第88話 アリーシアの涙
白銀の光が視界を満たした。
ミーリアの意識が引きずり込まれる。体は封印の間の床に手を当てたまま動かない。けれど心だけが、百年前の時間へ落ちていく。
映像が流れ込んできた。
* * *
大崩落の夜。
空が裂けていた。大地が割れ、星脈のエネルギーが制御を失って噴き出している。帝国東部の三つの州が光に飲み込まれ、人々の悲鳴が風に千切れて消えていく。
その渦中に、一人の女性が立っていた。
栗色の長い髪。白銀に輝く瞳。ミーリアと同じ顔立ちではないけれど、同じ星脈の光を纏っている。大聖女アリーシア・ローゼンクロイツ。
アリーシアは大地に膝をつき、両手を地面に押し当てていた。白銀の脈が体から溢れ、割れた大地を塞ごうとしている。けれど裂け目の端が見えない。
背後から声がかかった。帝国の官僚たちだ。
「大聖女さま、封印を! このままでは帝国が滅びます!」
「裂け目は三州にまたがっております。端まで数百キロと」
「陛下はもう帝都を出られました!」
アリーシアは振り返らなかった。額に汗が流れ、唇が震えている。
「……三つ、ですか」
「三つです!」
「わかっています」
「で、では、いつ——」
「今すぐに。下がっていてください。巻き込まれます」
官僚たちの足音が遠ざかった。誰も残らなかった。
アリーシアは目を閉じた。全身の星脈を開放し、大地に注ぎ込んだ。白銀の光が大陸を覆うように広がっていく。封印の紋様が地面に刻まれ、裂け目が塞がり、噴き出すエネルギーが抑え込まれていく。
けれどその代償として、アリーシアの体から命が流れ出していた。髪が白く変わる。肌が透けるように青白くなる。手足の感覚が消えていく。
それでも手を離さなかった。
* * *
映像が変わった。
封印が完成した直後の、静寂の空洞。今ミーリアたちが立っているこの場所だ。
アリーシアは一人で座っていた。白くなった髪を垂らし、壁にもたれかかっている。体はもう動かない。命の大半を封印に注ぎ込んだ。残り時間は、わずかだった。
通路の奥で伝令の声がした。「封印は成功した。帝国は救われた」。足音が遠ざかり、やがて消えた。
涙が一筋、頬を伝った。
「ひとりは……つらい」
「手が冷たい。もう、指が動きません」
声は空洞に反響して消えていく。
「でも、誰かがやらなければ。この大地が死んでしまうから」
「ここは、麦の採れる土地でした。三年前に、いただいたことがあります」
アリーシアは震える手を持ち上げ、封印の紋様に触れた。指先にはもう感覚がほとんど残っていない。それでも光の残滓が紋様に染み込んでいく。
「名前は、いりません。誰でもいいのです」
「いつか……わたしの後を継ぐ者が現れますように」
指先が紋様の溝に沈んだ。爪の先が石を掻いた。
「一人で抱え込まなくていい人が。仲間と一緒に、この大地を守ってくれる人が」
指が紋様の線を辿った。白銀の光が揺れた。
「膝をつくとき、隣にもう一人、膝をつく人が」
アリーシアの体が光に溶けていく。輪郭が薄れ、髪が散った。唇の端が上がったまま、指だけが紋様に残り、それも消えた。
* * *
記憶が途切れた。
ミーリアの意識が現在に戻る。頬が濡れていた。涙が止まらなかった。服の袖で拭おうとしたが、手が床から離せない。星脈共鳴がまだ続いている。
三人の力が同時に極限に達した瞬間だった。リーナの旋律、カイトの全属性、ミーリアの星脈共鳴。三つが重なり合い、空洞全体が白銀の光に包まれている。
見ていたのはミーリアだけではなかった。リーナが高い位置で目元を拭い、カイトが中央で顔を伏せている。二人とも肩が動いていた。
「今の……見えましたの」
「ああ。見えた」
ミーリアは手を地面に押し当てたまま、声を絞り出した。
「アリーシアさま……ずっと一人で、百年間、ここで守っていたんですね」
涙が床に落ちた。白銀の光が、その雫を包んで輝いた。温もりが返ってくる。アリーシアの紋様が、涙を受け止めたかのように柔らかく光った。
「聞こえますか。手を、ここに置いています」
「もう一人じゃないです。わたしたち、ここにいます」
空洞の空気が震えた。
微かな温もりが、床から手のひらを通じて流れ込んできた。手首を上がり、肘を越え、指の先まで熱が回った。
〈ありがとう。あなたたちが来てくれた〉
アリーシアの声だった。精霊の声と同じ〈〉の中で鳴っている。空洞には反響しなかった。ミーリアの耳の奥で、息を吐ききる長さだけ続いて止まった。
封印の紋様から瘴気が完全に消えた。亀裂が塞がり、新しい層が古い紋様の上に編み上がっていく。三人の力が注ぎ込まれた封印は、百年前よりも厚く、強い。
空洞全体が穏やかな白銀の光に包まれた。
天井から降り注ぐ光は、もう脈打っていない。
カイトが中央で膝をついていた。全属性を注ぎ込み尽くした体が震えている。ソフィアが肩を支えた。
「終わった……のか」
「ええ。瘴気はもう出ていないわ」
「そうか」
「立てる?」
「……少し待ってくれ」
「カイト、手を見せなさいな」
「なんともない。焦げただけだ」
カイトが息を吐いた。指の火が消えた。
リーナが高い位置から降りてきた。紫の瞳が元に戻っている。息が荒い。頬に涙の跡が残っていた。
「封印は安定しましたわ。弦が三本、切れましたけれど」
「上の連中には」
「わたくしが報告しますわ。あなたは、そちらを」
フェリクスはミーリアの方を見た。
ミーリアは目を閉じたまま床に手を当てていた。白銀の光が全身を包んでいる。髪の白い筋が増えていた。栗色の中に、白銀の束が混じっている。
頬が濡れたまま、唇が微かに動いていた。
「ミーリア?」
返事がなかった。
「何か言っていますわ」
「……聞こえない」
唇の動きだけが読み取れた。「ありがとうございます、ご先祖さま」と繰り返している。
ミーリアの体が傾いだ。手が床から離れ、そのまま横に倒れた。
フェリクスが駆け寄った。ミーリアを抱き起こす。頬を叩く。
「ミーリア! 起きろ!」
応答がなかった。
白い髪が増えている。けれど瞳は穏やかに閉じており、唇に微かな笑みが浮かんでいた。アリーシアの最期と同じ表情。けれどアリーシアとは違う。胸が上下している。息がある。
フィルがミーリアの胸の上に降りた。小さな翡翠の光が明滅している。
〈生きてる。眠ってる。大丈夫〉
「……何日だ」
〈わからない。でも起きる〉
「……根拠は」
〈におい。生きてるにおいがする〉
「……フィル。離れるな」
〈離れない。ここにいる〉
フェリクスの手が震えていた。ミーリアを抱えたまま動けない。白い髪の束が、フェリクスの腕にかかっている。
「……馬鹿。また無茶しやがって」
「……起きたら、全部聞かせろ」
声が掠れた。白銀の光の中で、フェリクスの琥珀色の瞳が揺れていた。
リーナが静かに近づいてきた。ミーリアの手首に指を当て、脈を確認した。
「大丈夫ですわ。脈は安定しています。消耗が激しいだけ。休めば回復します」
「熱は」
「ありませんわ。むしろ低いくらい」
「……上まで運ぶ。担架を組め」
「わたくしが指示を出しますわ。カイトの分も要りますもの」
フェリクスは頷いたが、ミーリアを離さなかった。
カイトが封印の核の前に座り込んでいた。ソフィアに肩を借りながら、ミーリアの方を見た。
「……強い奴だな、あの聖女」
「ええ。強い人よ」
「……二人ともな」
カイトが言い直した。ソフィアが頷いた。
「担架、できましたわ。持ち上げますわよ。……そっと」
ミーリアは眠り続けていた。フェリクスの腕にかかった白い髪の束が、呼吸のたびにわずかに上下している。封印の紋様は、まだ薄く光っていた。




