第95話 名誉領主
帝都からの使者が到着したのは、朝霧がまだ晴れきらない早朝だった。
馬車が二台。帝国自治行政局の紋章旗を掲げ、護衛騎士が四名ついている。辺境の集落には不釣り合いな一行が、谷の入口で馬車を降りた。
「グリュンハイム自治区のハンス村長殿はどちらに」
使者は三十代半ばの痩せた男だった。黒い外套に銀の留め金。帝都の役人の正装だ。谷間の湯煙と泥道に戸惑いの色が浮かんでいたが、声は丁寧だった。
「わしだ。遠いところをよく来なさった」
村長が集会所の前で迎えた。村人たちが遠巻きに見ている。帝都から人が来ること自体が珍しい。
使者が封書を差し出した。今度の蝋印は帝国議会の大紋章——正式決議の証だった。
「帝国議会の決議をお伝えいたします」
* * *
集会所に全員が集まった。
使者が立ち上がり、決議書を読み上げた。
「帝国議会決議第四百十二号。聖域山脈西端に位置するグリュンハイム自治区を、帝国保護下の特別自治領として承認する」
紙をめくる音がした。
「同自治区は独自の自治権を有し、内政においては村長の統治に委ねる。帝国への義務は年一回の納税、および災害時の星脈共鳴による協力とする」
村人たちがざわめいた。マルタが隣の人の腕を掴んでいる。ゲオルクが大きな手で頭を掻いている。ロッテは腕を組んだまま微動だにしなかった。
「併せて——」
使者がミーリアを見た。
「封印修復の功績により、ミーリア・ローゼンクロイツ殿に名誉領主の称号を授与いたします」
ミーリアの手が膝の上で跳ねた。
「名誉……領主?」
「正式な統治権はハンス村長殿に帰属いたします。ですがグリュンハイムの守護者として、ミーリア殿の名を帝国の記録に刻みます」
「大聖女の称号は辞退されたと伺っております。代わりとなる形を、議会で検討いたしました」
「あんた、名前だけ偉くなるってことかい」
ロッテが口を挟んだ。使者が頷いた。
「そうお取りいただいて差し支えありません」
使者が二枚目の書面を開いた。
「補足条項がございます。『名誉領主は宮廷への出仕義務を負わない。称号は当人の居住地に紐づく』——起草はリーナ様、と署名がございます」
「……リーナさん」
ミーリアは膝の上で指を組み直した。
「名誉領主として、何をすればいいんでしょうか」
「今までと同じことをなさってください。薬草園を守り、星脈の安定を保ち、この土地の人々と暮らす。それが——帝国議会の求めることです」
使者の口調に建前だけではない温度が混じった。長旅の疲れと、辺境の空気に触れた柔らかさが、帝都の役人の仮面の隙間から覗いていた。
「では、承認の証として——星脈共鳴をご披露いただくことは可能でしょうか。報告書に記載するため、直接拝見したいのですが」
ミーリアは村長と目を合わせた。村長が頷く。フェリクスが壁から背を離し、薬草園の方を顎で示した。
「畑で見せてやれ」
* * *
薬草園の中央に、ミーリアが立った。
使者と護衛騎士たちが畑の縁に並んでいる。村人たちもその後ろに集まった。クラリッサがロッテの隣に立ち、静かに見守っている。
ミーリアは靴を脱いだ。裸足の足が土に触れた。冷たい朝露と、その奥に流れる星脈の温もり。
「行くぞ」
フェリクスが五歩後ろに立った。精霊たちが周囲に集まっている。フィルがミーリアの肩の上で翡翠色に光り、テラが足元から顔を覗かせ、アクアが温泉の方角から水の粒を漂わせてきた。
ミーリアは目を閉じた。
両手を下げ、指先を地面に向ける。意識を足の裏に集中させた。星脈の脈動が聞こえる。以前のように荒々しい共鳴ではない。
川の流れに手を浸すように、自然に星脈の流れに溶け込んでいく。
瞳を開いた。金色だった虹彩が、白銀に変わっている。
地面に光が走った。
ミーリアの足元から、白銀の脈が放射状に広がっていく。畑の畝に沿って光が滑り、薬草の根元に触れると、葉がほんの少しだけ鮮やかになった。枯れかけていた端の一画で、萎れた茎が持ち直し、小さな芽が土を割って顔を出す。
光は穏やかだった。
以前のように頭が割れるような痛みはない。発熱もない。脈の一つ一つが安定していて、体を流れるエネルギーが整然と循環している。
「使者様。手を土につけてみてください」
ミーリアの声は落ち着いていた。光の脈が畑全体を包んでいる。半径二十メートルほどの範囲で、薬草の葉が朝露とともに白銀の輝きを帯びていた。
使者が膝をつき、手袋を外した。指を土に押しつけたまま動かなくなる。
「……温かい」
護衛騎士の一人が兜を脱いだ。枯れかけていた端の畝で、芽が指一本分ほど伸びている。ゲオルクが「おい、伸びとる」と誰にともなく言った。
〈嬉しい。みんな。笑ってる〉
フィルが光の中を飛び回った。翡翠色の軌跡が白銀の光と交差し、虹のような筋が空に浮かぶ。テラが地面の中で歓喜し、足元がぽこぽこと泡立った。アクアが空中で水滴を弾け散らせ、朝日を受けて虹色の飛沫になった。
〈もっと。土、まだ入る〉
テラが畝の端まで潜っていく。土が筋になって盛り上がり、そこだけ黒く湿った。
ミーリアは力を収めた。光がゆっくりと薄れ、畑はいつもの朝の色に戻っていく。けれど薬草の葉は先ほどより少しだけ鮮やかで、土は少しだけ温かかった。
使者が一歩前に出た。膝が微かに震えている。
「……これは、報告書に何と書けばよいのか」
「薬草師が畑の手入れをした、とお書きください」
ミーリアが微笑んだ。
村人たちから拍手が湧いた。マルタが涙を拭き、ゲオルクが大きな手で頭の上から叩くように拍手している。ロッテは拍手をしなかったが、口元が緩んでいた。
クラリッサが小さく頭を下げた。ミーリアの背中に向けて。誰にも気づかれないように。
* * *
使者が帰路につく準備をしている夕方。
ミーリアは薬草園の柵に腰を下ろし、夕日を眺めていた。名誉領主の称号証書が膝の上に置かれている。厚い羊皮紙に帝国の紋章が押され、金の箔が夕日を反射していた。
フェリクスが隣に立った。
「……領主様」
ミーリアが弾かれたように顔を上げた。
「やめてください、フェリクスさん! わたしはただの薬草師です!」
「名誉領主だろう。帝都が正式に認めた」
「それは称号で、わたしがやることは変わらないです。薬草を育てて、温泉のお手入れをして、精霊さんたちと暮らすだけです」
フェリクスの口元が動いた。笑ったのかもしれない。ミーリアが見上げた時にはもう無表情に戻っていたが、琥珀色の目の奥に温かい光が残っていた。
「……ならいい」
「よくないです。領主様って呼ばないでください」
「呼びたい時に呼ぶ」
「呼ばないでください!」
〈面白い。二人〉
フィルが肩の上で翡翠色に明滅した。夕焼けの光と精霊の光が混ざり合い、薬草園が淡い橙色に染まっている。
温泉の方角から湯煙が立ち上っていた。集会所の煙突から夕餉の煙が上がり、子供たちの声が谷間に響いている。マルタが誰かの名前を呼び、返事が二つ重なった。
ミーリアは称号証書を丁寧に折り畳み、胸元にしまった。
「明日、東の畝を起こします。手が要るんです」
「起こす」
「鍬、二本お願いします。朝の霧が晴れる前に」
フェリクスが柵から背を離した。ミーリアも柵を降り、裾についた枯れ草を払って、家の方へ歩き出す。
夕日が聖域山脈の向こうに沈んでいく。聖樹が微かに光を帯び、精霊たちの気配が谷間に満ちていた。




