第89話 目覚め
水の音が聞こえた。
近くで、誰かが布を絞っている。水滴が器に落ちる小さな音。規則的で、穏やかなリズム。
ミーリアは瞼を開けた。
天井が見えた。岩肌ではない。木の梁が渡してある。粗末だけれど温もりのある造りだった。窓から差し込む光が白い。朝なのか夕方なのかわからなかった。
首を動かすと、すぐ横にフェリクスがいた。
木の椅子に腰かけ、桶の中で布を絞っている。目の下の隈が深い。頬がこけている。髪も乱れたまま。服は何日も着替えていないように見えた。袖が皺だらけで、右の袖口に乾いた泥がついている。
ミーリアの視線に気づいた。
手が止まった。
琥珀色の瞳がミーリアを見つめた。数秒、何も言わなかった。布を絞る手が、微かに震えていた。
「……おかえり」
フェリクスは布を桶に戻して、もう一度絞った。水はもう落ちなかった。
ミーリアは唇を動かした。喉が乾いていて、声が掠れた。
「ただいま、です。フェリクスさん、また寝てないでしょう」
「……うるさい。寝る暇があるか」
フェリクスは濡れた布をミーリアの額に乗せた。ひんやりとした感触が心地よかった。布が額に触れた瞬間、体全体に涼やかさが広がっていく。
「二日間ですからね。寝てないんですよね、やっぱり」
「……少しは寝た」
フェリクスの瞼が一度落ちて、すぐに開いた。ミーリアは何も言わず、フェリクスの手に自分の手を重ねた。
フェリクスの指がぴくりと動いたが、振り払わなかった。ミーリアの手は冷たかった。フェリクスの手は乾いていて、節が硬い。けれど温かかった。
「……手が冷えてるな」
「フェリクスさんの手が温かいんです」
「お前が冷えてるんだ。毛布を足す」
フェリクスは手を引こうとしたが、ミーリアが離さなかった。
「もう少しだけ、このままで」
フェリクスは黙って座り直した。手を重ねたまま、もう片方の手で毛布の端を引き上げてミーリアの肩にかけた。
* * *
体を起こすと、小屋の中に他の気配があった。
入口の近くにリーナが座っていた。椅子の上で足を組み、手帳に何かを書き込んでいる。几帳面な筆跡が手帳の頁を埋めている。ミーリアの動きに気づいて顔を上げた。
「心配しましたわよ。二日間ですもの」
「ご迷惑をおかけしました、リーナさま」
「迷惑なものですか。封印は安定化しましたわ。あなたのおかげですのよ」
リーナが立ち上がり、ミーリアの枕元に歩み寄った。紫の瞳で全身を見つめ、小さく頷いた。その目に不思議な光が宿っている。旋律を聴いているのだろう。
「手を」
リーナがミーリアの手首を取った。目を伏せたまま、しばらく黙っている。それから指を離し、瞼を押し上げて白目を覗き込んだ。
「今日は水と粥だけになさい。外に出るのは、日が傾いてからですわ」
入口の壁にもたれかかっていた人影が、ぼそりと声を出した。
「死ぬかと思ったぞ。勝手に死なれると寝覚めが悪い」
カイトだった。腕を組んで壁に背中を預けている。視線はそっぽを向いたままだ。
「カイトさん……待っていてくれたんですか?」
「待ってたわけじゃねぇよ。出発の準備ができてなかっただけだ」
ソフィアがカイトの横で肩をすくめた。小さく「素直じゃないのよね」と呟いたのが聞こえた。
ミーリアは三人の顔を見渡した。
リーナの落ち着いた微笑み。カイトのぶっきらぼうな横顔。そしてフェリクスの、隈の深い琥珀色の瞳。
「ありがとうございます。わたし一人では、絶対にできなかった」
「一人でやろうとするのが、そもそもお前の悪い癖だ」
フェリクスが水の入った器を差し出した。ミーリアは両手で受け取って口をつけた。冷たい水が喉を流れ落ち、体の芯に染みた。
「おいしい……」
「山の湧き水だ。アクアが見つけてきた」
アクアが器の水面をそっと揺らした。
〈飲んで。もっと〉
「ありがとう、アクアさん」
ミーリアは器を空にし、もう一杯もらった。水が体に行き渡るにつれて、指先の痺れが少しずつ引いていく。
器を膝の上に置き、自分の髪に手を伸ばした。
指の間を通る髪の中に、白い筋が混じっている。栗色の中に、はっきりとした白銀の束。指で挟むと、そこだけ他の髪より硬かった。
フェリクスの視線がそこに留まった。
「……気にするな」
「気にしてませんよ。アリーシアさまの記憶を受け取った証ですから」
ミーリアは白い筋を指で撫でた。
「アリーシアさまは、ずっと一人で守っていたんです。つらくて、さみしくて。でも手を離さなかった。百年後の誰かを信じて」
声が少し震えた。けれど泣かなかった。
「わたしは一人じゃなかった。フェリクスさんがいて、リーナさまとカイトさんがいて、精霊たちがいて。だから、ここにいます」
フィルが窓から飛び込んできた。翡翠色の光を明滅させながらミーリアの膝に止まった。
〈起きた! 元気?〉
「元気ですよ、フィルさん。ありがとう」
テラが小屋の隅からゆっくり転がってきた。
〈よかった。大地も喜んでる〉
ミーリアは精霊たちに囲まれて、小さく笑った。体はまだ重い。指先が痺れている。頭の奥に鈍い痛みが残っている。
「フェリクスさん、もう一杯」
「三杯目だぞ」
「はい」
フェリクスが器を受け取って、立ち上がった。
* * *
夕方になって、ミーリアは小屋の前に出た。
フェリクスに肩を借りて、入口の段差を降りる。冷たい山の風が頬に触れた。汗が冷えて、一瞬身震いがした。フェリクスがすぐに外套を肩にかけた。
「寒くないか」
「大丈夫です。外の空気、気持ちいい」
聖域山脈の稜線が夕焼けに染まっていた。雪を頂いた峰々が橙色に輝き、空気が澄んでいて、遠くの谷間まで見渡せた。空が広い。封印の間の暗い空洞にいた後では、この夕焼けがまぶしかった。
「綺麗……」
「ああ」
フェリクスがミーリアを岩の上に座らせた。隣に腰を下ろす。肩が触れる距離。
リーナが小屋から出てきた。ミーリアの隣に立ち、山脈を見上げた。銀色の髪が夕焼けに染まっている。
「封印は安定しましたわ。あと百年は大丈夫でしょう」
「百年、ですか」
「ええ。けれど百年後にまた、誰かが修復する必要がありますわ」
ミーリアは夕焼けの空を見つめた。
「その頃には、わたしたちはもういませんね」
「でも、あなたが育てた土地がある。あなたが残した力がある。百年後の誰かが、あなたの力を引き継ぐかもしれませんわ」
アリーシアがそうしたように。ミーリアが今、アリーシアの祈りを受け継いだように。
ミーリアは頷いた。
リーナが少し間を置いて、静かに告げた。
「ミーリアさん。封印は安定しました。ですが、帝都では大きな決定が待っています。あなたの処遇について」
「処遇……ですか」
リーナが手帳を開き、挟んであった紙束を抜いた。
「宮廷からの書状が九通。差出人はみな別々ですのに、書いてあることは同じですわ」
「……なんと」
「あなたを帝都へ呼べ、と。七通には日付まで入っておりますの」
ミーリアは肩の外套を引き寄せた。
「わたしは、ただの薬草師です」
「ええ。それは帝都に、わたくしから伝えますわ」
リーナが微笑んだ。夕日が銀色の髪を橙色に染めていた。
フェリクスが黙ってミーリアの肩に手を置いた。ミーリアは肩に置かれたその手に、頭をもたせかけた。
「リーナさまは、帝都へいつ発たれるんですか」
「明日の朝には。ここでの仕事はもう終わりましたもの」
リーナが夕焼けから目を離して、ミーリアを見た。
「向こうはもう動いています。わたくしが先に着かないと、間に合いませんわ」
ミーリアの肩に置かれたフェリクスの手に、力がこもった。




