第97話 フェリクスの言葉
翌朝、フェリクスはいつもより早く山を下りてきた。
薬草園の入口にロッテが立っていた。腕を組み、フェリクスの顔を見た。
「あんた、今日は顔が違うね」
「……別に」
「別にじゃないよ。朝からそわそわして。山守がそわそわしてたら熊も逃げるわ」
フェリクスは答えず、視線を薬草園の奥に向けた。ミーリアがクラリッサと並んで薬草の選別をしている。籠の中身を一つずつ確かめ、丁寧に並べ替えていた。栗色の髪が朝日に透けて、柔らかく揺れている。
「ロッテ」
「なんだい」
「今夜、あいつに——ミーリアに話がある。聖樹の前に連れ出す」
ロッテの目が大きくなった。そしてゆっくり、皺だらけの顔に笑みが広がった。
「やっと言うのかい」
「……うるさい」
「うるさいのはあんたの心臓だろう。ここまで聞こえるよ」
フェリクスは背を向けて歩き去った。ロッテは腰に手を当てて空を仰いだ。
「あのミーリアちゃんが嫁に行くのかい。早いもんだ」
* * *
日中、フェリクスは山の見回りに出た。
いつもの道を歩いた。谷間から稜線に至る獣道、沢沿いの薬草の群生地、見晴らしの岩場。足元を風の精霊が吹き抜け、木々の梢が揺れた。
フィルが頭の上を旋回した。
〈緊張してる?〉
「してない」
〈嘘〉
フェリクスは黙って歩き続けた。
見晴らしの岩場に着いた。眼下にグリュンハイムの谷間が広がっている。温泉の湯煙、薬草園の緑、聖樹の枝。全てが見えた。
あの谷間に、一人の娘がやってきた。泣きながら帝都を追われ、何も持たず、精霊に導かれるようにしてこの辺境に辿り着いた。
俺は何と言ったか。「帝都の娘か。ここは甘くないぞ」。
薬草園の畝は端まで埋まっている。温泉の湯屋の前に人が並んでいる。聖樹の枝は去年より伸びて、稜線の一部を隠していた。
変わったのは土地だけではない。
フェリクスは拳を握った。岩場から谷を見下ろし、長く息を吐いた。
〈言葉。見つかった?〉
「……知らん。俺は言葉が下手だ」
〈知ってる〉
「知ってるなら聞くな」
〈でも。伝わる。フェリクスの気持ち〉
フェリクスは立ち上がり、山を下り始めた。
途中、斜面に白い花を見つけて足を止めた。聖域山脈にだけ咲く、星の花。五枚の花弁が白銀の光を帯び、朝露を纏って揺れている。
一輪だけ摘んで、外套の内側にしまった。
毎朝の水も、山百合も、暗いうちに起きて畑の隅に置いた花も、数えれば二十は超える。置くときはいつも、誰もいない時刻を選んだ。
今夜は言葉で言う。
たとえ下手でも。
* * *
夕食の後、ミーリアが温泉から上がって髪を拭いていると、フェリクスが宿の前に立っていた。
「フェリクスさん? どうかしましたか?」
「……少し、来てほしい」
「え? どこにですか?」
「聖樹の前に。見せたいものがある」
ミーリアは首を傾げた。フェリクスの声がいつもと違った。硬いのはいつものことだが、その奥に微かな震えがあった。
「わかりました。行きます」
二人は並んで夜道を歩いた。
足元に精霊たちの微かな光が灯り、道を照らしてくれている。温泉の湯煙が月明かりに白く浮かび、薬草園の向こうに聖樹の影が見えた。虫の声がかすかに聞こえる。夜風が温泉の温かさを含んで頬を撫でた。
フェリクスの歩幅がいつもより狭かった。ミーリアに合わせているのか、足が進まないのか。
聖樹の前に着いた。
満天の星空だった。聖域山脈の稜線の向こうに天の川が流れ、無数の星が樹冠の間に瞬いている。聖樹の根元では精霊たちが静かに光を灯し、幹の苔が淡く輝いていた。
フィルが枝の上からじっと見下ろしている。テラが根元の影でゆっくり回転している。アクアが近くの湧水で小さく光っている。
精霊たちは誰も声を出さなかった。見守っているだけだった。
「きれい……。フェリクスさん、星がすごいですね」
「ああ」
フェリクスはミーリアの隣に立ち、聖樹を見上げた。拳を握り、開き、また握った。
沈黙が流れた。
長い沈黙だった。ミーリアは不思議そうにフェリクスの横顔を見上げていた。月明かりが琥珀色の目を照らし、額の汗を光らせていた。
「フェリクスさん?」
「……俺は」
声が掠れた。フェリクスは息を吸い直し、ミーリアに向き直った。真っ直ぐに、逃げずに、正面から。
「俺は——言葉が下手だ」
「知っています」
ミーリアの声は柔らかかった。
「お前にどれだけ——大事なことを伝えたいか、うまく言えない。朝に花を置いた。水を汲んだ。崩れた道を直した。言う代わりに、そればかりやってきた。だから——」
言葉が途切れた。フェリクスの喉が動いた。
「でも」
絞り出すように。
「お前のいない山は——もう考えられない」
声が震えていた。フェリクスは一度目を伏せ、また上げた。
「一生、隣にいてほしい」
フェリクスの手が伸びた。ミーリアの手を取った。硬い掌。傷だらけの指。その手が微かに震えている。
「俺の——ミーリア」
名前を呼ばれた。
「お前」ではなく。
ミーリアの瞳が揺れた。淡い金色の目に星の光が映り込み、次の瞬間、涙が一筋こぼれた。
「ずるいです」
声が震えていた。
「名前で呼ばれたら——もう」
涙が止まらなかった。ミーリアは空いている手で目を押さえた。でも涙は指の間から溢れた。
「わたしも——フェリクスさんの隣がいいです」
フェリクスの手に力がこもった。
「ずっと」
ミーリアが二度、頷いた。指がフェリクスの指の間に入り、そのまま握り込まれた。聖樹の前で、星空の下で。
フィルが枝から飛び立った。翡翠色の光を撒き散らしながら、二人の頭上をゆっくりと旋回した。光の粒が花びらのように降り注ぎ、ミーリアの栗色の髪に、フェリクスの深緑の髪に、星屑のように積もっていく。
テラが根元から浮かび上がり、温かい土の匂いを漂わせながら、ゆっくりと二人の足元を回った。
アクアが湧水から飛び出し、水滴の光を夜空に散らした。どれも声は出さなかった。
聖樹の幹が微かに輝いた。苔の表面を白銀の脈が走り、根元から梢まで、淡い光が登っていく。枝の先端に、光の花が咲いた。
聖樹の精霊の声が、静かに響いた。
〈祝福。二人に〉
ミーリアは涙を拭かなかった。フェリクスも拭わなかった。二人はただ手を握り合い、精霊たちの光の中に立っていた。
フィルが枝に戻り、翼をたたんだ。ミーリアの髪に積もった翡翠色の光は、まだ消えずに残っている。フェリクスは外套の内側から星の花を取り出し、その髪に挿した。




