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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第96話 穏やかな日々

 独立承認から十日が経った。


 グリュンハイムの谷間には、いつもと変わらない朝が訪れていた。湯煙が山肌に沿って立ち上り、薬草園から青い香りが風に乗って漂ってくる。


「おはようございます、ロッテおばさん」


「おはよう。あんた、また日の出前から畑にいたのかい」


 ロッテが呆れた顔で鍬を振り下ろした。ミーリアは膝の上の籠に摘んだ薬草を並べ、葉の色を確かめていた。


「だって、朝露がついてるうちに摘まないと、薬効が落ちちゃうんです」


「あんたの薬草への執着は、まったく——」


 ロッテの声は怒っているようで、口元は緩んでいた。


 薬草園の向こうに、温泉の湯煙が白く立ち上っている。独立承認以来、周辺の村々から湯治客が増えた。マルタの温泉宿は新しい湯船の増設を終えたばかりで、毎日のように隣村から馬車がやってくる。


〈人、増えた。にぎやか〉


 フィルが肩の上で翡翠色に明滅した。畑の端では、テラがのんびり回転しながら土壌の様子を伝えてくれている。


「フィルさん、お客さんが多いと楽しいですか?」


〈楽しい。でも。静かも好き〉


「わたしも。どっちも好きです」


 ミーリアは微笑んで、籠を持ち上げた。


* * *


 薬草園の奥で、クラリッサが腰を屈めて葉の裏側を覗き込んでいた。


「ロッテさん、この葉脈の色は正常でしょうか。少し黄みがかっている気がするのですが」


「よく見てるね。それは水が多い証拠だ。明日から水やりを一日置きにしな」


「承知いたしました」


 クラリッサの手には土がついていた。爪の間にまで入り込んだ黒い土を、拭いもせずに次の株に手を伸ばしている。袖は肘までまくり上げられ、白い生地の裾には泥が跳ねていた。


「クラリッサさん、上手になりましたね」


 ミーリアが声をかけると、クラリッサは顔を上げた。


「まだまだですわ。ロッテさんの足元にも及びません」


「あたしは三十年やってんだ。最初からできるやつなんていないよ」


 ロッテが薬草茶の入った水筒をクラリッサに差し出した。クラリッサは受け取り、喉を鳴らして半分ほど飲むと、蓋を閉めて返した。


「ロッテさん、光属性で薬草の成長を促すことは可能でしょうか。星脈共鳴のような大きな力ではありませんが——」


「試してみな。あたしに光属性はないから、効果があるかは見てみないとわからない」


 クラリッサが枯れかけた株の上に掌をかざした。淡い金色の光が指先から漏れる。星脈共鳴とは異なる、小さな、しかし確かな光だった。株の葉が微かに色を取り戻した。


「おや。少しだけど効いてるね」


「本当ですか」


「星脈共鳴には遠く及ばないが、日々の手入れには充分だ。ミーリアちゃんが忙しい時の補助になるよ」


 クラリッサの手が止まった。指先を見つめ、目を伏せた。


* * *


 昼下がり、マルタの温泉宿の食堂にミーリアとロッテが顔を出した。


 マルタが厨房から飛び出してきた。


「ミーリアちゃん! 今日は新しいお客さんが三組よ。隣町の鍛冶師さんが腰を痛めて来てくれたの。薬湯の評判が広がってるわ」


「わあ、よかった。薬湯の調合、足りてますか?」


「余裕よ。あんたが先月仕込んでくれた分がまだ残ってるから。でも、来月には追加が必要ね」


 マルタが帳簿を広げて数字を読み上げた。壁の鍵板に下がった札は、空きが二つしか残っていない。裏口には薪が天井近くまで積まれ、廊下では湯上がりの客が椀を持って順番を待っていた。


「温泉郷ね。うちは温泉郷になったのよ」


 マルタは胸を張った。


 食堂の隅で、フェリクスが黙ってスープを飲んでいた。山の見回りから戻ったばかりで、外套の肩口に朝露の跡が残っている。


「フェリクスさん、お疲れさまです」


「……ああ」


 ミーリアが隣に座った。フェリクスはスプーンを止め、少しだけ体をずらして場所を作った。椅子の背に掛けた外套をずらし、また匙を動かしはじめる。


「山の様子はどうでした?」


「異常なし。星脈も安定してる。精霊たちも穏やかだ」


「よかった」


 ミーリアがスープに手を伸ばそうとして、マルタが先回りして温かい椀を差し出した。


「はい、どうぞ。お似合いの二人に」


「え、お似合いって——」


「マルタ」


 フェリクスの低い声。マルタは肩をすくめて厨房に引っ込んだが、ドアの隙間からこちらを覗いていた。


 ミーリアは首を傾げた。


「ちゃんとって何ですか?」


「知らん」


 フェリクスはスプーンを口に運んだ。耳の先が赤かった。ミーリアはそれに気づかず、温かいスープに口をつけた。根菜と薬草の出汁が効いた味で、体の芯まで染みる。


「美味しいです。マルタさんのスープ、最近特に美味しくなりましたね」


「あんたの薬草を入れてるからよ!」


 厨房の奥からマルタの声が飛んできた。


* * *


 午後遅く、ロッテが薬草園の片付けをしているとマルタがやってきた。


「ロッテ、あんた見た? 今日もフェリクス、昼にミーリアちゃんの隣に座ってたわよ」


「見てるよ。毎日だろう」


「毎日よ。山から戻ったら真っ先に食堂、ミーリアちゃんの隣。朝は薬草園に水を運んで、夕方は聖樹の前で一緒に夕日。あの男、そろそろちゃんとしなさいよ」


「ちゃんとって何さ」


「決まってるでしょ! 気持ちをちゃんと伝えなさいってこと!」


 マルタが声を張り上げた。ロッテは鼻で笑った。


「あの不器用が言えるかね」


「言わなきゃ始まらないわよ。ミーリアちゃんだって気づいてないんだから——いや、あの子は天然だから本当に気づいてないのかも」


「それは言えてる」


 二人の会話が風に乗った。


 薬草園の反対側で、水桶を提げた手が止まった。フェリクスは桶を畝の脇に下ろし、こぼれた水が黒い土に染みていくのを見ていた。それから桶をそこに置いたまま、山道へ引き返した。


* * *


 夕方。


 聖樹の前のベンチに、ミーリアとフェリクスが並んで座っていた。


 西の空が橙から紫に変わり、聖樹の枝の向こうに最初の星が光り始めた。源泉から立ち上る湯煙が、夕空に溶けていく。


「今日もいい一日でした」


「ああ」


「温泉のお客さんが増えて、薬草園の評判も広がって。クラリッサさんも頑張ってて。みんなが元気で——」


 ミーリアは言葉を切り、深く息を吸った。薬草と温泉の混じった空気が肺を満たした。


「のんびり、暮らせてます」


 フェリクスは答えなかった。黙って空を見ていた。


「フェリクスさん?」


「……何でもない」


 声が硬かった。ミーリアは首を傾げたが、追及しなかった。聖樹の幹に夕日の最後の光が当たり、古い苔が金色に染まっていた。


「そろそろ戻りましょうか。ロッテおばさんに薬草茶の新しい調合を見せたいんです」


「先に行け。俺はもう少しここにいる」


「わかりました。おやすみなさい、フェリクスさん」


 ミーリアが去った。


 足音が遠ざかるのを、フェリクスは動かずに聞いていた。


 聖樹の枝の間から、星が一つずつ増えていく。フィルが暗がりの中から音もなく現れ、フェリクスの肩に止まった。


〈決めた? 言う?〉


 フェリクスは拳を膝の上で握った。指の関節が白く浮き、外套の裾が夜風に揺れる。


〈フェリクス〉


「……明日だ」


 膝の上の拳がほどけ、フィルの光が肩の上で一度だけ強く瞬いた。


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