第92話 大聖女の称号
書状を三度読み返した。
帝国議会の正式決議。封印修復の功績を認め、ミーリア・ローゼンクロイツに「大聖女」の称号を授与する。併せて、帝都イグナシオンへの帰還を要請する。国家の守護者として宮廷に迎え入れたい。
集会所の机の上に書状を広げ、ハンス村長とロッテとフェリクスが囲んでいた。マルタが入口から首を伸ばし、窓の外には村人が何人か集まっている。噂は半刻で村中に広まっていた。
「大聖女だって? ミーリアちゃんが?」
マルタが声を上げた。集会所の外でもざわめきが起きている。
「すごいじゃないか。百年ぶりの大聖女だよ」
「百年ぶりって、あの大聖女アリーシアさま以来ってことかい」
鍛冶師の老人が窓の外から顔を突っ込んできた。白い髭に朝の露がついている。
「静かに。ミーリアさんが困ってるだろう」
村長が手で制した。
ロッテが腕を組んだ。目がミーリアを見ている。感心しているのではない。ミーリアが何を言うか、待っている顔だった。
ミーリアは書状の上に手を置いた。紙が皺にならないよう、丁寧に。帝都の紋章入りの高級な紙だった。宮廷にいた頃、こういう紙を毎日のように見ていた。けれど今は、薬草園の土のほうがよほど手に馴染む。
「お断りします」
集会所が静まった。外の村人たちも黙り込んだ。
「明日は温泉の湯口を掃除する日なんです」
「ミーリアさん。帝国議会の決議だ。辞退すれば政治的な波紋が」
「村長さん」
ミーリアは村長の目を見た。
「わたしは薬草師です。ここで薬草を育てて、温泉のお手入れをして、精霊さんたちと暮らしていく。それがわたしのしたいことです」
言い終えてから、ミーリアは自分の手を見た。爪の間に薬草園の土が残っている。書状の紙は、それに触れないよう机の端に寄せてあった。
「帝都に戻るつもりはありません」
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れ、集会所の壁に影が動いた。
フェリクスが壁にもたれたまま、口を開いた。
「辞退の返書は俺が運ぶ」
外の村人が黙り込んだ。窓枠に手をかけた鍛冶師の老人が、身を乗り出したまま止まっている。
「帝都まで、かね」
「議会がまた寄越したら、そのたび運ぶ」
ロッテが鼻を鳴らした。腕を組み直し、目を逸らした。マルタが目元を拭っている。鍛冶師の老人が「そうだとも」と呟き、窓枠を掌で二度叩いた。村長が白い髭を撫で、何度も頷いた。
「あんた、薬草茶の仕込み、まだ半分も覚えてないんだからね」
〈ここ。ずっと。ここ〉
フィルが集会所の窓から入り込み、ミーリアの肩に止まった。翡翠色の光が穏やかに明滅している。テラが床の隙間から顔を覗かせ、ミーリアの足元でころんと転がった。
「ミーリアちゃん……」
マルタの声が震えた。
「よかった。帝都に行っちゃうかと思って、朝から心配で……」
「行きません。ここがわたしの居場所ですから」
ミーリアの声は揺れなかった。書状を丁寧に畳み、机の上に置いた。帝都の紋章が、蝋燭の光を受けて鈍く光っていた。
* * *
集会所の外に出ると、夕方の風が涼しかった。
書状は机の上に残した。辞退の理由を帝国議会にどう書くかは、村長が引き受けてくれた。
大聖女という称号は、百年前のアリーシアが背負ったものだ。ミーリアは袖口を握った。アリーシアの掌の冷たさが、まだ自分の掌に残っている。
村人たちが入れ替わり立ち替わり声をかけてくる。「よかったよかった」「帰っちゃうかと思った」「ミーリアさんがいないと困る」。
「うちの婆さんの膝、あんたの薬湯で治ったんだ」
マルタが布に包んだパンを押しつけてきた。その後ろから子どもが卵を一つ差し出し、鍛冶師の老人が根のついた大根を柵に立てかけていく。断る間がなかった。
ゲオルクが大きな手でミーリアの肩を叩いた。力加減を間違えて、ミーリアが半歩よろめいた。
「すまん。だが、嬉しくてな。あんたが帝都に行ったら、温泉宿の拡張工事は誰が薬湯を仕込むんだ」
「わたしがいなくても、ロッテおばさんの薬草茶がありますよ」
「あれは薬草茶であって薬湯じゃねえ。あんたの星脈のやつが入らないと、温泉の効きが違うんだ」
ゲオルクが去ると、女の子が駆け寄ってきた。さっき膝に花を差してくれた子だ。
「おねーちゃん、ほんとに帰らないの?」
「帰りません。ここにいます」
「やった!」
女の子が飛び跳ねて走っていった。フィルがその後を追いかけ、翡翠色の光で女の子の足元を照らしている。
薬草園の柵に背をもたれて一息つくと、フェリクスが隣に立った。
「……疲れたか」
「いえ。みなさんの顔を見ていたら、元気が出ました」
「そうか」
フェリクスの視線が薬草園の向こうに向いていた。夕日が聖域山脈の稜線を赤く縁取っている。山の端に薄い雲がかかり、橙と紫のグラデーションが空に広がっていた。
「お前が帝都に戻ると言ったら」
言葉が途切れた。フェリクスの喉が動いた。
「言わないです」
ミーリアが先に答えた。
「ここにいます。フェリクスさんの隣に」
フェリクスの手が柵の上に置かれた。ミーリアの手のすぐ隣、指が触れるか触れないかの距離だった。夕日の光がその二つの手を橙色に染めている。
〈近い。近い〉
フィルの声が遠くから聞こえたが、二人とも聞こえないふりをした。
* * *
翌朝、ミーリアが薬草園で水やりをしていると、ハンス村長が集会所から出てきた。手にもう一通の書状を持っている。昨日の大聖女の書状とは異なる封書だった。
「ミーリアさん。昨日は大聖女の書状で手いっぱいだったが、実はもう一つ、同じ便で届いたものがある」
封書は先のものより小さく、蝋の紋章が異なっていた。帝国議会ではなく、帝国自治行政局の印だ。
「グリュンハイムの独立承認に関する書状だよ」
ミーリアは水桶を地面に置いた。
「独立承認……クラリッサさんが草案を書いてくれていた、あの申請の返事ですか」
「そうだ。帝都で正式に議題に上がっている」
村長が書状を広げた。朝の光が紙面を照らし、細かい文字が浮かび上がる。
「リーナ嬢の後押しがあったようだ。議会に影響力を持つ方がグリュンハイムの自治権拡大を支持してくれている」
リーナの名前を聞いて、ミーリアの胸が温かくなった。あの夜、泣いていたミーリアに一言だけかけてくれた銀髪の令嬢。封印修復で共に戦った仲間。帝都に戻ってからも、こうして力を貸してくれている。
「リーナさま……」
ミーリアは書状を胸に当てた。朝露に濡れた薬草の香りが鼻をくすぐる。
クラリッサが集会所の前に立っているのが見えた。昨日の書状の内容は聞いている。独立承認の草案を書いたのは彼女だ。遠くから、小さく頷いた。
「村長さん。その書状、集会所に貼ってもらえますか。みんなに読んでほしいので」
「そうしよう。今日の昼にでも」
村長が封書を丸めて脇に挟み、集会所のほうへ戻っていった。ミーリアは水桶を持ち上げ、畝の間に戻った。柄杓を傾けると、こぼれた水がテラの土色の表面をわずかに濡らした。




