第93話 独立承認への道
集会所の長机に、三通の書類が並んでいた。
一つはクラリッサが草案を書いた独立承認申請書の控え。もう一つは帝都から届いた審議状況の報告書。最後の一通が、帝国自治行政局からの条件提示書だった。
ハンス村長が全員の顔を見渡した。集会所にはミーリア、フェリクス、ロッテ、マルタ、クラリッサ、大工のゲオルク、それに村の古老たちが集まっていた。朝食の後、村の主だった者が呼ばれたのだ。
「結論から言おう。グリュンハイムの独立承認は、帝国議会で議題に上がっている。方向としては承認に向かっているが、条件がある」
村長が条件提示書を読み上げた。紙を持つ手が僅かに震えている。辺境の村長にとって、帝国議会の正式文書を読み上げるのは初めてのことだろう。
「第一に、自治区としての安定した産業基盤があること。これは薬草と温泉で証明できる。第二に、帝国への納税義務を果たすこと。現在の規模なら問題ない。そして第三」
村長が紙面から目を上げた。
「災害時に『辺境の聖女』が帝国領への協力を行うこと」
視線がミーリアに集まった。
「わたし、ですか」
「ミーリアさん。帝都はあなたの星脈共鳴の力を認めている。封印修復の件で、あなたの力がどれほどのものか、議会にも報告が上がっている」
クラリッサが口を開いた。椅子から半身を起こし、書類に目を落としている。
「帝国としては保険をかけたいのです。大きな地殻変動や星脈の異変が起きたとき、辺境から協力を得られる形にしておきたい」
クラリッサが審議状況の報告書を指で押さえた。
「リーナ嬢は自治権を一条も削らせずに、ここまで押し返しました。落としどころですわ」
クラリッサが自分の書類の束から一枚を抜いて、村長の前に置いた。表題に、北方自治区承認の記録、とある。第三条にあたる行が赤い線で囲われていた。
「八年前の北方も、同じ文言でしたわ。北方は今も自治のままです」
村長が紙を持ち上げ、目を近づけた。古老の一人が横から覗き込む。
「つまり……わたしが災害の時に手伝えば、グリュンハイムの独立が認められる、ということですか」
「平たく言えば、そうですわ」
「具体的には何をすればいいのでしょうか」
クラリッサが条件提示書をミーリアの側に回し、三条目の行を指でなぞった。爪の先が、行の終わりで止まる。
「要請が来て、現地に着いて、共鳴して、記録を残す。ここまでで一件ですわ」
ミーリアはなぞられた跡を目で追った。その行の下に、費用は帝国負担、と細い字の書き足しがある。
ゲオルクが大きな手を挙げた。
「ミーリアさんが遠くに行っちまう間、薬草園はどうなるんだ」
「短期の出張ですわ。長くても10日ほど。ロッテさんとわたくしで薬草園を守れます」
ロッテが鼻を鳴らした。
「守るも何も、あたしは元々ここの管理人だよ。あんたが来る前から守ってたさ」
「失礼いたしました」
クラリッサが顎を引いて、手元の書類の角を揃え直した。ロッテの口元が僅かに緩んだ。
ミーリアは条件提示書を見つめた。文字が並んでいる。帝都の官僚が書いた、形式ばった文章。けれどその向こうに、リーナが議会で戦ってくれている姿が見える。
「もちろんです」
ミーリアが顔を上げた。
「その代わり、書き足してほしいところがあります」
村長のペンが止まった。ミーリアは条件提示書の三条目を指した。
「要請を受けたら、まずその土地の人と話す時間をください。どこが痛んでるかは、住んでる人がいちばん知ってます」
村長がクラリッサを見た。クラリッサが手元の紙に、話す時間、と書きつけた。
「あと、共鳴だけで足りるとは限りません。ロッテさんの薬草も一緒に運べるようにしてください」
集会所が静かになった。
ロッテが「あんたらしいよ」と呟いて、腕を組み直した。マルタが目を拭い、ゲオルクが大きく頷いた。
フェリクスは壁にもたれたまま目を閉じていた。口元が僅かに緩んでいるのを、ミーリアは見つけた。
「村長さん。わたしに難しい書類は書けませんけど、この条件は受け入れます。グリュンハイムのみなさんが安心して暮らせるなら、それが一番です」
村長が深く頷いた。
「では、承認の返答を帝都に送ろう。クラリッサ殿、返答書の草案をお願いできるかな」
「承知しました」
クラリッサがペンを取った。その手つきは慣れたものだった。インク壺に先を浸し、紙の上で一瞬止め、それから滑らかに文字を連ねていく。最初の一行を書き終えると、ミーリアの書き足しの二点を、行を空けて先に写した。
* * *
午後になって、集会所の作業が一段落した。
ミーリアは帰り際に薬草園の源泉を見回った。余韻が薄れかけていた湯に手を浸し、軽く星脈共鳴を込めた。指先から白銀の光が広がり、湯面を波紋のように走っていく。
封印修復を経た今、この程度の共鳴では頭痛すら起きない。力が体に馴染んでいるのがわかる。
「安定してるな」
いつの間にかフェリクスが後ろに立っていた。
「はい。以前なら目眩がしていたのに、今は全然平気です」
「無理はするなよ」
「しません。約束します」
フェリクスが小さく頷いて去っていった。
薬草園に出ると、クラリッサが後から歩いてきた。作業着に着替えている。返答書の草案は完成していた。
二人で畑の端に立った。夕方の風が薬草の葉を揺らしている。ミーリアが出発する前に植えた月見草が、小さな蕾をつけていた。
「クラリッサさんが水をあげてくれたんですね、この子たち」
「ロッテさんに教わった通りにしただけですわ。朝と夕方に水を。量が難しくて、最初は枯らしかけましたけど」
クラリッサが足元の水桶を爪先で寄せた。縁が欠けている。内側に、泥の輪が乾いて残っていた。
「あの蕾、明日には咲くと思います。月見草は夕方から咲くんですよ」
「夕方から……昼間は閉じているのですか」
「はい。でも朝露を吸って、ゆっくり開いていくんです」
クラリッサが月見草の蕾を見つめていた。何かを考えている顔だった。
沈黙が流れた。
「ミーリア」
クラリッサが名前を呼んだ。
「わたくしは」
言葉が途切れた。クラリッサの手が、作業着の裾を握っていた。爪の間に土が入り込んでいる。帝都にいた頃の彼女なら、考えられない指先だった。
「この村で、やり直したいのです」
ミーリアはクラリッサの横顔を見た。日焼けした肌。土のついた指先。
「帝都に戻ることもできると思います。裁きを受けることも、それが正しいのかもしれません。けれど」
クラリッサの声が小さくなった。
「ここにいたいと思ってしまったのです。薬草園で土を触って、ロッテさんに怒鳴られて、村の人たちに少しずつ認めてもらって」
言葉を継ぐ前に、クラリッサが一度だけ唾を飲んだ。
「そんな日々が、初めて、自分の足で立っている気がしたのです」
風が畑を渡った。月見草の蕾が揺れる。
「もし許してくださるなら」
クラリッサがミーリアを見た。目が赤い。けれど涙は落ちていなかった。泣く前に言葉にしようとしている顔だった。
ミーリアは少しだけ考えた。
「わたしが許す、とか許さない、とか。そういうことじゃないと思います」
「え……」
「明日の朝、水やりをお願いしてもいいですか。わたし、源泉の見回りがあるので」
ミーリアは月見草の蕾を指した。
「量、もう覚えたんですよね。咲くところ、クラリッサさんが見てあげてください」
クラリッサの唇が震えた。
「ありがとう、ございます」
声がかすれていた。ミーリアは畑の土を見つめた。月見草の蕾が、明日には咲くだろう。
〈泣いてる。でも。いい涙〉
クラリッサが袖口で目を押さえた。作業着の袖に、湿った染みが小さく広がった。




