第90話 それぞれの道
出発の朝は、穏やかに明けた。
聖域山脈の麓。古い祠の前に焚火の跡が残っている。数日間を過ごした小屋の周囲には、ミーリアの星脈共鳴の余韻で小さな花が咲いていた。白い花弁が朝露に濡れて、朝日を受けて光っている。
リーナが荷物をまとめていた。随行のルシアンが馬の準備を整えている。手際がよく、無駄がない。
カイトは既に身支度を終え、ソフィアと並んで岩に腰かけていた。荷物は革の肩掛け袋が一つだけ。
「荷物少ねぇな、お前ら」
フェリクスがカイトに視線を向けた。
「冒険者は身軽が基本だ。山守にはわかんねぇだろうけどな」
「口の利き方を」
「フェリクスさん」
ミーリアが間に入った。毛布を畳みながら、小さく首を振る。フェリクスは口を閉じたが、納得した顔ではなかった。カイトが口の端を上げた。
「山守、嫁にそうやって止められるのな」
「嫁って言うな」
「フェリクスさん、真っ赤ですよ」
「赤くない」
フィルが〈赤い〉と囃した。
* * *
最後の夜は、焚火を囲んだ。
聖域山脈の空は雲がなく、星が降るように光っていた。焚火の炎が顔を照らし、影を揺らしている。薪が爆ぜる音が、静かな夜に響いた。
リーナが紅茶を淹れた。携帯用の茶器から湯気が立つ。人数分の杯を並べ、一つずつ丁寧に注いでいく。
「明日にはそれぞれ別の方角へ発ちますわ。今夜くらい、ゆっくりお話ししましょう」
カイトが火に枝をくべた。
「何を話すんだ」
「これからのこと、ですわ」
リーナが紅茶を一口すすった。
「わたくしは帝都に戻ります。聖女制度の改革と、新しい政治体制の構築に取り組まなければなりませんの。やるべきことが山積みですわ」
「大変そうですね」
「大変ですわよ。でも、放っておけませんもの」
リーナが火越しにミーリアを見た。炎の光が紫の瞳に映り込んでいる。
「近いうちに辺境視察の名目で伺いますわ。温泉に浸かりたいですもの」
ミーリアの顔がほころんだ。
「はい、ぜひ来てください。薬湯も新しいのを作っておきます」
「楽しみにしていますわ。フェリクスさまにもよろしく伝えて、と言いたいところですけれど、隣にいらっしゃいますわね」
フェリクスが紅茶の杯を傾けた。
「……来るなら前もって連絡しろ。客間を用意する」
「あら、お招きいただけるのですか」
「ミーリアが喜ぶからな」
カイトが火の向こうから口を開いた。
「俺は迷宮都市に戻る。次のダンジョンが待ってるからな」
「カイトさんは休まないんですか?」
「休んでどうする。体は動くうちに動かすもんだ」
ソフィアが隣で腕を組んだ。
「この人、じっとしてると三日で壊れるのよ」
「壊れねぇよ」
「壊れるわよ。前も宿で三日間何もしなかったら壁に穴開けてたじゃない」
「あれは素振りだ」
「室内で剣を振るのは素振りとは言わないの」
ミーリアは小さく笑った。二人のやり取りが、ロッテおばさんとマルタの口喧嘩に似ていると思った。
「カイトさん。もしよかったら、グリュンハイムにも来てください。温泉とお酒を用意して待っています」
「酒を用意しとけ。温泉はどうでもいい」
「温泉も入ってください。体にいいんですよ。薬湯は筋肉の疲労にも効きます」
「押すな」
「温泉、いいわね」
ソフィアが呟いた。カイトは返事をせず、火に枝を投げ込んだ。枝が炎に沈んで、爆ぜた。
ルシアンが焚火の向こうからリーナに声をかけた。
「明日の出発は夜明けでいいか」
「ええ。馬の状態は?」
「問題ない。交易ルートの安全は保証する」
リーナが頷いた。
フェリクスが黙って焚火を見つめていた。ミーリアが横から覗き込んだ。
「フェリクスさん、何か言いたそうですよ」
「……別に」
「嘘です。顔に出てますよ」
フェリクスは火に視線を落としたまま、低い声で言った。
「……山の精霊に乗っておけ」
カイトを見ていた。
「帰りの山道は精霊が安全な道を教える。お前の勘だけじゃ危ない」
カイトが眉を上げた。
「山守が俺の心配をするのか」
「お前の心配じゃない。そこの嬢ちゃんが困る」
ソフィアが目を丸くし、それからふっと笑った。
「ありがとう、山守さん」
フェリクスは火の向こうに視線を戻した。
* * *
夜が更けた。
カイトとソフィアが先に眠りについた。ルシアンが見張りに立っている。
焚火の前に、ミーリアとリーナとフェリクスが残っていた。火が小さくなり、薪の最後の一本が炭に変わろうとしている。
リーナが空を見上げた。星が瞬いている。月はまだ昇っていない。
「百年前、アリーシアさまは一人でした。仲間がいなかった。だから命と引き換えにするしかなかった」
「はい」
「わたくしたちは、水袋を三つに分けて持ちましたわ。祭壇の記録はルシアンが取って、あなたが星脈を読んで、わたくしが結界を張った」
リーナが杯の底に残った茶葉を火に落とした。灰が小さく舞い上がる。
「帰り道、三度休みましたわね。あなたが膝を押さえるたびに」
「……気づいてらしたんですか」
「ええ。全部」
ミーリアは頷いた。
「リーナさま。わたし、あの夜、泣いていてよかったと思います」
「あら。なぜ?」
「泣いていなかったら、リーナさまに声をかけてもらえなかった。あの一言がなかったら、ここにいなかったかもしれません」
リーナが少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「そう。わたくしも、あなたが泣いていてくれて、よかったですわ」
リーナがミーリアの杯に紅茶を注ぎ足した。ミーリアは両手で受け取り、指先を杯の腹に押し当てた。
フェリクスは何も言わず、二人のやり取りを聞いていた。火が消えかけている。薪束に伸ばしかけた手を、膝の上に戻した。
* * *
翌朝。
リーナが馬上から手を振った。
「では、また近いうちに」
「はい。お気をつけて、リーナさま」
「ミーリアさんも。無茶はなさらないでくださいましね」
「はい……気をつけます」
ルシアンが馬を発進させた。銀色の髪が朝霧の中で揺れ、やがて北の方角へ消えていく。
カイトとソフィアは山道を東へ向かった。
「じゃあな」
「カイトさん、お体に気をつけて」
「余計な世話だ」
ソフィアが振り返って手を振った。カイトは振り返らなかった。けれど五歩ほど進んで、ぼそりと呟くのが聞こえた。
「……酒、期待してるからな」
ミーリアは手を振り続けた。二人の背中が山道の曲がり角で見えなくなるまで。
静かになった。
聖域山脈の麓に、ミーリアとフェリクスだけが残っている。精霊たちが周囲をゆっくり飛んでいた。フィルが翡翠色に明滅しながら、ミーリアの肩に止まった。
〈帰る?〉
「帰ります」
ミーリアはフェリクスの方を向いた。
フェリクスは山の稜線を見つめていた。朝日が雪を被った峰々を照らし、空気が澄んでいる。
「フェリクスさん」
「ああ」
「帰りましょう」
フェリクスがミーリアを見た。琥珀色の瞳が朝日を受けて、温かく光っていた。目の下の隈はまだ残っているが、表情は穏やかだった。
「帰ろう。うちに」
うち、と口の中で繰り返した。喉の奥がつかえて、ミーリアは息を吸い直した。
グリュンハイムが待っている。ロッテおばさんの薬草園と、マルタの温泉宿と、ハンスさんの穏やかな笑顔と、クラリッサの不器用な頑張りと。
ミーリアはフェリクスの隣に並んだ。
二人の足音が山道に響く。精霊たちが先を飛び、道を照らしていく。
フェリクスの手が、そっとミーリアの手に触れた。指を絡めてくる。
ミーリアは握り返した。
「フェリクスさん、少し速いです」
「……ああ」
フェリクスが歩幅を緩めた。繋いだ手はそのままだった。フィルが二人の前に出て、翡翠色に明滅している。




