテの声が掠れた。目の端に光るものがあった。
「ロッテおばさん?」
「なんでもないよ。——あたしの娘がいたら、こんな歳だったかもしれないと思っただけさ」
ミーリアは立ち上がり、ロッテの手を握った。
「ロッテおばさんはわたしのお母さんです。ここに来てからずっと」
ロッテは鼻を鳴らした。目元を拭い、ミーリアの肩を叩いた。
「泣かせんじゃないよ。化粧が崩れるだろう。——あたしは化粧なんかしてないが」
* * *
午後。
空は晴れ渡っていた。聖域山脈の稜線が青空に映え、谷間を吹き抜ける風が温泉の湯気を散らしていく。温泉宿の煙突から白い蒸気が立ち上り、薬草園の花々が風に揺れた。
聖樹の前に、グリュンハイムの村人が集まった。
総勢四十人ほど。隣村からも祝いに駆けつけた者がいた。温泉の湯治客が何事かと覗きに来て、そのまま見守る側に加わった。
ハンス村長が聖樹の前に立った。白い髭を撫で、穏やかな声で口を開いた。
「精霊の誓い。立ち会いの者、静粛に」
ざわめきが止んだ。
フェリクスが先に聖樹の前に立っていた。いつもの作業着ではなく、山守の正装を身に着けている。深緑の外套、革のベルト、胸に山守の家紋の留め金。腕の傷跡がそのまま見えていたが、隠す素振りはなかった。
足音が近づいた。
ミーリアが歩いてきた。
白い衣に、ロッテが編んだ花冠。薬草園の花を一つずつ選んで編み込んだもので、白と紫と淡い黄色の花弁が栗色の髪に映えていた。
裸足だった。土の冷たさが足の裏に貼りつき、草の露が甲を濡らしていく。一歩ごとに草が倒れ、その跡を精霊の光が追った。
フェリクスの息が止まった。
琥珀色の目が揺れ、そして動かなくなった。ミーリアだけを見ていた。
ミーリアが聖樹の前に立った。フェリクスと向かい合った。
「では」
ハンス村長が二人の手を取り、重ね合わせた。
「互いに誓いの言葉を」
フェリクスが先に口を開いた。声が低く、太く、静かだった。
「俺は——この山と、この土地と、お前を守る。死ぬまで」
重ねた手に力がこもった。フェリクスの指が手の甲に食い込み、ミーリアは同じ強さで握り返した。
ミーリアが目を上げた。涙で光る金色の瞳が、フェリクスを見つめた。
「わたしは——この土地を癒し、この村を守り、あなたの隣で生きます。ずっと」
村長が頷き、二人の重ねた手を両手で包んだ。
「精霊たちよ。この二人の誓いを聞き届けたまえ」
聖樹が光った。
幹の内側から白銀の脈が浮かび上がり、根元から梢まで走り抜けた。枝の先で光の花が咲き、花弁が風もないのに舞い散った。
フィルが宙を舞い、テラが地面から浮き上がり、アクアが温泉の方角から飛んできた。三つの精霊が二人の頭上で円を描き、それぞれの色の光を降らせた。翡翠と土色と水色の光が混ざり合い、虹のように聖樹の周囲を彩った。
ロッテが顔を覆った。涙が手の隙間からこぼれていた。
「マルタ! 温泉カップルプラン一番乗りよ!」
マルタが叫んだ。涙を流しながら。ロッテが「式の最中に宣伝するんじゃないよ」と怒鳴ったが、声が震えていた。
クラリッサが前に出た。手に一輪の白い花を持っていた。薬草園で自分が初めて咲かせた花だった。聖樹の根元に静かにそれを供え、背筋を伸ばし、小さく頭を下げた。
「おめでとうございます」
言葉を切り、それから顎を上げた。
「薬草園の水やり、来週はわたくしが代わりますわ。……新婚ですもの」
ミーリアが目を丸くした。供えられた白い花に指先で触れ、そのまま何度も頷いた。クラリッサの耳が赤くなっていた。
村人たちが拍手をした。湯治客も拍手をした。精霊たちが光を撒き散らし、聖樹がいっそう明るく輝いた。
* * *
祝いの宴は夕方まで続いた。
マルタの温泉宿の食堂に村人が集まり、料理と酒が振る舞われた。ロッテが特製の薬草酒を出し、マルタが温泉卵の山盛りを並べた。
「ロッテおばさん、これ、なんのお酒ですか」
「薬草酒だよ。あんたには早い」
「わたし、もう結婚したんですけど」
「関係ないね。……一口だけだよ」
「フェリクスさんは飲んでいいんですか」
「山守は水みたいに飲むからね」
マルタが徳利を抱えて割り込んできた。
「ミーリアちゃん、のんびり暮らしたいって言ってたのに、結婚式までしちゃって!」
「えっと、わたし、のんびり暮らしたいだけなんですけど……」
「これからは二人でのんびりだ」
フェリクスが横から言った。ミーリアが見上げると、フェリクスの口元が微かに緩んでいた。その顔を見たマルタとロッテが、同時に目を拭った。
* * *
夜。
温泉に二人で浸かっていた。
露天風呂の湯面に星が映っている。湯煙が月明かりに白く立ち上り、薬草の香りが湯に溶けている。精霊たちはどこかへ行った。二人きりだった。
ミーリアは湯に肩まで沈み、空を見上げた。
星が近い。帝都では見えなかった小さな星まで、ここでは見える。
「前の人生では——」
声が出た。
「こんなに穏やかな日が来るなんて、想像もできませんでした」
フェリクスは黙っていた。
「忙しくて、疲れて、誰にも頼れなくて。最後に思ったのは、穏やかに暮らしたいってことだけで」
ミーリアは湯を掌ですくい、指の間から落とした。
「ここに生まれ変わって——本当によかった」
フェリクスの手が、湯の中でミーリアの手を探った。見つけて、握った。
「俺もだ」
声は低く、短く、温かかった。
湯煙が二人を包んだ。
「明日は何をしますか」
「薬草を干す」
「……わたし、昼まで寝ていたいです」
フェリクスの喉の奥で低い音が鳴った。ミーリアは湯の中で足を伸ばし、その脛を軽く蹴った。湯が跳ね、星の映った湯面が崩れた。




